レッスン18
「手を離せ、望月」
肩で息をしている熊野さんは汗だくだ。
そして恐ろしく凶悪な表情で、遥人君を睨みつけていた。
一方遥人君はというと、対照的に涼しい顔をしている。優しい柔らかな微笑みを湛えたまま―――熊野さんの視線を受け止めていた。
「よくここが分かったな?」
「……お前の御用達だろ。まさか姫野さん相手に此処までやるとは思って無かったが」
「ふっ……くく」
浅く笑って、遥人君は私の手首から手を放した。
「ほら、離したよ。お前も離せ」
「……」
熊野さんが遥人君の手を放すと、遥人君は「馬鹿力」と呟いて彼が握っていた手首を逆の手首で握った。
助かった――――そう安堵する前に、吃驚し過ぎて私は声を上げる事も出来なかった。
熊野さんは何故汗だくなんだろう?
どうして、ここに駆けつけてくれたの?
ここが遥人君の『御用達』ってどういうこと?
『此処までやるとは思って無かった』って一体……
茫然と見上げる私に、視線を移して熊野さんは辛そうな顔をした。
そして、遥人君を押しのけると「帰りましょう」と言って私の手首を掴んで引き寄せた。
大きな手が私の手首を優しく包み込んでいる。
遥人君の手首を掴む時は『馬鹿力』を発揮していた力強い手。なのにちっとも恐怖心が湧かず、かえって体の力が抜けるのを感じた。
熊野さんは私の手を引き、その場から連れ出してくれた。
遥人君はその様子を、特に邪魔するでも無く眺めている。
だけど私が遥人君の脇を通り過ぎる瞬間、私だけに聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いたのだった。
(熊野も……てるよ)
「?」
何と言ったのかきちんと聞き取れなかった。その言葉に私が反射的に振り向くと、遥人君は爽やかな笑顔でひらひらと手を振った。
今起こった事が、まるで夢の中の出来事かと錯覚するような態度で。
「麗華ちゃん、またね」
そう言ってホテルを去る私達を見送ったのだった。
** ** **
ずんずんずん……と、無言で私の手首を引っ張る熊野さんの背中を見ていた。
するとピタリと熊野さんは、立ち止まった。
背中にぶつからないように急ブレーキを掛けると、ついよろめいてしまう。
振り返った熊野さんが、そんな私の肩をそっと支えた。
そしてジィっと私の顔を見て、次に髪や肩、足元など全身を確かめるように見渡した。
やっぱりそうだ。
近くで見つめられても、触られても、熊野さんには嫌悪も恐怖心も感じない。
すっかりゆだねて、安心してしまう自分がいる。
「あの……」
「大丈夫ですか……?望月に何かされませんでしたか?」
心配そうにそう言う声は、緊張に強張っていた。
責任感の強そうな熊野さんの事だ。自分が切っ掛けで遥人君と飲むコトになったから、何かあったらと思って自分を責めているのかもしれない。
「いえ、大丈夫です。お茶を飲んでいただけで……さっき手首を掴まれたのは少し怖かったですけど……」
「……良かった……」
はーっと大きく息を吐き出して、熊野さんは肩の力を抜いた。
そして、ハッと気が付いて私の肩から手を放した。
温もりが残った肩が名残惜しい。
そんな風に感じてしまう自分に戸惑いながら、私は熊野さんにキチンと向き直りその瞳を見上げた。
「熊野さん、助かりました――――本当にありがとうございました」
ペコリと頭を下げる。
顔を上げると、気の抜けた表情で私を見ている熊野さんと再度目があった。
「いや、良かった、本当に……でも、もしかして俺、邪魔しちゃったかな……?」
「え?……」
あ、そっか。
そういう捉え方もあったのか。
私はその時気が付いた。
ホテルのロビーで手を繋いている男女。そして二人は幼馴染で―――さっき判明したところでは、どうやら私が淡い恋心を抱いていた小学生の頃二人は両想いだったらしい……。
熊野さんが席を立った隙に、私だけでなく遥人君も飲み会の席から消えたのだとしたら……これは誤解されてもおかしくない。
さぁっと、頭が冷えた。
く……熊野さんに誤解されたら……
そんなのは絶対、嫌!
