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レッスン2

翌週のレッスン日。

頭を屈めて、のそっと熊野さんが狭い防音室に入って来る。




「よろしくお願いします」

「は、はい。こちらこそ……よろしくお願いしますっ」




熊野さんは、どうやらまだ様子を見てくれるようだ。二回目のレッスンのキャンセルは無かった。ホッと、胸を撫で下ろす。


しかし、相変わらず『でかい』な……。

再び防音室に蔓延る圧迫感に、息苦しくなる。


今日も熊野さんは、会社帰りの装い。水色のストライプのシャツ、スーツはグレー地に地より一段薄い同系色のピンストライプのスーツの品の良いズボン。それらは少し規格外の、例の海上自衛隊映画の主人公のような熊野さんの立派な体格を引き立たせる体にあった仕立てだ。


この間は男性と狭い空間にいると言う恐怖で、そんな所まで気が回らなかったけど、少し落ち着く事ができたのかそんな事に気が付いた。


はぅっ、なんだか、イイ匂いがする……。


並んでグランドピアノの前に腰掛けると香水なのだろうか、微かに爽やかな香りが熊野さんから漂ってくる。少し怖さが半減した。


「練習する時間、ありましたか?」

「はい、何とか。……でも、難しいですね。右手だけでも引っ掛からないで最後まで通すのは、難しいです」

「ゆっくりで、大丈夫ですよ。初めてチャレンジするんですから。……では、ちょっと弾いてみていただけますか?」


熊野さんは譜面のドレミをときどき確認しながら、鍵盤に右手を滑らしていく。

関節が節くれだってゴツゴツしているが、綺麗な長い指をしている。体に準じて非常に大きな手だ。1オクターブが、短く見える。




何カ所か引っ掛かったり譜面を確認するため止まったりしたが、概ね最後まで順調に引き終わる事ができた。

どうやら、熊野さんは真面目な人だ。ちゃんと練習してきた事が分かって、胸の中に安堵が拡がっていく。

まあ自分で申し込んで来たレッスンだから、やる気があって当然なのかもしれないけど……。先週もうレッスンはキャンセルされるかもとオロオロしていた私には、そんな当たり前の事が嬉しかった。


指運びについて幾つか指摘をすると熊野さんは素直に理解を示し、直ぐに修正してくれた。運動神経が良さそうだから体で覚えるのが上手なのかもしれない。

運動会が苦手な足の遅い私には、羨ましい限りだ。いまだに逆上がりも出来ないしね。そういった苦労の経験が無さそうだな……と隣の男性をチラ見し羨ましく思った。




そういえば『いじめっ子』も、運動神経は抜群だった。


小学校での地位カーストは、足の速さで決まると思う。あと、声の大きさ。

勉強頑張ったってピアノが出来たって、足の遅い声の小さな引っ込み思案の私は底辺の存在だった。

今思うとそこまで卑屈になる必要は無かったと思うけど、少なくとも当時の私はそう、思い込んでいた。

リレーのアンカーに当然のように指名され、前に走る他のクラスの子供達をごぼう抜きにしたヒーローはキラキラしていた。皆に期待され、そのプレッシャーを眉一つ動かさず当たり前に熟す彼が……とても羨ましかった。

私の三つ編みをぐいぐい引っ張りさえしなければ、憧れていたかもしれない。




「練習はキーボードですか?」


熊野さんは「……キーボード?」と呟いて首を捻った。


「……実は、まだ買ってないんです」


熊野さんは凶悪なしかめっ面で、頭を掻いた。

反射的に恐怖で身が竦んだ。


だけど――あれ?

台詞と顔の怖さが噛み合っていない。どう考えても、声は恐縮しているか戸惑っているっていうような声だ。




あれ?あれ?




もしかして……この凶悪なしかめっ面の時の熊野さんって―――




―――怒っているワケじゃなかったの?!




私は激しく動揺しつつ、会話を続けた。


「え!……と……どうやって、練習したんですか?」


思わず最初の一声が震えるが、バレていないと思う。その後の台詞は落ち着いて発声する事が出来た。


ほっとしたのも束の間、熊野さんの意外な回答に私は吃驚しすぎて自分が発見したばかりの事に対する動揺が、すっかり吹き飛んでしまった。


「頭の中にイメージして、手を動かしました」

「ええ――!それで、ここまで出来るようになったんですか?」


何気にチートですかっ。


「はい」


熊野さんは基本のしかめっ面のまま、頷いた。

もう、私はこの表情に動揺しない―――いや、一瞬ビクッてなっちゃうけど、理性で『コレハチガウ、コノヒトハオコッテナドイナイ』と、唱えて心の平安を維持する術を覚えた。


