レッスン34
「それ以降、浩太は変わりました。―――いや、強引な性質や傲慢な性格は以前とそれほど変わらなかったのですが―――陰で気の弱い人間や優しい人間に付け込んで貶めたり、悪意のある悪戯を仕掛けたりといった処まで行き過ぎる事が無くなったようです。遣り過ぎる手前で、ブレーキがかかるようになったのでしょうね」
熊野さんが、少し目を細めて申し訳なさそうに私を見て言った。
じゃあ私がいなくなった事で梶原君は成長した……という事なのかな。
「姫野さんが突然転校した事が、浩太には本当にショックだったんです」
「梶原君が?……私の転校でショックを受けたなんて、正直あまり信じられません……それにそんな記憶も無いですし……」
と言うかその辺り……私の転校は多分先生の口から事前にクラスメイトに知らされたハズなんだけど、その時のクラスの様子や梶原君の反応なんて、さっぱり思い出せない。
その頃と言えば、私は梶原君を視界に入れないように、彼の視界の入らないように気を配る事が一番の関心事で、とにかく必死だった。
私が転校したからと言って彼が何を思うかなんて、考える余裕も無かった。
「きっと浩太は自分がショックを受けている事自体にも―――戸惑っていたんだと思います。だからきっとそんな素振りを表には出していなかったのかもしれません」
「……梶原君が私の事でショックを受けるって、全くイメージがわかないです。彼にとっては私はただ邪魔な存在だって、ずっと言われ続けていたので」
やはり未だに違和感があるのだ。
ただ私にとって彼は―――豪胆な悪魔で、恐怖の大魔王だった。
彼がそんな人間らしい弱さを持っているなんて。そして後悔する気持ちがあるなんて、全く現実感が無い気がする。
熊野さんの口から語られる『梶原浩太』は、私の知っている彼と違う一面を持っていた。けれども幼くて弱かった私は、梶原君の一つの面しか捕らえる事が出来なかった。
「……仕方ないですね。それは浩太が自分で招いた事です。そう思われても仕方が無いほど、取り返しのつかない事をしたんですから」
熊野さんは溜息を吐いた。
そして何かを振り払うようにグイっとコーヒーを飲み干すと顔を上げて、話題を変えた。
「姫野さんに会えなくなって、俺は代わりにホッケーに全力を注ぐようになりました。その頃はもうチーム練以外の日も、ほとんど自主練でスケート場に通ようになったんですよ」
私の緊張を解すようにニコリと笑いかけてくれる。
少し無理をしているような?そんな笑顔だった。
「最初はただ単に、浩太は俺と入れ替わる事に興味を失ったのだと思っていたんです。浩太の代わりに姫野さんに会えないのは残念だけど、中学校に上がったら―――姫野さんに会いに行こうと密かに心に決めていました。今度は『梶原浩太』の偽物では無く『熊野豪太』として貴女の前に堂々と現れたい。そう願ってホッケーの練習に力を注いでいました。姫野さんの前で胸を張れるくらい強くなりたいと―――それを励みに日々の練習に向き合う事ができたんです」
熊野さんは溜息を吐いて、瞼を閉じた。
微かにその瞼が、震えているように見えてドキリとする。
「小学校の卒業式が近づいて来て、俺は姫野さんに会いに行こうという決意を更に強く固めました。それまで俺は、気の毒な境遇の浩太に遠慮してなるべく浩太の意志を尊重して来たんです。だけど今回ばかりは浩太の意志に反しても、これまで入れ替わっていた事実を姫野さんに打ち明けて謝ろうと思っていました。だから浩太に、できれば一緒に姫野さんを騙していた事を謝って欲しいと―――頼みました」
「熊野さん……」
そんな風に思ってくれていたの?
私はその頃、熊野さんの存在さえ知らなかったのに。
「だけどその時はもう、何もかも遅かったんです。俺を姫野さんから遠ざけて、浩太は姫野さんをオモチャを壊すみたいに手酷く扱った。そして姫野さんが学校を変えざるを得ないほど、傷つけてしまったんです。もともと―――俺には姫野さんに会わす顔なんか無かったんだと、情けない事にその時初めて気が付きました。……結果として俺が興味を抱いた事が、姫野さんを追い詰めた」
伏せた瞼が震えているのは気のせいじゃない。
熊野さんはその震えを振り払うように、ギュッと目を瞑ってから再び瞼を開いて、その精悍な双眸を私に向けた。
「それに姫野さんが顔も見たく無いと思い詰めるほど嫌いな浩太と、俺は同じ顔なんです。姫野さんの前に出ていく事なんかできません―――許しを請う事も―――俺にはその権利さえなくなっていたんです」
熊野さんは切なそうに私を見た。
懇願するような、恐れるような―――
それを確かに感じているのに、慰めの言葉を掛ける事が出来ない。
「……」
私を虐めたのは梶原君だ。それにそれは決して熊野さんの所為では、無い。
熊野さんがその事で必要以上に自分を責めるのは間違いだと思う。
でも。
ある意味納得もしてしまう。
あの頃の私は―――
梶原君の声も顔も、気配や人づてに聞く彼の話題さえ、梶原君に関わる全てを嫌悪していた。気配を感じるだけで―――恐怖で凍り付いてしまうくらいに。
その氷点下までキンキンに冷えた脚を必死で動かしながら、新しい環境へやっとの事で逃げ込んだのだ。
その頃の私は、とてもビクビクしていた。新しい学校や友達に馴染むまで―――かなり勇気が必要だったし、時間が掛かった。
そんな必死な状態の私の前にもし、梶原君と同じ顔をした熊野さんが現れたら。
―――きっとパニックになって、新しい学校に馴染む事も出来なくなっていただろう。
「俺は姫野さんに会う事を諦めました。だからいっそ、姫野さんに貰った勇気一つだけを持って、浩太から―――浩太に対する罪悪感からも離れて一度一人で生きてみようと思ったんです。そして俺は―――それからホッケーのプロになる為に、カナダに留学する事に決めたんです」
熊野さんの台詞に思わずポカンとしてしまった。
「……『カナダ』……ですか?」
つい、単語を復唱してしまう。
決心して飛び出すにしても、私と熊野さんでは次元が違うんだな、とその時思った。
私は梶原君と決別するため―――違う小学校へ逃げたけど、そこは所詮同じ札幌市内だ。
熊野さんってば、グローバルだわ。
海外ですか。
スケールが違う。これって、体力の違いによるものなのか。
なんか私がスゴイ影響を与えたような、そんな口振りだけど……
「十五歳から入学できるアイスホッケーの学校があるんです。そこへ入ってNHLに入ろうと思いました。姫野さんにもう会えないと思ったら、何だか日本に未練が無くなってしまったんです」
「そんな大げさな……」
私が弾いたピアノを何度か聞いて、一言二言交わした程度の間柄だ。
その程度の関係の私に会えないからといって日本を飛び出しちゃおうと考える、その発想がスゴイ。『NHL』って確かアイスホッケーのプロリーグの事……だよね?米国の……。
―――それ絶対私の所為じゃ無い。熊野さんのもともとのポテンシャルが高いんだと思う。




