SHAM
男に惚れたことはないし惚れるとも思わないけれど、女になりたいと思ったことはあります。
きっと世の中の大半の男にとって、生涯一度くらいはそういうことを考える時期はあるんじゃないでしょうか。
え? そんなことないですか? 忘れてるだけです。たぶん。
星のない夜の公園は、酷く空気が澄んでいた。
宵闇の中に、少女が一人たたずんでいる。蛾と蝿にまみれた蛍光に照らされ、花壇に腰掛けている少女のつま先には、血を流した肉の塊があった。
……最近、この近所でよく猫の死骸が見つかるんだって。ニュースでやってたぜ……。
アルバイト先のピザ屋で、店長を勤める津川が噂していたことだ。玉置かなでは足を止める。それに気付いたのか、少女らしき影はぼんやりとこちらを見上げ、どうしてそこでわざわざ立ち止まるのか、それを問いたそうに首をかしげた。
かなではおずおずとした足取りで少女に近づいた。セーラー服を着た癖っ毛の、信じられないほどかわいらしい少女で、あどけない表情をしていた。
少女はスニーカーの足先でつんつんと、その猫の死骸をつついてみせる。
「どう思います?」
少女はそれだけ言った。かなでは二の句が告げなかった。
「えっと……」
「こういうことをできる人について、どう思います?」
その一言で、かなではこの肉塊を作ったのが少女ではないと知った。
「さあ。意味が分からない。どうしてこんなことするのかな?」
かなでは言った。少女はどこかしらつまらなさそうな表情になって、それから肉塊に向かって手を伸ばした。
その動作があまりにも無造作だったので、かなでは反応するのが少し遅れた。少女が猫の死骸を持ち上げてかなでに向けて示してみせたところで、かなではぞっとして口元を押さえる。
「なにをするの?」
「見せてるだけですよ」
少女はどことなく愉快そうだった。
「見てください。首元から又に向かって、一直線にナイフを入れています。いうなれば、猫の『ひらき』ですね」
少女は猫の両腕を持ち上げたまま、猫の体を少しゆする。裂かれた猫の腹の部分から、血にまみれた内臓がいくつか飛び出していった。公園の済んだ空気に、薄汚れた血の匂いが混ざるのを、かなでは嗅ぎ取った。
「つまらないことです」
そう言って少女は猫の死骸を放り出す。
「この間、別の公園で死骸が見つかったときから、近所の小学校は集団下校がしかれています。そういうことをするから、犯人は面白がる。自分のしたことがそれだけ多くに人に知れて、恐れられて、自分が何か特別な存在になったように感じる。それがいけないんですよ」
ところどころ赤くなった手を、少女はもてあましたようだ。セーラー服のスカートで拭こうとして、躊躇したかと思ったら、自分の舌でなめとってしまった。
「猫を殺すなんて何の益にもならないのにバカらしい、勝手にさせておけ……。なんて、町中の人間がクールな態度でいられれば、犯人だって何もしないんです。相手にしてもらえないなら、子供は悪戯なんてやりませんから」
少女は再びぼんやりと猫の死骸を見つめ始める。
かなでは少し感心した。少女の振る舞いや言動に、どうしてか、すっきりしてよどみないものを感じた。
不思議な子、という感じがする。かなでは、この少し異常な状況下で、少女に興味を惹かれていた。
「あなた。名前はなんていうの?」
かなでは少女に問うた。少女はそこで少し、考えるような表情を見せた、ような気がした。
「キリシマソウ……桐嶋蒼です」
蒼は言って、目を伏せた。
「あたし。かなで。玉置かなで」
「そうですか」
どうでもよさそうに蒼は言う。それからその場を立ち上がって、挨拶もなく立ち去ってしまう。かなではそれを見送った。
○
再び蒼とであったのは、週末の夜。少し遠くの本屋へ自転車へ向かった時のことだ。
蒼は店の前でぼんやりと、アルバイトの求人誌を手に取っていた。セーラー服姿が何度見てもよく似合う。
「こんにちは」
そう声をかけると、蒼はおびえたようにその場をすくみあがって、一瞬躊躇してあきらめたようにこちらを向いた。かなではその挙動の意味が分からない。
「あなたは……この間の」
どこか拍子抜けしたような様子を見せる蒼に、かなでは
「ええ玉置かなで。こないだの、公園の人だよね?」
「そのとおりです」
馴れ馴れしかったかな、と少し思った。蒼はどことなくたどたどしい口調で「何か御用ですか?」と問うた。
「いいえ。見かけたから声をかけたの」
