レッスン3
待ち合わせは札幌駅構内の、白い穴の開いたオブジェの前だった。
すべすべした白い御影石に寄り掛かると、ひんやりとして気持ちが良い。
はー……何でこんなことになっちゃったんだ。
溜息をついて時計を見ると、約束の二十分前だった。早すぎるかもしれないけれど、万が一熊野さんを待たせてしまうなんて事態が起こってしまったら……自分の心臓が持たない気がするので、時間潰しなどせずこのまま待つ事にした。
ぼんやりと駅構内を見ていると、すごく背の高い人が歩いているのが目に入った。何故そんなに目を引くのかと言うと、明らかにスタイルが良いのだ。先ず頭身が周囲の人と違うし、姿勢が良い。あと、足が長い。
周りから浮いて見えるのは、振り返ってその人に注目する人が多いからだ。
まるでモーゼが海を割ったように、人垣に道が出来る。
わぁ、モデルさんかなぁ……もしかして有名な俳優さんが観光番組の撮影に来たのかも。
なんて呑気に眺めていたら――――その物凄く目立つ人が、明らかにこちらを目指して駆け寄ってきた。
ぎゃっ!
なんとそれは、熊野さんだった。
狭い防音室で近距離で見る分には、ただ筋肉質の、大きい圧迫感のある人としか認識できなかったが、改めて遠景で眺めてしまうと―――なんとも素晴らしいプロポーションではないか。
しっかりした筋肉で肩幅ががっちりしているのだが、手足が長く頭が小さいので、想像していたよりずっとバランスが良いのだ。
熊野さんが怖くて、自然と視界から外そう外そうとしてしまう本能の所為で、今までその全体像をほとんど見る事が出来なかった。今漸くその全貌を目にする事が出来たのだが―――スタイルの良さに顎が落ちて、口が自然と開いてしまう。
ファッション雑誌から抜け出て来たみたい……。
「すいません、お待たせして。こちらからお誘いしたのに」
熊野さんは、いつもの厳しいしかめっ面だ。
精悍な整った眉が寄せられると、迫力があって本当に怖いです。
でもきっと、怒っている訳じゃないんだよね……。私が反射的にビクビクしてしまうだけで。
私は冷や汗を掻きながら、両手を振った。
「い、いえいえ!たまたま早く着いちゃっただけです。でも、今来たばっかりですから……!」
気を遣って詫びてくれる熊野さんに、盛大に恐縮する私。何故か一歩下がって距離をとってしまう。
そんな私の様子に、熊野さんが困ったように苦笑した。
その顔を見て……更に申し訳なくなって私は俯いた。
彼は私に気を配ってくれている――――悪い人じゃない。
そう、どっちかっていうと……良い人なんだ。
最初のレッスンだって困ってる私を助けてくれて、コピーを代わって取ってくれた。苦手意識でパニクって挙動不審な私を気にせず、紳士的に対応してくれた。
……距離感はちょっと、合わないけれど。
それだって、男らしい男性が苦手な私が気にし過ぎなだけで、普通の女性だったらそれほど気にしないようなものなのかもしれない。
ただ、熊野さんのような男性が私の苦手なタイプってだけで……熊野さんは私を虐めた人間とは違うのに。
札幌駅に併設された複合型のショッピングビルは、市内で今一番人通りが多い場所だ。平日だと言うのに、人で溢れ返っている。
百貨店と、映画館併設の若者向けのショッピングセンター。それから電気量販店や雑貨屋、ファストファッション店なんかが併設されているデパートが一体的に建設されていて、連絡通路で行き来できるようになっている。レストランや飲食店も数多く入店していて、大変便利。高校生の頃から私もよく利用していた。
熊野さんを案内したのは、沢村楽器というショッピングセンターの四階にある楽器店。
ちなみに私が勤めているピアノ教室を運営するカムイ楽器はピアノ直営店で、このショッピングセンターから二丁南に行ったところに本店が移転したばかり。
本格的なピアノはやはり自信を持って本店の物をお勧めしたいが、これから継続していくか判断に迷う大人初心者の熊野さんには、もう少し安価なキーボードで十分な筈だ。
そういう訳で、こちらの楽器店にお連れしたのだ。もちろん、こちらでカムイ製の電子ピアノも購入できる。ちょっとお高いけどね。
ギターやウクレレなんかもあって、私も学生の頃ここに譜面を探しにここに通ったものだ。好きな物全てを買い尽くすほどのお金は無かったけれど、時間を忘れて楽しみましたよ。
「なんだか、楽しそうですね」
はっ、バレテル……。
「わかりますか?」
「鼻歌、歌ってました」
「えっ!……す、すいません。実は、ここ久し振りで。学生時代よく通ってて懐かしくなっちゃて……」
自分が鼻歌を歌っている事に気付いてませんでした。
は、恥ずかしー!思わず、頬が熱くなる。
「ピアノ、好きなんですね」
「まあ、仕事ですから……」
「『仕事だから好き』なんですか?羨ましいな」
ん?……あ。
『仕事』が好きな事だとは限らない……か。
ちょっと焦ったが熊野さんを見ると、相変わらず眉根を寄せたしかめっ面。しかしそれでいて先ほどと激しく表情が変化している訳では無い。その声音も普通で、素直に言葉を発してくれているようだと感じた。
やはりこのしかめっ面は―――私に対する不快感を表している訳じゃ無いみたい。もしかすると、彼が考え事をする時の癖みたいなモノなのかな……?
