レッスン29
「熊野さん、どうしたんですか?」
「あ……いいえ」
熊野さんは何かを振り払うように頭を振った。
しかし、表情は相変わらず厳しいままだ。
「私……何か失礼な事を言いましたか?」
「いえ」
熊野さんは辛そうに目を閉じた。
「姫野さんは何も悪くありません。悪いのは――――俺です」
「え?」
「姫野さんに黙ったまま、一緒にいられるかもしれない……そんな都合の良い考えを持っていた俺に、腹が立ったんです」
『黙ったまま』って……何のこと?
急に胸の中にモヤモヤしたモノが渦巻き始めた。
怖い。
熊野さんは何を言おうとしているの。
青い空も、爽やかな秋の空気も、賑やかな子供たちの歓声や、さんざめく人々の笑い声も――――私からグッと遠く離れていく。そんな感覚に襲われた。
音の無い透明な箱に閉じ込められて、その外で楽しいざわめきが私を取り残して輝いているような。
「姫野さんは、俺に感謝する必要は全く無いんです」
「そんな事……だって、熊野さんのお陰で本当に私――――」
「それは、俺が何かした訳じゃ無い。もし本当に貴女が苦手な事を克服できたとしたら――――それは、姫野さんが自分で頑張った結果です。決して俺なんかの手柄じゃない」
私はパニックになりそうだった。
熊野さんは何を言っているんだろう。
彼がいたから私が変われたのは事実で――――彼がレッスンを申し込まず、私を気軽に外に連れ出してくれなかったら、未だに私は殻に閉じこもったまま、勝手な思い込みで男の人を避けて暮らしていたのは明らかなのに。
謙遜にしては、強すぎる拒絶と熊野さんの頑なな態度に、私は自分を突き放されたように感じて悲しくなった。
そんな風に言ってほしくて、お礼を言ったわけじゃない。
ただ、嬉しかった。
楽しかったし、熊野さんともっと居たいと思った。
レッスンを暫くお休みすると聞いた時は寂しく感じたけれども、また一段落したら一緒に彫刻を見に行こうと誘ってくれて、私の気持はこれ以上無いってくらい高く舞い上がっていた……のに。
「そんな。だって私、熊野さんがいなかったら、男の人が苦手なままで――――」
「その『男が苦手』だって言う原因を作ったのが俺だとしても、そう言えますか?」
「え?」
「俺の顔に見覚えはありませんか?声も、体格も――――昔とは変わってしまったかもしれない。顔も――――大人になって輪郭が変わってしまったから、すぐには判断が付かないかもしれないですが」
何?何が言いたいの……?
一体熊野さんは何を言おうとしているんだろう。
『見覚え』って?
『体格も声も変わった』って言うのは、熊野さんに会ったのは彼が声変わりするより前って言う事?――――つまり小学校で私達は顔を合わせていたって……そう、言いたいの?
不意に思い出した。
遥人君と再会した日、見た夢のこと。
いじめっ子が夢に出て来た。
私の三つ編みを引っ張りながら笑っていたその顔は――――熊野さんに似ていた。
そんなワケない。
だって、全然違う……熊野さんはあんな意地悪ないじめっ子とは全然違う。
だけど遥人君も。
優しくて理想の王子様だと思い込んでいた遥人君も、私の抱いていた印象と本当の今の当人は、全く違っていた。
私は間違っていたの?
熊野さんは、私が感じた、見ていた人とは全然違うの……?
でも、熊野さんの苗字に聞き覚えは無い。嫌悪感で記憶が薄れているとは言え、そこまで完全に消え去ってしまうものだろうか……?
「小学校の頃です――――見覚えはありませんか?」
熊野さんはもしかして――――あの、私が男の人が苦手になったトラウマの原因――――あの大っ嫌いないじめっ子なの……?
「すみません」
熊野さんは、私に向かって頭を下げた。
「小学校の頃、姫野さんを虐めたのは――――」
熊野さんは眉を寄せ、苦し気な表情で言葉を切った。
「俺の兄です」
え?
「あ、『あに』って――――お、お兄さん?……って事ですか?」
「はい」
え?え?熊野さんのお兄さん?
あのいじめっ子は同い年だったハズ。そして熊野さんも同い年。4月生まれと3月生まれだったら――――あり得ない事じゃないかもしれない。でも……
「双子なんです」
「ふ……双子?で、でも苗字が……覚えていないけど『熊野』では無かったような……」
うろ覚えだけど。
熊野さんは溜息を吐いて、目を閉じた。
とてもとても、深い溜息だった。
熊野さん、何故黙っていたの?
お兄さんが――――双子のお兄さんが、私を虐めていたあの同級生の男の子だったなんて。
でも、あの子が双子だなんて知らなかった。それなら、少しでも記憶に引っ掛かっていてもいいんじゃないか。
だって私の男の人に対する苦手意識が、熊野さんに原因があるような事を彼は口走ったのに、私の記憶にあるいじめっ子は一人だ。
「熊野さん、一体――――」
俯いていた熊野さんは、私の空虚な問いかけに顔を上げた。
そして寂しそうに笑って言った。
「場所、変えませんか?……話すと長くなりそうなので」




