レッスン12
最初に入ったのは雰囲気の良いイタリア料理店だった。
朱色のテーブルクロスが素敵な四人掛けの席に案内される。
店内を見渡すと、白い塗り壁に天井に剥き出しにされた木の梁が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
ビルの中の一店舗だからこの梁はイミテーションなのかな?……と、ぼんやり思いを巡らせた。
「飲み物、どうします?」
チケットを店員さんに渡した熊野さんが、メニュー票をこちらに向けてくれた。
「うーん……ビール……と言いたいところですが」
ビールは止めよう。
うん。もう二度とあんな失態、晒したくない。
「じゃあ、スプマンテはどうですか?」
「スプマンテ?」
「イタリアのスパークリングワインです。シュワっとして飲みやすいですよ」
「じゃあ、それでお願いします」
熊野さんはスプマンテを二杯店員さんに注文した。
暫くすると給仕の男の人が、スプマンテと煮込み料理みたいなおつまみの皿と揚げた魚のオイル漬けみたいなものを運んできた。
「こちら『サンマのカルピチオーネ』と『トリッパとパルミジャーノレッジャーノ』になります」
頼んだおつまみは二種類。
「『カルピチオーネ』って何ですかね」
「これは……南蛮漬けですね。サンマを素揚げして甘辛いタレに漬け込んでいる」
「このワッフルみたいなのは『トリッパ』ですか?」
「日本では『ハチの巣』って呼ばれてますね」
「確かにハチの巣に見えますね……」
「牛の胃袋です」
「え!いぶくろ……初めて食べます。モツ煮込みみたいなものかな……」
「モツ煮込みよりずっと癖が無くて食べやすいですよ。ちょっと摘まんでください」
「……ん!美味しいです。本当だ、全然癖が無い。柔らかくて食べやすいです」
「でしょ?サンマもどうぞ」
おつまみを摘まんで、スプマンテを一口。シュワっと爽やかな酸味が広がった。
「これも、飲みやすくて美味しいです!おつまみと一緒に口にするとサッパリして」
「それは良かった。気に入ってくれました?」
「はいっ!」
熊野さんは本当に詳しい。
一般的な社会人って、こういうモノ……??
私が無知なだけだろうか。
おつまみとスプマンテはすぐに空になった。
「ここで居座りたいくらいですが、せっかくですから、いろいろ回ってみましょう」
熊野さんに促されて、次のお店へ移動する事になった。
次に熊野さんが連れて来たお店は『たぱす屋』というこじんまりとした居酒屋だった。狸小路のすぐ近くに古い二階建の建物があって、中に幾つもの小さなお店がぎっしり詰まっている。
こういうのなんていうんだろう。……隠れ家的って言うのかな?
粋な暖簾を潜ると、目の前はカウンターになっている。無垢材のカウンターが落ち着いた感じ。奥には小上がりもあるみたいで、そちらは既にいっぱいだった。カウンターはかろうじて二~三人の余裕があった。
「カウンター、いいですか?」
慣れた様子で熊野さんがカウンターの中の料理人さんに声を掛けた。
「どうぞ」と言われ、熊野さんに席に着くように促される。
「上着、こちらに掛けますね」
壁際のハンガーを手に、上着を受け取る熊野さん。
なんか慣れているなあ。ソツが無い。
もしかして。
女の人と飲みに来るコト、よくあるのかなぁ……。
「姫野さん?座りませんか……?」
「あ……はいっ」
いけない、いけない。
ついぽやっと、熊野さんを見上げて固まっていた。
考え事は後にしよう。今は熊野さんと楽しくご飯を楽しみたい。
席に着いて店内を見渡す。
「なんかここ、落ち着きますね」
「狭いのがかえって良いんですよね。家庭料理っぽいメニューも多いから、残業で夕飯食べそびれた時なんか結構便利ですよ」
「残業ですか」
「営業なもんで、結構突発的に対応しなきゃならない事が多いんですよね」
やっぱり営業かぁ。
熊野さんがどんなお仕事しているんだろうって気になっていたけど『接待』って単語が出ていたから何となく営業かな~と思っていた。
チケット対象のおつまみから、出し巻き卵と牛スジと豆腐の煮込みを選んだ。
飲み物は……終に耐えられずビールを頼んでしまった。熊野さんは『北乃勝』という地酒を注文した。
「日本酒も呑まれるんですね」
「ええ、道内の地酒に嵌っているんです。地方に行く仕事も結構多くて」
「『北乃勝』って北海道のお酒なんですね」
「根室で作っているんですよ。最近は地酒も札幌で気軽に呑めるから良いですよね。地ビールとか地ワインも好きです。休みに趣味で空知管内のワイナリー巡りとか結構行きますよ」
「ワイナリーですか?」
「有名なワイナリーが点在しているので、梯子したりするんですよ。序でに蕎麦とかアイスクリームとか有名処を回ったり――――そうだ。今度一緒に行きませんか?」
「はあ……」
ニッコリと微笑む熊野さん。
私は咄嗟に適当な相槌を打ってしまう。
うっ……まぶしい……。
眩しさにドギマギしてしまい、熊野さんの言っている意味が今いち把握できない。
ん?何処に行くって言っていたっけ……?