そういえば、熊野さんってどんなお仕事をしているんだろう?
いつもスーツだから、営業とか?
今のお仕事は―――もしかしてあまり好きでは無いのかな?
少し気になったけど、生徒さんの事情にあんまり踏み込んでは行けない。こちらからはあまり、プライベートを尋ね無いよう私は気を付けている。
なので、本題に戻る事にした。
「えーと、熊野さんは『星に願いを』を弾けるようになった後も、レッスン続ける予定ですか?」
「そうですね……今のところは、その後どうするか考えて無いです」
「そうですか。もう少し続けるなら、鍵盤の数がピアノと同じほうが良いと思います。八十八鍵盤のもの。六十四のものは安くて手頃なのですけど、やっぱり二オクターブくらい無いと弾けない曲もありますので」
「なるほど」
「あと、これも続けるかどうかで変わってくると思うのですけど……予算はどのくらい、と考えてますか?」
「それもさっぱり。何しろピアノとか楽器演奏なんかとは、これまで無縁の生活だったので……相場が分かりません」
なるほど、そうですよね。
だから私が付き添いに呼ばれたのですよね。
当たり前の事、聞いてしまった。熊野さん、すまぬ。では、初歩の常識から始めますか。
「ほんとーに安い、おもちゃみたいなキーボードは一万円くらいからあります。例えばこれとか」
店頭に飾られてるプラスチックでできたキーボードを見せる。子供用ですな。タッチもスカスカだしピアノ練習には向かないけど、一曲だけ覚えてもうピアノに触らないというつもりならこんなもので足りるかもしれない。できれば続けて欲しいけど。
―――会社の利益のためばかりではありませんよ?
常にしかめっ面の熊野さんにも、ピアノの楽しさを知って欲しい。そんな気持ちになったから。
楽しい懐かしい自分のテリトリーに久しぶりに戻って、大分気分が浮上したせいだろうか?まだちょっと怖いから距離が近くなるとビクッとしてしまうけれど、熊野さんに悪気が無いのが何となく分かって来たから―――そう思えるようになった。
そしてそんな風に思える自分に少し安堵した。
他人を嫌っている状態が続くのは―――私にはけっこうキツイ。
本当は熊野さんがレッスンを止めてしまって彼と顔を合わせない状態になる事が、私的には平穏を保てるので良い事なのだとは分かってはいるのだけれど。
「でももうちょっと続けるなら、鍵盤がピアノみたいに重くて手ごたえがあるほうが、絶対良いと思います。ここにあるカムイの電子ピアノは十万ちょっとからあるんですが……さっきの安いキーボードよりはマシですが、ピアノに比べてかなりタッチが軽いんですよね」
熊野さんはプラスチックのキーボードに触れたあと、同じようにカムイの電子ピアノに触れた。音と鍵盤の抵抗はキーボードより、ずっと良いハズ。
「これでも、ピアノよりは軽いんですね」
「そうなんです。ここには展示されていませんが、今ピアノに近いタッチの新製品を当社でリリースしたばかりです。それは――――三十万弱、といったところですね。ちょっと一曲だけ覚えて辞めるっていう金額では無いんですよね」
「なるほど」
熊野さんから『なるほど』二つ目いただきました!
専門家になったようで、ちょっと気分が良いですな。何せ私、昨日ネット検索しまくったからね!……実は最初からピアノが家にあったから、初心者用のキーボードなんて買った経験が無いのです。
「それでですね……もし、もうちょっと続ける気持ちがおありでしたら、このケロッグの電子ピアノなんかどうでしょう?キーボードとスタンドのセットで五万以下で手に入るので、手頃だと思います……ちょっと検討してみてください。ここで触ってみてから、気に入ったらネット通販で安く購入するって手もありますし」
私が紹介した電子ピアノに触れ、ポンポンと鍵盤を叩く熊野さん。
「ほかにもコノハとか、カシホの電子ピアノもありますよ。触ってみます?どっちにしても触ってみて気に入った物を買うのが一番だと思いますので……」
「いえ、いいです。この姫野さんのおススメにします」
「へ……?即決しちゃいます?」
余りの決断の早さに、勧めた私のほうが驚いた。
「即決しちゃいます。……姫野さんを信用して」
ニッコリ。
うわっ。またしても、別人降臨……。
爽やかに笑った熊野さんは、キラキラキラ~と眩しいくらいのイケメンに、変身しました。
苦手意識フィルターが薄くなってしまった私には、何やら目の毒になりそうな眺めです!
ぞわわっ……と、背中を冷や汗以外の何かが伝わりました。
この早鐘の様な動悸は―――何だか恐怖心から来るものと微妙に違うような気がしたのでした。