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レッスン32


その頃、俺はアイスホッケーを習っていました。

幼稚園の頃からです。習い事は他に全くやっていませんでしたが、週に二回程度練習日は欠かさず通っていました。

『入れ替わり』もその練習日だけは絶対受け入れませんでした。楽しかったんですよ、とっても。


だけどそれほど真剣にやっていた訳ではありません。

どちらかというと、ストレス発散という要素の方が大きかったと思います。

両親と祖母の拗れた関係を知ってかなりダメージを受けていたんでしょう。けれども浩太の方が自分よりずっと過酷な状況でしたので、自分がそれほどショックを受けていると言う認識が当時はありませんでした―――だからアイツに振り回される事があっても、大抵の事は付き合ってやっていました。

優しい環境で自由に暮らせていた筈なのに、俺も俺なりに傷ついていたんですね。あるいは浩太の苛々に影響を受けていたのかもしれません。

その所為でしょうか。アイスホッケーの練習でストックを振っていると、いつもモヤモヤが晴れるのを感じました。苛々が解消されてスッキリするから、楽しかったんだと思います。


祖母の意向の為か兄はアイスホッケーには手を出して来なかったので、自分だけのものだという意識があったのも良かったのかもしれません。


『入れ替わり』の時は周囲にばれないように気を使っていましたから、休み時間にはなるべく話をする必要のないサッカーやドッジボールなんかの球技に交じって遊んでいる事が多かったと思います。そして時々、気を遣うのに疲れて人気ひとけのない場所で時間を潰す事もありました。




そんな時です、昼休みの音楽室で姫野さんに会ったのは。




教室では話をした事は無かったと思います。その頃はまだ、浩太と姫野さんは特に交流は無かった筈ですし。

顔は知っていました。窓際でぼんやり外を見ている処をよく見かけましたから。でも姫野さんは割と大人しいタイプでしたよね?だから声を耳にする機会も無かったと思います。


貴女はピアノを弾いていました。

一心不乱に弾いていたので―――入って来た俺に気付いていませんでした。


失礼な言い方かもしれませんがその光景を見るまで、俺にとって姫野さんは単に目立たないクラスメイトの一員と言う認識でしかありませんでした。




でもピアノに向かう貴女は違った。

ウットリと微笑んで、その指先から生み出す旋律の世界に入り込んでいた。




巫女さんみたいだって、思ったんです。神様が降りて来ている……そんな気がしました。

―――言い過ぎ?いや、本心です。


とにかく俺は姫野さんに魅入ってしまって、動くことも呼吸をしている事も忘れてしまいました。曲が終わった時思わず拍手をしてしまい、その時初めて姫野さんは俺に気付いたんです。キョトンと目を丸くして、それから蕾が綻ぶように笑顔になりました。


発表会の前にとにかく練習がしたかったと、言っていました。

家の練習に飽き足らず、昼休みの度にここへ駈け込んで練習していたんですね。ピアノが大好きだって言っていました。俺はそれから『入れ替わり』の度に姫野さんのピアノを聞きに行きました。


夢中になってピアノを弾き好きな事に尽力している姫野さんを見ている内に―――俺の中にもムクムクと何かにのめり込みたい、という欲求が湧き上がって来ました。

浩太に比べて恵まれている自分は……何かに執着したり、これ以上何かを欲しがったりしては行けないような気がしていたのだと思います。


だけどもっと、夢中になりたい。

一心不乱に努力して姫野さんみたいに自分の身の内から発光するような―――輝けるようなものを身に着けたい、そういう衝動を抱くようになりました。

その時気が付いたんです。自分がアイスホッケーにもっともっと集中したいと思っている事……もっともっと一心不乱に浸ってしまいたいと思っていた事に。

―――それまで俺は、密かに心の中でブレーキを掛けていたんだと思います。その事にやっと気付かされたんです。




それから俺は変わりました。

浩太の立場から運よく逃れられた『片割れ』では無く、自分自身『熊野豪太』としてどうしたいのかという事を大事にするようになったんです。

貴女はその切っ掛けを、俺に与えてくれたんです。


だから今の俺があるのは、姫野さんのお陰なんです




だけど。




俺の所為で、姫野さんを傷つける事になってしまいました。

転校したのは、浩太の所為ですよね……?

