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レッスン10


次の週のレッスン日、熊野さんは欠席せずに足を運んでくれた。


「前回はすいませんでした。当日キャンセルしてしまって」


私はホッとして肩の力を抜いた。

どうやら熊野さんが怒っている様子は無い。

あのままレッスンを取り止めにされてしまうかとさえ思っていた私は、ホッとし過ぎて涙目になりそうだった。


「いいえ――――こちらこそ……っ」


涙が溢れそうになって、言葉に詰まる。

こんなコトあってはならないのに、思わず生徒さんである熊野さんから顔を背けてしまう。


「……どうしました?」


背けた頭の後ろから、熊野さんの気遣うような低いバリトンが響いて来た。

私はポケットに入っているティッシュを取り出し、鼻を拭う振りをして涙を吸い込ませた。

それから熊野さんに向き直る。


「大丈夫ですか?目が朱い……」

「すいません、ちょっと鼻炎気味で。目にも来ちゃったみたいです」

「それは心配だ。レッスン今日もお休みにして帰りましょうか」

「いえっあの……軽いアレルギーみたいなモノで、他に具合が悪い処も無いんです。このまま続けさせてください。それに――――うつる病気じゃないので、ご迷惑掛けないと思いますし」

「移るとかそういうのは、気にしませんよ。むしろ望むところです」


ん?


「それより、先生の体調ですよ。大丈夫なら良いのですけれど……くれぐれも無理しないでくださいね」


真剣な顔で噛んで含めるように、諭された。

その圧力に思わず頷いてしまう。


相変わらず距離が近いのだけど、私の体はどうやら熊野さんに慣れてしまったらしい。

何せ散々酔っぱらって自分から腕を絡め、フラフラになって手を引いて貰い、寄りかかって電車で居眠りさえしてしまったのだ。この程度の距離、今更怯んではいられなくなった。




……そうだった。




そこまで考え到って、やっと思い出す。

メールでは謝ったけど、顔を合わせてまだ直接謝っていなかった。

熊野さんが怒っていない事にホッとし過ぎて、肝心な事を忘れていた……!


「はいっ肝に銘じます!……ところで、熊野さん」

「はい」


正面に向き直ると、熊野さんが優しい微笑みで首を傾げていた。


うっ……なんか……。


気持ちや体が熊野さんに近づいた所為だろうか。何か以前よりずっと、熊野さんがキラキラして見えてしまう。少し微笑まれただけで、ズキュンっと心臓が跳ねた。

首なんか傾げられたら……大きくてガッシリした男性が首を傾げたら……な、なんか素敵というかカッコ良すぎるというか……とにかく身の置き場がないほどドキドキしてしまう。


「何でしょうか、先生」

「あの、あの……この間は――――すみませんでしたぁ!!」


がばっ


土下座する勢いで――――実際はピアノでギチギチの狭い空間で椅子に座っているから土下座は無理なので、太腿に上半身が付くくらい頭を下げた。


「……」


返事が無い。

恐る恐る顔を上げると、熊野さんは首をかしげたまま固まっていた。


「……くまの、さん?……あの」

「えーっと、何の事ですか?」


熊野さんは、心底思い当たらないという顔で首を捻っている。


えっもしかして……


「あの……ビア・ガーデンの時、ご迷惑をお掛けして……酔っぱらって、更にウチまで送らせてしまって……本当にあの、失礼な事ばかり―――御免なさい!」

「あ……え?ああ。そのことですか」


熊野さんは一瞬キョトンとしていたが、合点が行ったというように頷いた。




「ぷっ」




呆けている私の顔を見て、熊野さんが噴き出した。

口に拳を当てて、体を震わせて私を見ている。


「アハハハ……アハっ、ククク……」


思わず眉が下がる。

なにこれ。

熊野さんって、やっぱり笑い上戸?


何処がツボだか、サッパリ分からない。

でも、私のコトを笑っているのだっって事は理解できる。


「ククク……っ」

「熊野さん、私真剣に申し訳ないと思って悩んでいたのに……笑い過ぎですっ」

「うっ!!くはっ!……す、すいませんっ」


両手で口を押える熊野さん。

私は涙目で睨みつけてしまう。




はっ!

違う、私は謝りたかったんだ。

笑われたくらいで怒れる立場じゃ無かった……!




「とにかく……すいませんでした。酔っぱらって絡んじゃったり、失礼な発言をしたり、愚痴を聞かせちゃったり、家まで送っていただいたり、電車では枕にして眠ってしまったり……」


……改めて口にしてみると―――うん、やっぱり私ってヒド過ぎる。


「……それを謝りたかったんです……」

「大丈夫ですよ、全然。あれくらい酔っぱらった内に入りません。可愛らしいもんです。実際かなり役得でしたし……気にしないで下さい」


熊野さんがパッと大きく笑った。

その笑顔はさながら花が咲いたようで……まるで太陽に顔を向けた向日葵みたいに明るくて。




それを見ていると、やはりあの夢は記憶の混乱がもたらしたモノだと言う気持ちが強く湧いて来た。きっと昔の記憶と今の記憶が混濁したんだ。似たタイプの二人を、私が重ねて考えていたから、夢の中でそれが混じりあってしまったんだろう――――そうに違いない。


こんな優しい人が、あの小学校のアイツに似ている訳が無い。

ましてや、同じ人間である訳など。




第一、名前が違う。たぶん……。




アイツの名前も顔と一緒に忘れてしまったけど、少なくとも『熊野』では無かったハズ。忘れていたとしても、同じ名前だったらきっとピンと来たと思う。体が受け付けなくて記憶が薄れたと言っても―――そこまで綺麗サッパリ忘れてしまう訳が無い。




――――それじゃ、記憶喪失だ。




だけど、遥人君さえ認識できなかった私だ。


私自身はそれこそ、子供の頃から顔も雰囲気も変わっていないって良く言われる。


でも、小学生の男の子と二十代半ばから後半の男性って、声も違うし骨格も変わっている。それこそ見覚えが無いなんて、当たり前のことじゃないだろうか……。


いや、そうだとしても。


うん。熊野さんは違うよ。

雰囲気は似てるかもしれないけど、私には分かる。


この人はアイツじゃない。

少なくとも、女の子の髪を引っ張って喜ぶような人じゃない。




「百面相……」

「え?」

「いえ、何でも――――そうだ、姫野先生。もしビア・ガーデンの事をお気にされているのなら、お詫びにもう一か所、付き合っていただけませんか?」


ニヤリと熊野さんが嗤った。

少し黒いような……?初めて見る表情だった。


「え……は、はい。私で宜しければ……?」


こうして私は三度目の食事に、熊野さんと出掛ける約束をしてしまったのだった。








あれ?

いつの間に。何故こんな事に……??



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