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レッスン25

「先日は直前のキャンセルになってしまって、スイマセンでした」

「いいえー、大丈夫ですよ。それにこちらこそスイマセン、キャンセルしても月謝が変わらない仕組みになっていて」

「それは当り前です。ホテルの宿泊料だって当日のキャンセルは100%返金しませんよ。それは、レッスン室に先生を拘束する正当な対価ですから」

「そう言っていただけると、気が楽です。ありがとうございます」


本当に熊野さんは気の使い方が上手だ。

私に罪悪感を持たせないよう、それでいて不自然じゃない返し方をして私の気を逸らしてくれる。


「じゃあ、さっそくレッスンに入りますか。練習する時間はありましたか?」

「先週は流石に――――でも、出先にピアノがあったので意外と練習時間は確保できました」

「そういえば、お身内の方の法事だったんですね」

「ええ――――一応父方の祖母の法事です」

「もうお亡くなりになったんですか。お寂しいですね……」

「いえ……」


熊野さんは苦々しく顔を歪めた。

その顔は――――何処かで見たような。

何処で見たっけ?……滅多に見ない苦しそうな表情だ。


あ――――居酒屋で、遥人君に話し掛けられた時だったかな……。


「……では、始めますか?」

「はい、お願いします」


三十分は短い。

遠慮がちに声を掛けると、熊野さんはほんのりと笑顔を取り戻してくれた。

少し疲れているのかな……?そう思ったけど、仕事を優先した。

たぶん、蒸し返すよりレッスンに集中して気分を変えるほうが、熊野さんにはいいことだと思ったから。


熊野さんに練習の成果を見せて貰う。

前に指摘したフレーズとフレーズの間の躊躇いは無くなり、滑らかに四小節を両手で弾くことができている。

次の四小節はずっと簡単なものだ。熊野さんはこちらはなんなく弾ききれた。


「すごいですっ!ほとんど覚えちゃいましたね!」

「いや、やっぱり次のフレーズのときちょっと躊躇っちゃいますね。手が止まる」

「でもでも、八小節弾ききったら、次はリピートですからこの曲のうち、十六小節は覚えたって事になります」

「繰り返し……?」


私は譜面を指さした。


「ここの点々と縦線二本が、最初の処まで一回戻るっていう記号なんです」

「へぇ……そういえば、音楽の授業で習ったような気がします」

「それに、強弱がきちんとつくようになりましたね。やっぱりキーボードじゃ無く本物のピアノで練習すると、鍵盤の重さを体で感じられるんでしょうね。いい感じに変化してますよ。前よりずっといいです」


熊野さんは体が大きいだけあって、手も大きい。そして指が長い。

男らしいゴツゴツした手なんだけれども、ピアノに向いているんだろう。やっぱり覚えがいい。運動神経良い人って、結局なんでも器用なんだよな~羨ましい。


「あと、少しで完成ですね……!」


言葉にしてから、改めて気が付いた。


そうだ。あと少しで完成なんだ。


熊野さんはピアノが上手くなりたいんじゃない。この曲を覚えたかっただけなんだ。全部弾ききる事ができたら……レッスンに通う必要は無くなってしまう。

つい沈みそうになる心を鼓舞して、努めて笑顔を作った。




「楽しみですね」

「はい」




熊野さんもニッコリと笑ってくれる。

そのあまりの格好良さに、思わずクラっとしてしまう。

本当に私、何でこんな格好良くて優しい人の横で怯えていられたんだろう……今も落ち着かないけど……別の意味でドキドキしてしまっている。


「先生、また参考に弾いてくれませんか?ICレコーダーを持って来たんですけど、録音して練習の時確認したいんですが」

「え?私ので良いんですか?YOOTUBEとかCDでもっと上手に弾いてる人の音源も聞けますよ」


録音までされて、聞き返して貰うほどのハイレベルな演奏では無い。弾くのは好きだからやぶさかではないけれども……。

熊野さんは、躊躇する私に目を細めて言った。




「姫野先生の音がいいんです」




ドキリ。

なんだなんだぁーーーそんな、低くてイイ声で言わないで~!