浩太が姫野さんを虐めたから。




でもそれは俺の所為でもあるんです。


―――俺が。姫野さんを……気に入ってしまったから。




俺は姫野さんの事を浩太に話しませんでした。

昼休みのあの時間は、俺だけの宝物だと思っていたんです―――独占欲に目が眩んでいました。あの空間を浩太と共有したくは無かった。自分だけの物にしていたかった。


だけどそれを完璧に隠しおおせられるなんて言うのは、本当に甘い考えだったんです。

小学生の浅知恵でした。浩太に黙って―――ピアノを弾く姫野さんを、大事に自分だけの楽しみに取っておいたつもりでした。




だけどこの時、浩太の悪い癖が最悪の形で噴出してしまいました。

姫野さんの事を知った浩太が、俺の大事なものを取り上げ、壊すという―――悪い癖を再発させてしまったんです。







** ** **







熊野さんは一気にそう語り終えると、テーブルに落としていた視線を一度私の視線と絡ませた。しかしそれはすぐに横に逸らされる。


そうしてコーヒーに手を伸ばし、ゴクリと一口飲み込んだ。




「熊野さんと私―――小学校で会っていたんですか?」




熊野さんの語る私は―――『巫女さん』とか『神様が降りてきている』とか―――表現があまりに私自身とかけ離れていて、全然私じゃないみたい。


誰かと取り違えているのではないかと、一瞬思ったくらい。


だけど話を聞きながら記憶を凝らしていくと、そういえば虐めが始まる前いじめっ子―――梶原……浩太……君だっけ?―――頭の隅に残っていたらしい、その『梶原君』と何度か話した記憶が、爪でひっかいた小片かけらみたいにポロリと転がり落ちて来るのを感じた。

彼はただごくたまに、私が練習している曲を音楽室の隅で聞いていただけ。ろくにお互いの話をすることも無かった……気がする。

それは実際は―――『熊野君』だったわけで。




あ。今鮮明な映像を思い出した。




そうだ、記憶の中のその子は確かに熊野さんに似ていた。

その後酷い虐めを受けて、その優しい記憶も嫌な記憶と一緒に私の奥底に封印されてしまっていたのだ。

だって梶原君いじめっこの名前さえ―――顔つきも声も、私の中ではおぼろげにイメージでしか残っていなかったのだ。未熟な子供の精神こころが受けた嫌悪感が強過ぎて……まるで体が詳細な事を思い出すのを拒否していたみたいに。




「……思い出して、いただけましたか?」




私の表情の変化を敏感に読み取ったのか、熊野さんが少し悲し気な微笑みを零した。


「はい、今思い出しました―――熊野さんだったんですね、私の練習を聞いてくれていたのは。でも梶原君が私を虐めた事は―――熊野さんの所為だとは思えません。ただ私が暗くて地味だったから……彼は苛立って嫌がらせをしていただけだと思います」

「……姫野さんは、優しいですね。でも本当の事なんです。他でも無い―――浩太本人が、そう俺に告白したんですから」


熊野さんはコーヒーに、視線を落として目を閉じた。


「『入れ替わり』を嫌がらなくなった俺を、浩太は訝しんでいました。入れ替わった日の翌日に、すぐ俺の行動をさり気なく周囲に確認するようになったんです。俺はその頃アイスホッケーに力を注ぐようになって、実力が付いたのか練習試合のスタメンに選ばれて浮かれていました。だから全く浩太の不審な動きに興味を持っていなかったんです。浩太は俺が給食の後―――音楽室に通っている事をつきとめました。そして終に、俺の代わりに音楽室に顔を出したのです」

