レッスン15
必死に走って狸小路まで駆け込んだ。やがて息が続かなくなってとうとう足が止まってしまう。目の前にあるベンチに近づき、よろめきながら腰を下ろす。
「はぁ、はぁ……」
肩で息をする。地下鉄の最終にはまだ余裕がある。息を整える間くらいここで座っていても良いだろう。
「はぁ……はー、まいった……」
ハードルが高過ぎる。
体育会系の体格の良い男性に対する思い込みは無くなった。
だけど、小松さんの密着には―――流石に耐えられなかった……。
しばらく荒い息を続けていたが、やがて段々と息が整って来た。
すると頭が徐々に冷えて来て、すっと血の気も引いた。
あっ熊野さん……!
誘って貰ったのに、奢って貰っている立場で、何も言わずに逃げてきちゃった……!
これは社会人として完全にアウトじゃないだろうか。
「で、電話……いや、メールの方が」
鞄を探ってスマホを取り出すと、同時にスマホがブルブルと震えた。
「……遥人君?」
画面をタップして電話に出ると、優しいアルトとバスの中間の響きが鼓膜を擽った。
『麗華ちゃん、今ドコ?』
「あ、その……ごめんなさい」
咄嗟に謝ってしまう。
返事が無いので、ハッと我に還った。そうだ、居場所を聞かれただけなのに、謝られても遥人君が戸惑うだろう。
『……大丈夫?ひょっとして小松がなんかした……?』
「……っ!」
図星を突かれて思わず口籠った。
あ、これじゃ何かあったって、バラしているようなもんだ。
「えっと、それだけじゃ無くて、終電終わっちゃうし……」
『終電?ねえ、今ドコにいるの?』
「え……っと、狸小路……ベンチのとこ」
『今行く。待ってて――――あ!電話切らないで、そのまま』
「あ、うん……」
繋いだままの電話を耳に当てていると、やがて俯く私の目の前に黒い革靴が現れた。
頭を上げると、スマホを耳に当てた遥人君がニッコリと微笑んでいた。
「忘れ物」
そう言って差し出したのは、私が着ていた若草色のカーディガンだった。
「あ……」
そう言えば高橋さん、何か言いたそうだった。
これかぁ……。
どんだけ慌てていたんだろう。
ほとんどパニック状態だったのだろうか。
あの場にいた人は皆、不審に思ったに違い無い。急に大声を出して『帰る!』と言い出し逃げ帰ってしまった同僚の連れ。
それも彼女でも無い……。
って小松さんの『良かった』って言う台詞、随分と私気にしているみたい。突然テーブルの下でくっ付かれて気持ち悪さが先行しちゃっているけど、それだけじゃ無くて、私はあの人を好きになれそうにない。たぶんそれは男の人が苦手かどうかという事と別問題な気がする。
あー熊野さん、席に戻って吃驚しているだろうな。
勝手に先に帰るし、挙動不審な様子を同僚に見せるし……。
「はぁ~」
思わず盛大に溜息を吐いてしまい。
ハッとして口を塞いだ。
そうだ。目の前には遥人君が居たんだ。
肩を落とした私は彼の顔を見上げた。
遥人君は優しく微笑んだまま、私を見ていた。
「……お疲れさま。ねえ、ちょっと口直しにお茶でも飲んでかない?」
「え……でも、終電が……」
「終電?終電はもう少し後だよ。お茶一杯くらい飲める」
「え?十一時五十分じゃ」
「今十一時三十分でしょ?東西線なら十二時十九分が最終だよ」
なんと!