思わず恥ずかしくなって、頬が熱くなってしまう。


「そ、そうですか……」


じゃあ、とそれ以上断るのも何なので……大人しく録音して貰う事にする。

熊野さんは席を立って、ピアノの上にICレコーダーをセットした。


私は鍵盤に向き直る。

何だか熊野さんの視線を頭にチリチリと感じる。


きっと気のせいだ。

今後の練習のために鍵盤を見ているに違いない。


何故か実際ホールでやる音楽会や発表会より、緊張するなぁ……。




ドキドキする心臓を、息を吸って吐いて深呼吸で落ち着ける。

そして私は、ゆっくりと心を込めて鍵盤に指を落とした。







** ** **







スイッチを切ったICレコーダーを手に、熊野さんはじっと動かなかった。


「熊野さん……?」


立ち竦む熊野さんにおずおずと声を掛けると、熊野さんは「あぁ、すいません。少し考え事をしていました」と言って、表情を取り戻しICレコーダーを鞄の中に丁寧にしまいこんだ。


「すいません、時間少し過ぎてしまいましたね」


時計を見て熊野さんが、申し訳なさそうに謝ってくれる。


「この後はレッスンが入っていないので、大丈夫ですよ。気にしないでください」

「ありがとうございます」


防音室をガコッと開けると、外の少し涼しくなった空気が入り込んできた。

秋が近づき、日が落ちると冷気が混じるようになってきたこの頃だけど、防音室は断熱も良く狭いから人いきれであっという間に熱気が籠る。

だから、扉から吹き込む風が頬に気持ち良かった。


「では、また来週に」

「あ、あの……」


挨拶をして帰ろうとする熊野さんの背中に、私は声を掛けた。

熊野さんは廊下へ踏み出そうとした形のまま、振り返った。


う……どうしよう……。


『どうしよう』って今さらなんだ?

――――言うしかないよね。言うつもりで呼び止めたんだから。


手に汗が滲む。

喉がひりつく。

声が震えそうになった。


「あの……熊野さんは、明日お休みですか……?」


私が用事があって引き留めた事を了解して、熊野さんは振り返ってこちらを向いてくれた。


「いえ。残念ながら仕事です」

「あ、そうなんですか――――」


サァっと冷たいものが背中に走った。


そ、そうか。お仕事……。


私は何だかこんなことを言い出そうとしている自分が恥ずかしくなった。

『オータム・フェスト』に誘おうと決心して、いろいろスマホで調べたり雑誌で勉強したりした。麻利亜にもいろいろ教えて貰ったのに。

最初から躓いてしまった。


シュンっと俯く私に、熊野さんがクスリと笑った。


「どうしました?」

「あ、あの私……」


もうこのまま引き下がろうか。

怖気づいた自分が、心の中で呟いた。何も具体的に踏み出していないのに、相手の都合が悪いという第一関門で躓いただけで、竦んでしまう。


でも――――熊野さんは、こんな気まずさを物ともせず誘ってくれたんだな。


そう思って、再び握りこぶしを固めた。




「熊野さんっ、お……オータミュ(・・)フェストって興味ありますかっ……私行きたいなって思っていて……できたら一緒に行っていただけませんか……っ」




つっかえつっかえ、言葉を捻り出す。

勇気を振り絞って、目をつぶりながら叫ぶように。


しかも、噛んだ……っ!

何だ『オータミュ』って……!




「誘ってくれるんですか……?」




弾んだ声。

私は上ずった声のトーンにハッとして、目を開けて斜め上を見上げた。

熊野さんが私の目の前に迫っている。


かああーーーーっと頭にに血が上る。

どっきどっきと、目の前の大きくて逞しい男の人の前で、返事が出来ずにパクパクと口を開けたり閉めたりしてしまった。


「あ、あの……その……」

「ちょうど行きたいなって思っていたんです。翌週なら休めるんですが――――姫野さんは大丈夫ですか……?」

「あ……は、はい」


のぼせてボンヤリしていた私は、息を吸い込んだ。


「あ、あのっじゃあ、お願いしますっ!来週の火曜日にっ」

「はい、ありがとうございます。いつもの場所で待合わせで良いですか……?」

「え、えと……ハイっ」

「時間は十一時でも?」

「ええ!それで……それでお願いしまっすっ」




やった……っ!

お誘いできた……っ!




熊野さんが帰ったあと、足を踏み出しガッツポーズをする。

やったぞっ……ついにっ……頑張ったっ……。


と、自分って意外とやるな。「やったやった、祭りだわっしょいっ」と一頻り自分の中で神輿を担いて騒いでいてから――――気が付いた。




あれ?全部熊野さんが決めてたよね。

日程も時間も待ち合わせ場所も。




これ、いつもと全然変わらない流れだなぁ……。



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