レッスン1
その人は頭を屈めて防音室に入ってきた。
体の大きさのため、小さな防音室の圧迫感がハンパない。
私は内心、盛大に身を引いていた。
『サ○ケ』に出ているレギュラーメンバーのように逞しい体を、白いシャツにネクタイで押し込めたしかめっ面の男性が、今日から私の生徒になったのだ。
** ** **
ところで。
私は男の人が、超・超・超苦手だ。
小学校で乱暴なクラスのボスに、思いっきり虐められて泣いて暮らした経験があるからだ。
本当に辛くてソイツと同じクラスにこれ以上いられなくて……体を壊した私を心配した両親は、念願叶って購入した夢のマイホームを手放し、私は学区の違う小学校に転校する事になったのだ。
その暗い記憶は、今でもトラウマになっていて。
私は髪を伸ばすことができないでいる。
一番嫌だったのが、トレードマークの三つ編みをぐいぐい引っ張られた事だった。これが強烈に痛い。その記憶の所為で髪を伸ばせなくなったくらいに。髪をグイッと引っ張られるのではないかという本能的な恐怖から、未だに逃れられないのかもしれない。
小学校からピアノを習っていた私は、結局短大の音楽科に進学した。
そこは女性がほとんどで、居心地が良かった。
男性も中性的な容姿や性格の人が多く、苦手ながらも世間話をするくらいはできるようになった。とはいっても、二人きりで話すのは落ち着かないので、男性の伴奏依頼はやんわりと断って女子とばかり組んで試験を受けた。
音楽科を出てもピアノで食べて行ける人は、少数だ。
ピアノ教室も世の中に溢れていて、それ自体で生きていける人はかなりのコミュニケーション能力がある人だと思う。
だから『カムイ音楽教室』という大手ピアノメーカーに採用され、講師の職を得られたのは―――本当に私にとって幸運な事だった。
ラッキーな事に高倍率の入社試験を潜り抜け、無事ピアノメーカーに就職した私は現在、札幌市の西区にある西センターという教室で主に個人レッスンを担当している。
そんな私が担当する生徒は、大抵子供だ。四~六歳くらいから高校生まで。三十分ずつテキストに沿って教えている。生徒の大半は女の子。男の子もいるが―――自分より小さい子供はあまり怖くないから、何とか教える事が出来る。
最近大人用の個人レッスンを申し込む人も増えつつある。保育士を目指している女子大生や、子供の頃ピアノを習っていて一旦辞めたけど懐かしくなって門戸を叩く、という人が多い。それに加えて近頃は、子供の頃ピアノを習いたかったが様々な理由―――金銭的理由だとか親の方針だとかで、それが叶わなかったという人が意を決して初めてチャレンジするっていうパターンも見られる。
仕事にも慣れ金銭的な余裕もでき自分の自由が効くようになった大人に成って、あの時諦めていたピアノを習おう!と思い立つ人は案外多いらしい。
でもそう考える人の大半は、女の人だ。
今日私の横に座っているのは、男性。
しかも私の苦手な、明らかにかつて体育会系でした、と一目で分かる体格の良い男っぽい人だ。
流石に苦手なタイプだからと言う理由のみでレッスンを断る事はできない。私は内心ビクビクしながら、それでも入社後三年間で身に付けた『愛想笑い』(注:言葉に矛盾するようだがこれは、心から行わなければならない。自分の本心も騙すくらいに。表面的な『愛想笑い』は子供にすぐ見抜かれるからだ)で、生徒さんと向き合った。
しかし、でかいな……。
防音室の天井に届きそうな長身。
精悍と言える、野性的な相貌。以前流行った海上自衛隊の映画に出演していた俳優さんに似ているかもしれない。体格もパリッとした白いシャツの上からわかるぐらい筋骨隆々としている。
私は震えあがった。
「よろしくお願いします。レッスンを担当する姫野麗華です」
さんざん名前負けと揶揄された、まさに華麗な名前を披露する。
挨拶は私にとって一種の羞恥プレイです。……いい加減、慣れましたが。
それに突っ込みを入れる様子も無く(初対面で突っ込む人はいないと思うが)、男性はぺこりと頭を下げた。
「熊野豪太です。よろしくお願いします」
『ザ・男』っていう印象の名前。『名は体を表す』?