「それは、スゴイですけど……安いキーボードで良いので、買ってください。両手の練習は、流石にイメトレじゃ難しいですよ」


少し熱心に勧めてしまう。

動揺を押し隠すためじゃなくて……。


「そうですねぇ……でも、どんなの買ったら良いのか判らなくて。カムイ楽器で、キーボードって売っていますか?」

「いいえ、うちはピアノしか売ってないんですよね……安いので十万のアップライト電子ピアノからなんです。キーボードはうち以外の楽器屋か、家電量販店で購入できますよ。まず安いので指を慣らしてみて、本格的にやれるようなら電子ピアノにシフトしたほうが良いと思います」

「ピアノ、無理に売りつけたりしないんですね。楽器メーカーなのに」

「しませんよー。音楽を続けて貰いたいですからね。長く継続するためには、無理は禁物です」


本当はピアノを買ってもらえたほうが、嬉しい。でも、私のポリシーは音楽を楽しんで貰う事。押し売りで嫌な想いをしたらピアノを楽しんで続ける人を、増やす事は出来ないと思う。なるべくそれぞれのペースで馴染んでいただきたいのです。結果レッスンを継続していただけて、ピアノを買いたいと言う気持ちが育ってくれれば言う事ない。

まあ、カッコ良い事言うようだけど……押し売りして警戒されたら、メーカーの信用も落ちるリスクもある。そんな打算も無い訳では無い。


「へえ」


熊野さんはちょっと面白そうに眉を上げた。一瞬眉間の皺が消えて、コワさが半減する。ドキリ、と心臓が脈打った。

先週味わったのと別の意味で、汗がじんわり滲む。なんだかドキドキして、頬が熱くなってしまった。

凶悪なしかめっ面が解かれて恐怖心のフィルターが薄くなると、熊野さんが何だかハンサムに見える気がする。結構、イケメンかもしれない……。私の好みとは真逆だけど。




私の好みは中性的な王子様のような人。


男性が苦手な私ですが、実は小学校で初恋を経験している。と言っても、あわーい片思いだけど……。その子は女の子のように目が大きく可愛らしくて、とっても優しかった。身長は私より低いくらい。体が大きく怪獣の様ないじめっ子とは、何もかも正反対だった。同じピアノ教室に通っていてレッスンの時間帯が一緒だったから、待ち時間に私達は穏やかに話をした。

中学校に進学してからピアノ教室の時間も変わってしまい話す機会は減ったけど、発表会で年に二回ほど顔を合わせた。

そのうち彼はピアノを辞めてしまったのか、高校では発表会で顔を合わす事も無くなった。


あんな人なら。横に居ても緊張しないのにな。




「先生、見繕ってくれませんか?」

「へ?」

「キーボードです。何を買って良いのか、さっぱりわからないんです」

「まだ初心者だから……鍵盤さえついていて音がでれば、何でも良いと思いますよ」

「電子ピアノ?とキーボードの違いも、判らないんです―――もし明日か明後日お時間あったら、付き添ってもらえないでしょうか―――お願いします!」


熊野さんはこちらに向き直り、ガバっと頭を下げて来た。


何故、そんな必死なのか……。

しかも、また異様に近いんですけどっ。

普通の女性なら、平気なんですかねこの距離……。私が意識し過ぎなのかな……。

私がオロオロして返事できずにいると―――熊野さんは唐突にガバっと顔を上げ、私を睨み付けた。


ひー!最凶の渋面、コワい……っ!




「お願いします―――駄目ですか?」

「い、いいえっ、ぜひ、是非、お供させていただきますっ」




あっ。




思わず前向きに回答してしまい、そんな自分に唖然とする。


な、何を言ってるんだぁ、私は。無理、無理だよー。プライベートでこんな怖い人と一緒に行動するなんて……。


涙目になる私に、熊野さんはニッコリと笑った――笑った!?熊野さん笑えるんだ!私は熊野さんの満面の笑みに衝撃を受ける。べ、別人……。




「あざっす!」




あざっす?




一瞬意味が判らず、ぽかんとする。


あ、『あざっす』=『ありがとうございます』か。

返事も体育会系だぁ。


そういう訳で明日、何故か熊野さんのキーボード選びに付き合う事になりました。




うー怖かったよ……。

そして、果てしなく不安……。




ただでさえ苦手なタイプの男性と、仕事場以外で会うなんてっ……!



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