私の記憶は古かったのだ。終電の時刻が変わっていた。
恐怖と安堵、色んなものがごっちゃになった私の心は均衡を失っていて、優しい響きを持つ遥人君の提案に思わず頷いてしまった。
「あ、じゃあ……ちょっとだけ」
「やった!じゃ、すぐソコの喫茶店に入ろう」
「うん……」
あ、そうだ。
「私、熊野さんに何も言わずに出てきちゃった。今謝りたいから、電話しても良い?」
遥人君に尋ねると、彼は考え込む仕草で口元を触った。
「……熊野は大丈夫だよ。今飲んでる最中だから、明日にでもメールすれば良いんじゃない?さっき、高橋に伝言残したから十分だと思うな」
そっか、お話し中迷惑になるか……。
「じゃ、メールするかな?」
「お茶飲んで帰る時に送れば?居酒屋ってうるさいからメールの着信に気付かないと思うし、気付いたら気付いたでアイツ気を使うんじゃないかな」
「……そうかな?」
そんなこと無いと思うけど……。
『スイマセン、先に帰ります』くらい自分で伝えたいなあ。
「それに、アイツいぶきと仲が良いから、ひょっとして一緒に帰るんじゃないかな?」
「え、いぶきさんと……?」
遥人君の台詞で、先ほどの記憶が蘇る。
気の置けない感じで親し気に話していた二人。その様子を隣で感じて、私は何だかハラハラしていた。二人は一緒に帰るほど仲が良いのか……それって……。
「というか、俺お茶飲みたい。時間あると言ってもギリギリだから、お茶飲み終わってからメールしたら?」
「あ!うん。ゴメンね、気付かなくって」
「いーよ。どっちかっつーと俺の我儘。じゃ、いこ」
うわ。
突然手を掴まれて、思わずビックゥって肩が震えた。
けれども遥人君はそんな私の反応に気付かず、手をしっかりと握ったまま、迷いなく引っ張って行く。
小松さんに触れられた時ほどの恐怖心は無いものの、やはり緊張して体が強張ってしまう。
……遥人君、小学生の時女子が苦手だったって言っていたのに、躊躇なく手を繋げるんだ。
私は同じ経験を持つ者として―――自分との違いに驚くばかりだ。
これって普通?……普通なの??
知合い程度の男女が手を繋ぐのって、近すぎる気がするんだけど……。
あ、でも。
私酔っぱらって熊野さんにしなだれかかったり、枕にしたり、腕くんだりしたな……。
あれ?
もしかして。
私が熊野さんにやったことって……。
小松さんと変わらないんじゃないの……?!
「おーい、麗華ちゃん」
目の前で手を振られて、意識を取り戻した。
ぐるぐる考えに沈んでいて、すでに紅茶が目の前に運ばれているのも気が付かなかった。
うわの空で遥人君に連れられ喫茶店に入り、オーダーを確認されお手洗いでぼんやりと化粧を直して席に戻って来た。その間中、ずっと考え事に意識を奪われていたのだった。
「あ、ごめん……」
「大丈夫?……やっぱり、小松に何かされたんでしょ?」
心配そうに覗き込む遥人君の柔和な顔を見ていると、黙っているのも強情な気がしてきた。
「……あの……偶然なのかもしれないけれど……」
「うん」
「体が触れるって言うか、小松さんの……脚がピッタリとくっ付いて来たんだ。だから、高橋さんの方に体を寄せて離れたの。そしたら―――また向こうからこっちに体を詰めて来て、テーブルの下で脚がくっ付いて来て……それで怖くなってしまって飛び出しちゃったの」
遥人君は沈痛な面持ちで黙ってしまった。
同僚を悪く言われて気を悪くしただろうか。私は途端に不安になってしまった。だから慌ててフォローするように口を開いた。
「あの、そういうの普通のコトかもしれないけど、私男の人がずっと苦手で……隣に座るなんて経験がほとんど無くて……ちょっと恐怖症みたいになっているから、過剰反応だったかも。ゴメンね……遥人君の同僚を悪く言うつもりじゃ無くて、私がただそういうの苦手で耐えられなかったってだけだから……」
「違うよ」
俯いて早口に言い訳をする私の台詞を、遥人君はきっぱりと遮った。
私は弾かれたように顔を上げた。
遥人君は、真面目な表情で私をまっすぐ見ていた。
「麗華ちゃんは何も悪くない。悪いのは小松だ。それに――――ゴメン」
謝罪の言葉が遥人君から出て、首を傾げる。
何故彼が謝るのだろう?席も離れていたし、その時別の人と話していた遥人君はこちらの状況を把握していなかった筈なのに。
「俺達の配慮が足りなかった。アイツ――――小松には悪い噂があったんだ。派遣の女の子にしつこく言い寄ったとか、馴れ馴れしく触ったりするとか――――それなのに、麗華ちゃんの隣に座った時追い払わなかった」
「でも、反対側にも『いぶき』さん?もいたし、高橋さんには普通に接してたから。私が気にし過ぎたのかも」
「いや、アイツ、人を見るんだ。断れないような相手には強く出ているんだと思う」
ぐさっ。
遥人君の何気ない一言が私の心臓を貫いた。
つまり、私は他の女性と違ってなめられていたって言うコト?
