西欧桜の咲くころに
「では行って参る」
「ご武運を」
(そして、どうかご無事にお戻りください)
サエの祈りは届かなかった。返事の代わりに軽く手をあげたあの人。その後ろ姿は今もくっきりとサエの瞼に焼き付いている。一本の芯の通った桜のような人だった。桜のように散っていってしまうところまであの人らしい。けれど泣き腫らしてばかりもいられなかった。幾つもの戦いを経て時は流れ、時代は明治へと変わった。サエも慣れない仕事に精を出した。多くのことが変わり、毎日を生きていくのにやっとだった。
ある日、サエが仕事帰りに町を歩いていると花売りに声をかけられた。行燈に光は今ではガス灯に代わり、夜の町も昼のように明るい。
「かわいらしい花でしょう。これも西洋伝来ですよ。秋の桜、とかいてコスモスというんです」
この西洋伝来の桜は、春ではなく秋に咲くらしい。売り子は人好きのする笑顔を浮かべ、サエに花をすすめた。
「細い茎に大きな花。可憐で美しいけれど、私に育てられるかしら」
「こう見えて、この花はとても強いんですよ。荒れた土地でも咲き誇るといいます」
荒涼とした大地に咲く一面の鮮やかな花が秋風に揺れる。そんな光景が脳裏に広がり、サエは決めた。
「庭に植えてみるわ。くださいな」
その日からサエは、かいがいしく花の世話をした。仕事で粗相をし厳しく叱られた時も、水を遣り、剪定していると心がほぐれてくるようだった。秋桜はすくすく育っていき、何度も支柱を立て替えた。風の強い日は折れていないか心配で、夜も様子を身に出ることもあった。しかし、細くしなやかな茎は風に大きく揺られても折れることなくまっすぐ伸びていった。
時々、世話焼きな老人がこう言ってくれることもあった。
「花なんか育てるよりも、身なりを整えて美しく化粧をして見合いの相手を探したほうが身のためだよ」
サエは丁重に礼をのべたが、花を育てることをやめなかった。
秋になり、サエの家の庭の片隅には橙、赤、桃色と色とりどりの秋桜が咲いた。
「生まれ故郷から遠くこんなところまでお疲れ様。きれいに咲いてくれてありがとう」
秋桜は風に揺れ、サエの言葉に頷いたように見えた。
庭で鮮やかな花を愛でていると、子供の泣き声が聞こえた。サエが外に出てみると、どうやら草履の鼻緒が切れて転んでしまったようで、膝をすりむいている。
「上がりなさい。直してあげよう」
子供を招き入れると、彼女は庭を見て歓声をあげた。傷に軟膏をつけて草履の鼻緒をなおしてやるころには彼女はもう笑顔になっていた。
「とてもきれい、あれは何のお花?」
「秋桜というの。ちょっと待ってね」
サエは庭に下りて秋桜を摘んだ。
「これをあげるから、泣かないでおうちに帰るのよ」
次の日、子供は友達をつれてサエの家にやってきた。目を輝かせる子供たちをみて、サエは皆に手塩にかけてそだてた秋桜を摘んで持たせてやった。
花のなくなった庭を見て、サエは思いついた。
(そうだ、春に咲く花を植えましょう)
サエは秋桜の散った後の庭にチューリップの球根を植えた。ずいぶんと値が張ったが、迷いは無かった。水を与え、特に寒い日は藁で囲ってやる。冬の間球根はじっとだまって寒さに耐えていたが、雪が解けて日差しが暖かくなると緑色の芽を大きく伸ばしていった。
春になり、サエの家の庭にはチューリップが大きな花をつけた。可愛らしい花は、枯れる前に摘んでやらないと球根が傷んでしまう。摘んだ花を一人で眺めるのはもったいない。遊びに来る子供たちに花を持たせてやると庭はすぐにさびしくなったが、サエはもう悲しまなかった。
サエは庭にいくつもの花を植えた。春はガーベラ、夏は香りのよいゼラニウム、そして寒い冬にはシクラメンの鉢を軒先に並べ、庭では春の花の準備をする。珍しい西欧の花が咲き乱れるサエの家の庭はいつしか評判になっていた。花を見るために子供たちが集まり、連れられて奥方たちがやってくる。サエの家には人々の笑い声が響くようになった。
しかし、秋になり、秋桜の咲くころだけはどうしても寂しさに襲われる。皆が帰り静かになった庭で、サエは秋桜を眺めていた。花はたくさんの人々を連れてきてくれたけれど、サエが本当に待つあの人だけは、もう帰ってこない。
(花を責めても仕方がないわね。こんなに皆を幸せにしてくれるんだもの)
サエが夕飯の支度をするため立ち上がろうとした時、季節外れの蝶が一羽、ふっと秋桜の花から飛んできてサエの目の前を横切った。何気なく目で追いかけて、サエは息をとめた。
庭一面の秋桜の花の向こうに垣間見えたのは、ずっと待ち続けていたあの人だった。見間違えるはずもなかった。サエは声もなく愛しい人を見つめた。涙があふれたが、瞬きはしなかった。少しでも長く、目に焼き付けていたかった。あの人はサエの視線を捉えると優しく微笑み、ゆっくりと踵と返した。
あの日と何も変わらない一本の桜の幹のようにまっすぐ伸びた背中は、振り返らず、軽く手を上げて、秋桜の中に消えていった。
あるいはこれは秋の夕暮れが見せた一抹の夢だったのかもしれない。しかし、サエには分かった。
(連れてきてくれたのね、ありがとう)
秋桜を大きく揺らした風は優しくサエの頬を撫で、吹き抜けていった。