レッスン17
ああっ!今お茶していたの、ホテルの喫茶店じゃん!
全く気が付かなかった。
自分の注意力散漫さに、呆れてしまう。
あれ?以前はホテルなんて狸小路に無かったよね??最近こっちに遊びに来てなかったから、こんなところにホテルがあるなんて、考えてもいなかった!!
遥人君の顔を見上げると、彼はその優し気な柔和な笑顔でニッコリと微笑んだ。
その笑顔には、何の照れも躊躇も見られない。
「いや……それは、ちょっと……」
口元が引きつってしまう。
追い詰められた時気持ちとは裏腹に表情が笑顔になってしまうのは、何故なんだろうか。
遥人君は優雅な仕草で左腕を持ち上げ、時計を確認した。
「もう、最終出ちゃったよ……?泊まった方がタクシー代より安いと思う。俺、もともと泊まるつもりだったんだ。だから、ここも俺が持つよ?」
「あの……同期の飲み会に戻らないの……?」
動揺し過ぎて、間抜けな事を確認してしまう。
「うん。もう、それはいいんだ」
見上げる私の目を正面から見据えたまま、遥人君が一歩こちらに踏み出して来た。
反対に私は一歩下がってしまう。しかし何故か彼の目から視線を外す事ができない。外してしまうと――――一瞬で喉笛を噛み切られそうな――――草食動物に狙いをすました肉食獣に見つめられているような心地がして、私はゴクリと唾を呑みこんだ。
一歩、一歩と爽やかな笑顔の遥人君に追い詰められて、私は徐々に壁際に追い詰められようとしていた。
その時、遥人君が何かに気が付いて立ち止まった。
ポケットからスマホを取り出し、眉を潜める。そして、マナーモードの振動が鳴りっぱなしのままのスマホを、そのままポケットに戻した。
「……遥人君、出たら……?きっと、同期の誰かだよ」
「うん大丈夫。すぐ止まるから……ほら、止まった」
シン……と鳴くのを止めた薄い板をポケットから再度取り出して、遥人君が微笑んだ。
すると、すぐに再びスマホが鳴り出した。
「ちょっと、待ってて」
遥人君はスマホをタップして、今度は電話に出た。
もしかしてさっきの着信と別の人なのかもしれない。
待っている義理は無いのに、私は間抜けにも電話に出る遥人君の言う通りボンヤリとその場に立ち尽くしていた。後から振り返ると、この時走って逃げてしまっても全く構わなかったと思う。
でもその時はまだ、優しかった遥人君がそんなつもりで言っている筈はない――――『一緒に泊ろう』というのは何かの聞き間違いだし、ひょっとして『泊まる』というのも、一緒のベッドで眠ってアレコレ(照)しよう……って言う意味など微塵も無く、ただ親切に本当に『タクシーより安いから宿泊しよう、もちろん別の部屋だよ』って遥人君が種明かしをしてくれるのではないか――――そうであって欲しい。などと馬鹿な事を考えていたのだった。
「うん……うん、ゴメン。もう地下鉄降りて、これから家に帰るところなんだ……うん、向こうの都合が変わってさ。この埋め合せは今度するから……」
電話の相手は同期の誰かかな?
でも、なんでこんな嘘を吐くんだろう。
遥人君は地下鉄のホームにさえ、まだ足を踏み入れていないのに。
目の前の遥人君がますます不可解なモノに見えて来た。
スマホの相手に「またね」と言う口調は、優しくてとても甘かった。気遣うような柔らかい話し方に、益々違和感が強くなっていく。
通話を終えた遥人君は、ポケットにスマホをしまうと私にニッコリと笑いかけた。
怖い。
私は遥人君の柔らかな笑顔を見て、初めてそんな印象を受けた。
何故だろう。
距離が近かったり、手を繋がれた時はもちろん反射的に固まってしまうけれども……彼の笑顔に対してそういう印象を持った事は、今までなかったのに。
気が付くともう後が無い。
私は壁際に追い詰められていた。
混乱している私は彼を突き飛ばして逃げようとか、大声でフロントの人に助けを求めようとか、そこまで追い詰められていない筈だと思っていた。
今初めて『怖い』と感じたけれども、私にとって彼は、まだ懐かしい思い出を共有している昔なじみで、優しく笑ってくれる―――乱暴な小学校の男子と違う『良い人』っていう認識だったから。
遥人君の腕がこちらに伸びて来て、私の手首を掴んだ。
その大きな手に力が込められ、引き寄せられようとした時。
私の手首を掴んだ遥人君の手首を、がっちりと掴む更に大きくゴツゴツとした手があった。
「手を離せ、望月」
汗だくの熊野さんが、其処に居た。