表情に出てしまったのか、遥人君が慌てて取り成した。
「あ、違うよ!つまり、麗華ちゃんって、おしとやかで優しそうでしょ?何でも許してくれそうに見えるって言うか――――それに、『いぶき』も高橋も出会った当初は小松に絡まれたんだよ?いろいろ反撃して、徐々に小松が諦めたというか……ね、悪い意味に取らないで」
「あ、うん……ありがとう」
と言いつつも結構凹む。
遥人君の言う通りだ。だけど、私の場合小松さんと長く付き合っても反撃も出来ずに泣き寝入りしてしまうだろう……。
それに私が『何でも許してしまう』コトがあるとしたら、それは納得してのコトでは無い。嫌々だけど勇気が出なくて口を噤んでしまった結果、そう見えるだけだと思う。
「あの……ごめん。つまり俺が言いたかったのは……」
遥人君は、困ったように眉を寄せて笑った。
その表情は何とも綺麗で優し気で。少しタレ目がちの柔らかい目元を見ていると、この人はやっぱり相当モテるだろうな、と改めて感じずにはいられなかった。
客観的に見たら熊野さんの方がカッコイイと思う。だけどモデルみたいな精悍な容貌の熊野さんは、一見近寄りがたい雰囲気がある。
だから実際は熊野さんより遥人君のほうが、ずっとモテるんじゃないだろうか。
不安になった時寄り添うような台詞で柔らかい目元で微笑まれると、女の子は簡単に彼に心を許して好意を抱いてしまうに違いない。
私がそうならないのは――――たぶんもう既に熊野さんという男の人に、かなり自分の関心を持って行かれているから。色んな意味で……。
そんな取り留めのない考えごとを頭の中で転がしながら、ぼんやりと遥人君の言葉を聞いていた。すると、遥人君が思いがけないコトを口走ったので、口を付けていた紅茶を思わず吹き出しそうになる。
「麗華ちゃんが、あんまり可愛いから心配なんだ」
「――――げほっ、ごっほ……!」
『可愛い』と言われた傍から、『可愛い』女性像と程遠い咽せ方をしてしまう。
「大丈夫……?」
遥人君が整った相貌で、口を覆って咽せる私を覗き込む。
「う……うん、でも遥人君が変な冗談を言うから……」
地味とか、落ち着くとか言われる事はあっても―――誰でもそう言われる幼少期を除いて―――生まれてこの方『可愛い』なんて評された事は無い。
真面目な顔でこんな社交辞令を言える遥人君は、やはり相当モテるに違いない。
あ、営業だからかな?口が上手いのって……でも、熊野さんはここまで軽くないけど。
うん。遥人君って、小学校の頃は気付かなかったけど―――『軽い』。
私は自分の人の目を見る目というものが、本当にきちんと育っていなかったという事を実感した。
そんな私を遥人君は、首を振って窘めるように見た。
「冗談なんかじゃ無いよ。昔からずっとそう思っていた。麗華ちゃんは――――俺の初恋の人なんだから」