「……思い出した……」




忘れていた、記憶を封じ込めていた虐めの始まり。今度こそそれを思い出した。




いつもほとんど話もしないけど―――嬉しそうに私の弾くピアノを聞いて、小さく拍手をしてくれた『梶原君』が変わった日。




ずっとピアノを聞きに来てくれた『梶原君』に、私は教室で話しかける事も目で合図する事も無かった。

単に一人でピアノの練習をしている事を皆に明かすのが恥ずかしかったって言うのもあるし、クラスで常に人に囲まれ輝きを放ちながらその場の中心に存在する男の子に、自分から話しかける勇気が全く無かったからって言うのもある。私のピアノを聞きにくるのも月に二、三回の事で、本当に気まぐれに来たって言う印象を受けていたから。


音楽室で二言三言話した印象ではきっと優しい人に違いないと感じてはいたけれども。

教室での『梶原君』はやんちゃで、皆ときわどい冗談を言い合う……人気者だけれども少し乱暴な印象を与える『リーダー』だった。その当時から物凄く顔が整っていて、運動も勉強も一番で、発言力も大きく女子にも人気があった。




私とは別世界の人間。

そういう印象だった。




だからこちらから話しかけるなんて考えは、ちっとも浮かばなかった。同じ教室にいるのに次元が違うというか―――とにかく彼と私は交わる事のない人間で、たまたまそれぞれの世界の端っこが音楽室で重なったに過ぎない―――そういう認識だった。







** ** **







その日音楽室に現れた『梶原君』は、いつもと違う位置で椅子に腰掛け私のピアノに耳を傾けていた。


確かに少し違和感があったかもしれない。

でも遠い記憶なので、本当にそうだったか……自信は無い。


とにかく曲を一曲弾き終わった後、いつもなら控えめな拍手をしてニッコリと微笑んでくれる『梶原君』が、硬い表情でカツカツと私の前に近づいて来た。




あ、怒っている。




そう瞬時に悟った。

何故かそんな確信を抱いてしまい、無遠慮に近づく『梶原君』から目を逸らし―――俯いて鍵盤を見つめ私は体を固く固く―――縮こまらせた。


『梶原君』は私の横に立ち「おい」と声を掛けて来た。

いつもと違う低い声音に、私は声が出なかった。


俯いたまま黙っていると―――頭の一部、首の付け根が不意に熱くなった。グイっと三つ編みを引っ張られ、痛みのあまりそう感じたのだ。


「いたっ……!」

「なあ、その曲何?」

「……」


怖くて震えていると、再びグイっと三つ編みを引っ張られた。


「いっ……」

「口きけねえのかよ。暗い奴」


バシッと『梶原君』は持っていた三つ編みを私の顔に叩きつけた。

本当に、とてもとても痛かった。




「ねくらブス!下手くそなピアノ、人前でよく聞かせられるな、気持わりぃ!」




そう言って、ドカドカと『梶原君』は音楽室を去って行ったのだ。




私は彼の変わりように茫然としていた。

それともずっとそう思っていたのに、私が気付かないから苛々してとうとう非難を口に出してしまったのだろうか?


グルグルと考えて、考えたけどもサッパリ分からなくて、クラスに戻ったのは午後の授業が始まる直前だった。




「わー、気持ちワリィ奴が戻って来たぞ」




私が扉を開けて窓際の席に着くと、聞こえるか聞こえないか絶妙な大きさで『梶原君』が呟いた。心臓がドキドキして……張り裂けそうになった。




私……何か間違えた……?