それに―――低い声。やはり男性ホルモンが多めなのだろうか。と、変なコトを考えてしまう。
眉間に皺を寄せてこちらを睨む彼は、妙な迫力がある。ニコリともしない。
やはり苦手なタイプだ。
社会人なんだから笑顔には笑顔で返せよ。と心の中で舌打ちをする。
だって、コワいんだもん。
狭い防音室にみっしりと置かれたグランドピアノに、並んで腰掛ける。こんな大人の男性がいきなり暴力をふるう事はないだろうが―――うっすらとフラッシュバックするいじめっ子の記憶に苛まれつつ、私は内心ビクビクしながら話し掛ける。
「覚えたい曲があると伺っているのですが、どんな曲ですか?」
大人のピアノ・レッスンでは、こういうリクエストが多い。
「……『星に願いを』です」
お!やったっ。
「わぁ!良い曲ですよね。私も大好きです!」
好きな曲目を上げられて、思わず怖さを忘れてはしゃいでしまった。私の温度差に驚いたのか、熊野さんが一瞬ぴきっと体を硬くしたような気配を感じる。
いかん、いかん。子供相手じゃないのだから、大人の女性は落ち着いて話さねば。
「ピアノを習った事はありますか?ご自分で引いたことは?」
「いえ、小学校で鍵盤ハーモニカを引いたくらいの経験しかありません」
「じゃあ、まず右手だけ覚えましょうか。譜面取ってきます」
私は立ち上がり、熊野さんの背後を通ろうとする。が、……小さな子供と違って背後のスペースが狭い。
「あの……」
「あっ、すいません」
気付いて熊野さんが立ち上がる。私はその背後をずりずりと移動する。
ち、近い……
ギリギリで大きな体を避けて通ると、ほのかに白いシャツから体温を感じて体がカっと熱くなる。
短大を卒業後就職して以来、こんな距離で男性の体温を感じる機会は皆無になった。お蔭で……というか、その所為でちょっとした事でもこんなに恥ずかしい。
二十五歳にもなって、男性に免疫無いなんて。残念過ぎる自分が悲しい……。
既に、結婚は諦めている。男性と一日中同じ部屋にいるなんて、絶対無理だから。
譜面を拡げて、改めて横に座る。
「えーと、音符は読めますか……?」
「読めると思いますが、ドレミ以外はいちいち数えないと……見てすぐ理解するレベルではありません」
「じゃあ、まず音符にドレミを書きこんでみましょうか?あ、コピー取りますね……」
慌ててまた熊野さんの後ろを通ろうとすると、彼は私を制して言った。
「俺が取りますよ。そこにあるコピー機ですよね」
「あっ、いいです、いいです」
生徒さんを使うなんて申し訳ない、と首を振る。
熊野さんはすぐに引いてくれて、また席を立ってくれた。
ああっまた、立たせてしまった……申し訳ない。譜面取りに行くときにすぐコピーを取って置けば、何度も立たせずに済んだのに。
自分の要領の悪さに泣きたくなる。
子供相手だったら、もっとスムーズに『先生』できるのになぁ……。
緊張のあまり、いつも以上に手数が掛かってしまう。
事務員さんは通常夕方五時で帰る。だから事務スペースは、今は空だ。つまりこの教室には―――私と熊野さんしか、いないのだ。
ついそう意識してしまい、また頬に熱が上がる。
ただでさえいっぱいいっぱい。
そんな状態で、私はコピー機の前に立ってしばし固まってしまった。
そういえば新しいコピー機は、リースして以来手を触れた事が無かった、と気付く。
どうしよう、どうしよう。
唯でさえ短いレッスンの三十分が、どんどん消費されていく。しかも私の不手際の所為で。
冷や汗を掻きながらコピー機の蓋を開けたり、ボタンをいじったりしていると、
「先生、大丈夫ですか?」
落ち着いたバリトンが、背後から響いた。
振り向くと、すぐ後ろに長身の熊野さんがしかめっ面で立っている。
ひえぇぇ……!
私は恐怖で、一瞬真っ白になった。
「あ、あの……すいません。使ったこと無くて……」
声がブルブル震える。男っぽい人に近距離で立たれるだけで、緊張で更に冷や汗が増産されるのを感じた。
「ああ」
熊野さんは眉間の皺をすっと解いて、私の背後から手を伸ばした。
私は咄嗟に体を収縮させて、固まってしまう。
それに気付かない様子でスルリと譜面本に手を伸ばした熊野さんは、ガラス面にきちっと譜面を押し付け、何やらピッピッと操作していとも簡単にコピーを取った。
私は思わず、その早業を食い入るように見つめてしまう。
「――でいいですか?」
「え?」
「一部でいいですか?」
「あ、は……はいっ!!一部で、一部で結構でしゅ!」
ぎゃあっ!