「そ、そんな事、絶対絶対、ぜーったい、ありえません……っ!」
私は拳を握りしめて主張した。
「そう?でも、二人でホテルのロビーに」
必死な私に向かって、熊野さんが真面目な顔でこう言った。その冷静さに私はますます焦る。
「違いますっ……!私が終電の時間を勘違いして飛び出した時、忘れ物をしたんです。遥人君はそれを持って追っ掛けて来てくれて……まだ最終まで時間あるから、お茶をしないかって」
「もうこんな時間だけど」
「ち、違うんです。あそこがホテルだってことも知らなかったし、終電に間に合うように喫茶店を出たんですけど、遥人君に引き留められて……」
しどろもどろ、更に必死で否定する私の慌てぶりに、熊野さんはホッとしたように微笑んだ。
「そっか。良かった」
「そうです!私、熊野さんだけには誤解されたくありません……!」
必死に言い募る私に目を丸くして、それから熊野さんが口元を覆って目を細めた。そして、プイっと顔を逸らす。
その肩が震えているのを見て、私の頭に血が上った。
「わ……笑って……!!」
「くっ……アハハハ……!」
熊野さんは隠すのを諦めたらしい。
大声で笑い出した。
「熊野さんっ!」
私の頬は真っ赤に紅潮しているに違いない。
そこに熱が集まっているのを感じる。
「ごめん、ごめん……すいません。あのね、分かってます。姫野さんは男の人が苦手だったんだから、今日偶然会ったばかりの望月に着いて行くような事はしないですよね」
「もしかして……からかっていたんですか……?」
責めるようにジットリと見上げると、熊野さんは困ったように頭を掻いた。
「いや、そう言う訳では無くて……あ、ちょっと何処かに入りませんか?もう終電も過ぎちゃったし、どうせタクシーで送りますから。確認したいこともあるので」
私は頷いた。
しかし、ちょっと考えてから「……ホテルとかじゃないですよね……」と聞くと、熊野さんは慌てて首を振った。
「普通の喫茶店です!」
と、ちょっと顔を赤くして否定してくれた。
とんでもない、というように強く主張する熊野さんを見て、私はホッと息を吐いた。
熊野さんは信用しているけど――――もしかして私の方がズレていたのかと、心配になったのだ。
だって遥人君があんまり悪びれないから。こっちの常識がおかしいのかと思ってしまうくらい……。
** ** **
『堀越屋珈琲』はビルの地下にあった。
照明が薄暗くてお酒も飲めるみたいだけど、確かにバーというより珈琲店というほうがしっくりくる。扉を開けるとコーヒー豆の良い香りがふわっと漂ってきた。
熊野さんはフレンチブレンド、私はココアを頼んだ。
今日は色々と飲む日だなぁ。
「からかったつもりじゃなくて、少し不安だったんです」
「不安?」
見るからに強そうな体躯を持つ熊野さんには、似合わない単語だ。
熊野さんは苦笑した。
「だって、電源切って何度掛けても出てくれないから」
「え?誰が?……あ、遥人君のスマホですか?」
いや違う。遥人君は着信を確認して、目の前で話もしていた。相手は熊野さんでは無いような気がするけど。
熊野さんはジっと私を見ていた。
「……え?私……?私スマホの電源切ってなんか……」
そういえば。
スマホはずっと、ウンともスンとも言っていない。でも、遥人君と電話で話したのに……。
鞄を探ってスマホを取り出す。すると画面は真っ黒になっていた。
「え?なんで??電源が落ちてる……充電一杯だったのに」
壊れたのかな?
ONボタンを押すと、普通に起動した。壊れていない。
「私、切った覚えないのに」
「スマホを置いて席を立った覚えは?」
「『たぱす屋』では鞄に入れてました。その後遥人君と話して……喫茶店に入って」
あ……喫茶店で……?
「そういえば、喫茶店に入ってオーダーした後お手洗いに行ったとき、テーブルにスマホを置いていったかも……って、ええ?!」
まさか……遥人君が電源を切った……の?
何で……??
「もしかして遥人君が……?何のために……」
「俺と連絡を取らせないようにしたんでしょう。姫野さんが帰ったと高橋から聞いた時、既に忘れ物を届けると言って望月が居酒屋を出た後だった。貴方に電話したんですが、話し中で。すぐ駅に向かって探したんですが、見つけられませんでした。何度か電話やメールで連絡したんですが、姫野さんのスマホは電源が入って無いらしくて……望月に電話してもアイツは無視するし……」
遥人君から電話が来たとき『切らないで』と言われた。
その時もしかしたら、熊野さんが電話してくれていたのだろうか。
私のスマホの電源を勝手に切ったとしたら、遥人君は熊野さんと連絡を取らせないようにそうしたという事?
「あ、だから……」
「……なにかあったんですか?」
「熊野さんに『先に帰ります』って電話かメールで連絡入れようとしたら、遥人君に止められたんですよ。明日の朝か、お茶飲み終わって帰るときにすればいいって。きっと居酒屋は煩いから熊野さんは着信に気付かないはずだからって……」
ちょっと考えてみれば、おかしな言い分だ。
メールを残すくらい数秒でできるし、熊野さんの邪魔になる訳じゃ無い。
「はぁー……」
熊野さんが大きく息を吐き出し、頭を抱え込んだ。
「……無防備過ぎる……」
ん?なんて言ったの……?
熊野さんは数秒頭を抱えたまま足元を見ていた。
そして不意に顔を上げて、真面目な顔で私の目にピタリと焦点を合わせた。
「無事で良かったです。本当に」
そしてニッコリと笑った。
途端にキラキラとその笑顔が輝いて見え、私は眩しくて瞼を数度、瞬かせた。
瞬間湯沸器のように、私の頭が沸騰して弾けた。