レッスン33
「浩太はいつの頃からかぱったりと、俺に『入れ替わり』を持ち掛けて来なくなりました。俺がそれとなく話を振っても、誤魔化して話を逸らすようになった。姫野さんと会えなくなって学校に様子を見に行こうかと考える事もありました。けれども自分の学校を休んで姫野さんと浩太の学校を訪ねてしまうと『入れ替わり』自体がバレてしまいます。週末に会うたび歯切れの悪い返事をする浩太に、ジリジリする日々が続きました」
そして熊野さんは、辛そうに眉を顰めた。
「きっとその時にはもう、俺の密かな楽しみが何なのか浩太は把握してしまったのでしょう……おそらく浩太の姫野さんへの酷い仕打ちが始まっていた。浩太は俺から姫野さんと会う権利を取り上げ、俺が昔好きだったオモチャを壊したのと同じ感覚で姫野さんに接し始めていたんです」
詰めていた息を吐き瞼を閉じる熊野さんの顔には、ありありと苦悶が浮かんでいる。
「じゃあ、私を虐めていたのは梶原君だけなんですよね」
「俺はそんな事は―――いや、でも同じ事です。俺が姫野さんのピアノを聞きに行かなければ―――姫野さんを好きにならなければ、貴女が浩太に虐められる事は無かったんですから」
「す……」
そんな場合では無いないのにドキンと心臓が跳ね、頭に血が上ってしまう。
鏡を見なくても分かる。私は今、耳まで真っ赤になっているだろう。
落ち着け、落ち着け……『好き』って言っても、小学生の頃の話!しかもトータル四~五回、昼休みの三十~四十分程度の間だけの付き合いだよっ!
昔の話だし、当時だって『人として好き』って意味だったと思うし……!
それに……第一今、好きだとかそういう事では無いからっ!
……と、自分を落ち着かせようと必死になるが、もともと男性への免疫が無い私。
冗談だろうと昔話だろうと例え話だろうと―――『好き』なんて言われたらとてつもなく舞い上がってしまうっ!
これはもう顔色を抑えるのは無理だ……と、一旦諦める。
だから勘違いだけはしないように―――と、真っ赤になりながらも自分に言い聞かせた。
「でも、熊野さんが手を下したわけじゃないんですから……」
絞り出すようにそう否定の言葉を口にする以外、今の私にできるフォローは無い。
うう……自分の対男性スキルの低さが恨めしい……。
「有難うございます。姫野さんは―――優しいですね……本当に。だから浩太も……」
「?」
「いえ、何でもありません。……姫野さんはこの間、あまり覚えてないって言っていましたね、浩太に虐められた時の事。酷いショックを受けたんでしょうね……あの頃の浩太は最悪な状態だったから―――その相手をする事になた姫野さんは、さぞ辛かったと思います。本来それは俺に対する嫌がらせでもあり、祖母や周囲の大人たちに向けられるべきものでした。決して十歳を少し過ぎたばかりのか弱い少女に向けられるべきものでは無かった……つまり『八つ当たり』なんです。姫野さんには何の非も、責も無い事だったんです」
熊野さんはテーブルの端と端に両手を広げて付き、私の目をピタリと見据えた。
目を逸らす事ができない。
真剣なその表情に思わず息を呑む。
「本当に、申し訳ありませんでした―――!」
ガバっと熊野さんがそのままテーブルに擦り付けるようにして、頭を下げた。
熊野さんっていつもはスマートなのに、何故か要所要所で体育会系というか、やる事が―――大仰になるときがある。
床に座って無いだけで、これじゃほとんど土下座だ。ブースごとにパーティションがあると言っても、少し目線を遮る程度の低いものだ。体格の良いただでさえ目立つ男性がこんなパフォーマンスをしているとなると―――店中の注目を集めてしまうのも、時間の問題だろう。
これは……非常に恥ずかしい……ッ
「熊野さんっ……わ、わかりましたからっ……とにかく頭を上げてくださいっ」
「いや、そういう訳には……」
「スイマセンっ目立つんです……!私のためだと思って、頭を揚げてくださーい!」
つい小声で怒鳴ってしまった。
私の必死さに、思わず熊野さんが顔を上げてくれた。
ほっ。
熊野さんの誠意はすっごく、伝わったけど―――
……は、恥ずかしかったぁ~~……
コホンと一つ咳を吐いて、熊野さんが話を再開した。
私も気を取り直して、居住まいを正す。熊野さんの大仰なアクションに吃驚し過ぎて、胸のドキドキも頬の熱さも吹っ飛んだ。
「姫野さんが転校すると聞いた時―――あの兄は……浩太が酷く落ち込んでいました。未だ詳しい事を聞いていなかった俺の目にも、それは明らかなくらい。浩太は不器用な奴でした。自分が望んでいる事とやっている事の差を、理解していなかった。浩太も気が付いていた筈なんです。……姫野さん、貴女は―――」
視線が絡む。
熊野さんは言い淀んでいた。
何を躊躇っているのだろうか。
口に出し難い、私にとって酷な部分の回想は終わったはずだ。私が梶原君の元を去った後の事は、はっきり言って私には与り知らない―――つまり関係の無い事だ。私が聞いてどうこう思う部分では無いだろうに。
「貴女は―――優しい。公平で、優し過ぎた。あれは貴女が身を引く処じゃない、浩太が罰を受けるべき処だった。姫野さん―――貴女は俺達の母に似ている。祖母と正反対で、相手が傷つくくらいなら自分が諦めて身を引けば良いと考える人だ。浩太は貴女に甘えていたんだ。母親に甘えて駄々を捏ねたかった気持ちを貴女にぶつけていた。そして結局貴女は全てを飲み込んで去って行った。そんなところも……離婚して身を引いた母に似ていた」
熊野さんは一旦言葉を切り、私から視線を外した。そして詰めていた息をスーッと吐くと視線を逸らしたまま再び口を開いた。
「……だから浩太はその時ショックを受けたんです。自分が姫野さんに惹かれ、甘えていた事を自覚して。そして―――祖母が母にした仕打ちを、自分が一番憎んでいた行為を、姫野さんにしてしまった事に」
声が出なかった。
図星を突かれたからではない。
あまりの買い被りに、驚いたからだ。
私はそんな、大層な人間じゃない―――ただ、自分が大事だっただけだ。
「あの……熊野さん、私はそんな風に言って貰えるような優しい人間ではありません。ただ逃げる事しか思いつかなくて―――逆に戦うべき処で戦えなかった、弱い人間なんです」
そうだ。
だって、梶原君がそんな風に後悔できる人間だったのであれば。
私は逃げないで……少なくとも逃げる前に、戦って相手に言い返せばよかったんだ。あの頃私は自分の何が悪いのかと考えるあまり―――面と向かって梶原君に意見を言わなかった。嫌だとか、止めてとか、もっと声を大きくして、何度も言えば良かったのに―――何を言われても口を噤んで、すぐに諦めてしまった。
しかし熊野さんは頑固だった。
「優しい人は、皆そう言います。それに実際犠牲になっているんですから、相手を庇う必要は無いんです。姫野さんは、素晴らしい女性です」
「な……っ」
今度は恥ずかしくて言葉が出ない。
だから『素晴らしい女性』とか『公平で優し過ぎる』だとか、褒め殺しワードは使わないで欲しい。
この人は自分がどんなビジュアルをして、どんなに素敵な良い声を持っているのか、果たしてちゃんと自覚しているのだろうか。
本当はそれどころじゃないのに、いちいち心臓を撃ち抜かれて思考が纏まらないんだってば~~!