一口に空知って言っても、車で三十分の近い処から二時間以上かかる遠い処まである。ワイナリーって日帰り出来る距離なんだろうか……??
いや、泊まりってコトは無いよね。じゃあ札幌から近いのかな……。でも車だよね……車の中で男性と二人きりって辛くない?
あ、それとも仲間内で纏まって行く集まりに誘ってくれているのかな……?きっとそうだよね。
私達は狭い店内のカウンターの端の席に陣取っている。
熊野さんの大きな体が私の視界を遮っていて、周囲の客は目に入らない状態だった。ここはまるで個室ではないだろうか、と錯覚してしまうくらいだ。
「あの、ワイナリーって……」
「……あれ?熊野じゃん」
聞き返そうとしたとき、大きな熊野さんの壁の向こうから声が聞こえた。
知合い……?
「なあ、熊野!」
「え?熊野君?」
「本当だー」
熊野さんはチっと舌打ちして、一瞬しかめっ面を作った。
ん?目の錯覚??
すぐに表情が戻って、私にニコリと微笑むと「すいません」と断って後ろを振り向いた。
「あ!やっぱり。体格で分かったよ」
「熊野く~ん、偶然だね~」
「用事あるって言ってたのって……あ」
振り向いた熊野さんの壁の隙間から、数人の男女が店の中に入って来た処が目に入った。
「あれ?デートですか」
「へー、熊野って深山ちゃんに靡かないと思ったら……」
「ちょっと!なに余計なコト言ってるのよ」
「良いな~」
「あ!そうだっ彼女も一緒に飲みましょうよ!」
彼女……では無いのですが。
しかしピアノを習っている事を知合いに公表しているのだろうか……熊野さんって。
何と応えて良いか分からず、オドオドしてしまう。それに女性陣と一緒に呑むのは平気だけど、基本的に男性と一緒なのは私にとって相当キツイ。熊野さんとこうして隣合っている状態が奇跡だというのに。
「いや、ちょっと今日はスマン。少しだけいて、すぐ出る予定だから」
熊野さんが片手で謝るように、ペコリと頭を下げた。
「え~付き合い悪ーい」
一部からブーイングが。ひょっとしてお仕事のお仲間だろうか。
私はテーブルの上に乗った熊野さんの袖を指で引っ張った。
「……熊野さん、私帰りますから合流してください」
声を潜めて耳打ちした。
あ、勿論距離は取っているよ。くっつきすぎると自爆するから。
熊野さんはクルリとこちらを振り向いた。
出た。しかめっ面。
「自分からお誘いしたのに、そんなことできません」
なるほど。
そうだよね……熊野さんって義理難そうだから、自分から誘った私を一人で帰して友人?同僚?――――の飲み会に合流するなんてできないよね。
なら私が一緒に合流するのが一番丸く収まるのかな……?
適当なとこで私だけ抜ければ良いし。
そうすれば、熊野さんも私に気を使わないで済む。
考え込む私を不審そうな表情で熊野さんは覗き込んだ。
私達が話し込んでいるので、熊野さんの向こう側にいた大半のメンバーは予約してあるらしい奥の小上がりに入って行った。男の人と女の人、一人ずつが奥を気にしながらもまだ入口近くに立って熊野さんの回答を待っていた。
わぁ……なんだか私の所為で飲み会の開始が遅れているのでは……??
何だか気が焦ってしまい、慌てて熊野さんに言いつのった。
「熊野さんっ。私も参加しますから合流しましょう」
「でも……男性もいますよ……?」
あ、そっか!
熊野さんには私が男性が苦手だってバレているんだった――――酔ってぶちまけたからね!!アハハ……ハ……。く~~カッコ悪いなぁ……私……。
「平気です……!熊野さんのお陰で結構免疫着いてきましたし――――それに、なるべく女性の間に入れて貰えば大丈夫ですから……!」
低い声音で相談する私達を待っていた人達が、暖簾を上げて入って来た人物を見て小さな歓声を上げた。
「あ!来れたんだ」
「望月君、みんな始めているよ――――あと、珍しい人が居たの。今合流しようって声かけているんだけど……」
「へえ。熊野じゃん」
熊野さんの顔に緊張が走った。
う……凶悪な顔だぁ……。
久しぶりに私もヒヤっとする。
「熊野も偶には参加しろよ。付き合い悪い営業なんてマズいだろ」
ん……?
この声……
熊野さんの肩に掛けられた手の主を見上げた。
「あ……」
「え?……麗華ちゃん……?」
そこに居たのは、つい先日パン屋さんで再会した遥人君だった――――!