緊張のあまり、声が裏返ってしまった。
「……」
熊野さんは目を真ん丸くして、私を見た。そして、すっと目を逸らす。
その事実に、私は盛大に真っ赤になってしまう。
ああ~~!叫びだしたい!
そして恥ずかしさのあまり、熊野さんを心の中で罵倒する。
熊野さんが、音も無く近寄るから!苦手なのに、声もかけず近寄るから!緊張しちゃったんじゃないっ!
私がアワアワしている内に、コピーを終えた熊野さんが原稿を揃えていた。もう元のしかめっ面に戻っている。
こ、こわいよ~~。
私は心の中で一瞬逆切れしていた事も忘れて、また恐怖に縮こまった。
「先生、これどうしますか?」
「あ、はいっ……え……と、では、ドレミを書きこんでください」
結局音符にドレミを書きこんだだけで、レッスン時間が終了してしまった。
……申し訳ないけれど、これで切り上げる。
気を遣ってサービスしてしまうと、キリが無いからだ。三年かかって『ビジネスライク』という適度な生徒との距離の取り方を覚えた。
でも、大半は私の不手際で時間を消費してしまったワケで……。
いたたまれない。いたたまれないよ~~!
「では、これを右手で弾く練習をしてみてください。来週、確認しますので」
「……」
私が立ち上がると、横に座っていた熊野さんも立ち上がった。
また、防音室の圧迫感がハンパ無い。
しかも、無言で私の愛想笑いを睨み付けている。
子供相手のように、誤魔化しきれない。
私は反射的に目を逸らして、俯いた。
やはり私の手際の悪さで、レッスン時間をほぼ消費してしまった事を怒っているのだろうか……?『大丈夫』と一旦断わったくせに、結局コピーをお願いしてしまったのだ。
ああ~~情けなすぎる……。
勇気を出して、顔を上げた。精一杯自然に見える笑顔を貼り付け、エイっとばかりに目の前の長身の男性を見上げる。視線の先の表情は―――
―――熊野さんのしかめっ面は、『凶悪』だった。
私は戦慄して笑顔のまま、またしてもピッキーンっと固まってしまう。
「かみは……」
「?」
「かみは伸ばさないんですか?」
んっ?『かみ』?譜面の『紙』?……あっ、『髪』か!
思っても見ない台詞に、内容を把握するのに時間がかかった。
「えーと……ちょっと、トラウマがあって」
「トラウマ?」
「昔、いじめっ子に引っ張られて、すごく痛い思いしたので」
「え……」
熊野さんが、更に咎めるような渋面になった。
はっ、私は何を……っ。
誰も、そんな細かいこと聞いてないってっ!
熊野さんは、あくまで軽い話題を提供したのだろう。それなのに自分のトラウマの話まで持ち出すなんて、呆れられても仕方ない。
久しぶりに『ザ・体育会系』って感じの男性の傍にいる緊張で、昔の事を思い出してしまったからだろうか……?
自分の過去に捕らわれて、仕事に集中していなかったから―――こんなレッスンを受けに来ただけの初対面の人相手に、言ってもどうしようもないような事を思わず口にしてしまった……!
……しかも、さらに深くなったその渋面が怖いっ
そんな『社会人失格』みたいな目で見ないでぇ!
「ご、ごごごめんなさい。そんな事、どうでも良いですよね」
「……」
無言の圧力に私は思わず再び、俯いてしまう。
駄目だあ……挙動不審な先生だって、呆れてるのかな?
次のレッスンから、キャンセルされちゃうかもお……。
ますます防音室が狭く感じる。
私が再び、盛大な冷や汗を滝のように流しながら俯いていると、頭の上から溜息が聞こえてきた。
「失礼します」
囁くようにバリトンが響くと、防音室の扉があいて―――閉まる気配がした。
しばらく下を向いていると、すっかり気配が消え失せた。
熊野さんは教室を出て、既に階下へ降りたようだ。
失態だ。
私は堪え切れず、ポロリと涙を零した。
男の人が苦手でも、生きていけると思っていた。
でも仕事に支障が出るほど緊張するなんて、大人のやる事じゃない。
私は心底―――自分が嫌になった。