その日から、クラスの人気者『梶原君』による私への嫌がらせが始まった。


頭の中は『?』で一杯だった。

考えれば考えるほど分からなくなって、何をやっても悪く取られるように思ってドンドン私はクラスの中で居場所を無くして言った。


意地悪な人ばかりじゃ無かったのに、怖くて他のクラスメイトとも話す事が出来なくなった。何とか学校に通い続けたけれども―――朝学校に行こうと思うと、胃が痛くて頭痛がし始め……終いに眩暈までした。だけど熱は無かったので、仕方なく登校した。




もう音楽室に足を踏み入れる事さえ怖かった。

ピアノを弾いて、また『気持ち悪い』って言われるのが嫌だった。




やがて私のオアシスは、家の中と―――ピアノ教室と週に一回話をする遥人君だけになった。

遥人君と話すたび、クラスの乱暴ないじめっ子と比べてしまう。


いじめっ子はあんなに嫌な奴なのに……クラスでは大変人気があった。

明るくて楽しくてノリがいい。要領が良くて、言葉選びのセンスが良い。

勉強もガリ勉に見えないのに、楽勝でこなしていて運動会ではヒーローだった。


もし彼が遥人君みたいに優しく接してくれたら、嫌いになる要素なんて無かった。


だけどアイツは私の三つ編みを引っ張って、酷い言葉を投げつけ、顔を歪ませる私を見て、悪魔のようにゲラゲラ笑った。




人気者に嫌われる自分が、嫌になった。

自分が何もかも間違っているような気がして、自信を失った。




私はそうして転校したのだ。

アイツの傍を離れたい。

ただそれだけの為に。




我慢に我慢を重ねてお腹に激痛が走り―――倒れた私に病院が下した診断は『ストレス性の胃炎』だった。私はやっと母にクラスのいじめっ子の事、何が悪いのか分からなくてどうして良いか分からない事を……打ち明ける事ができた。


大人になった今、考えると。


本来なら学校に、その話を持ち掛けなきゃいけなかったのかもしれない。

でも私は限界だったし、もうこの話題に触れたく無かった。

両親はそんな私の身を案じて―――違う学区に引っ越す事を決断した。二人と何度も話し合ってその結論に至った時、私はゴメンねって何度も謝った。だって買ったばかりのローンの残っている家を売り払って、急遽賃貸住宅に移る事になったのだ。家族三人で新しく始めた暮らしにたくさん思い入れがあったハズなのに。


母は頑張ったね、もう無理しなくて良いからねって言ってくれた。

学校に転校する事になった本当の理由を言いたくないって言う―――私の訴えも聞いてくれた。


これには本当に感謝しているし、学校を変えたのは結果的に最善の選択だったと……今でも実感している。それに家族で下したこの決定に私が後悔する余地なんて何処にも無い。むしろ後悔なんてする資格、私には……無い。


親と一緒に学校に苦情を言ったとしても大人受けの良い優秀なアイツと、暗くて地味な私のどちらの言い分を聞いてくれただろうか。あるいは良心的な先生なら性格の明るい暗いで判断せず、公平に話を聞いてくれたかもしれない。

けれども―――私の居場所は、学校に訴えた時点で……今度こそ完全に無くなってしまったかもしれない。そんな予感がヒシヒシとしたのだ。




それは子供の杞憂と言うより小さな社会クラスに属する構成員としての勘みたいなものだったのだけれど。


今では当たらずとも遠からずと思っている。

子供社会の揉め事を大人にリークした者に、冷たい視線を送る者もいるだろう。虐めはもっと本格化し、大人の目を盗み陰惨な物になった可能性もある。


実際子供の頃はそれほど認識していなかったが、お金持ちで社会的にも成功している家庭に育った『梶原君』には、差別的で他人の意見に聞く耳を持たない祖母が後ろ盾をしていたらしい。気の弱い庶民の私が声を上げた処で返って、両親ごと完膚なきまでに潰されていたかもしれない―――そう思い至り私はブルリと背筋を震わせた。




※誤字修正2016.8.11(紫苑ゆかり様へ感謝)

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