「あ。そうですか」
理解しかねた様子で言ってから、蒼は笑顔を作った。
「もう会うことはないと思ってましたよ。二回目となると、これは縁があるということなのかもしれません。かなでさんは、このあたりに住まれてるんですか?」
「ここからは少し遠いわね。本を探しに来たの。ちょっとずつそろえてる漫画なんだけどね、次の巻だけ何故か近所では見当たらないのよ。ストーリーは……」
たわいのない話をすると、蒼は笑顔で聞いてくれた。漫画の話になると、蒼は無邪気に破顔してわくわくとうなずいていた。最初に出会ったときはエキセントリックな印象もあったが、話してみると随分と邪気のない感じがする。
漫画の話が尽きたタイミングを見計らってか、蒼はおずおずとした様子で切り出してくる。
「あの。少し疑問なんですが」
「なぁに?」
「かなでさんは、どうして私にかまってくれるんですか? なんというか、最初会ったとき、私とかなでさんの間に猫の死体があったでしょう? あんまり気持ちの良い思い出のはずがないし、私だってあの時はあまり社交的な振る舞いをできた訳ではありません。なのに……」
そういわれ、かなでは少し言葉に詰まった。
不思議な子、という感じがした。そこに興味を抱いたのも事実だ。清純さを感じるただ住まいやその愛らしい外見に、惹かれたというのもある。自分の中でそれなりに言葉にまとめることはできるが、しかし蒼に伝える言葉として組み立てるのは難しい。
「かなで」
その時、かなでは背後から声をかけられる。かなでがすくみ上がる番だった。
「かなで。ひさしぶりだな、なんで連絡してくれないんだ。かなで」
かなり前に交際をしていた上原という男だった。恰幅の良い体格に、相手を威圧するようなハリネズミのような金髪をしていた。強い男、という感じがしたが、付き合ってしばらくすると粗悪な部分ばかりが浮き彫りになっていき、暴力を振るわれるようになったのを期に交際をやめたのだ。
未練がましく付きまとっては来たが、幸いにして高校は違ったので、メールアドレスや携帯電話の番号を変えるといった工夫で、縁を切るのは難しくなかった。それが、こんなところで会うことになるなんて。
「少し話さないか。これも何かの運命だ」
「ごめんなさい、今は無理よ」
「連れがいるからか? 一緒でいいぞ」
「やっぱりあなたは勝手ね。あなたは一緒でよくてもこの子は困るはず。そうでなくとも、あなたとはこの間縁を切ったはずよ」
そういうと、上原はあからさまに不機嫌な表情になって、かなでとの距離を詰める。怖い、かなでは思った。男に関するあるトラウマが蘇って、腹からは吐き気がこみ上げた。
「そういうなって。誰だよ、そいつ。お?」
そう言って、上原は蒼のほうに視線を向ける。蒼は、おびえたように視線を俯かせていた。その姿を認めるなり、上原はどこか卑下た表情になって。
「なんだおまえかよ。ななあかなで、こいつとどんな関係? どんな奴か知ってるか?」
「まだ会うのは二回目よ。素敵な女の子だと思うわ。あなたには関係ないでしょ」
「……なんだそれ。くはははは」
そう言って、上原は笑う。それから蒼のほうに醜悪だとしか言いようのない表情を向けた。蒼は視線を逸らすだけだった。すぐに興味を失ったように、上原はかなでのほうに手を伸ばす。
「なあ、こんな奴よりさ。いいから俺とよりを戻そうぜ。目一杯優しくしてやるかさ、なあ?」
いいながら、上原は自分を壁に追い詰めている。大声を出そうかと思ったその時だった。
ばちり、と電撃のような音がした。上原は悶絶して、床に転がる。蒼がポケットから何か棒状の器具を取り出して、上原の股間に容赦なく突き出したのだ。地面を転がって泡を吹く上原を、蒼は額に汗し、辟易したような顔で
「行きましょうかなでさん」
そう言ってかなでの手をとった。
「この男に言い寄られていたんですよね? 勝手に判断してやっちゃいましたけど、いずれにしても、ここにいるのはまずいでしょう。意識が戻ったら、報復されます」
冷静な発言ではあったが、酷くおびえてもいた。言葉とは裏腹に、もたもたと走り出すこともできずにいる。我に返ったかなでが蒼の手をとって走り出してやると、蒼はそれについてきた。
しばらく走って、一応、人目のあるコンビニへと逃げ込む。蒼は息を切らしていた。あまり体力のあるほうではないらしい。
「大丈夫?」
たずねると、蒼は「はい」といって疲れたように笑う。
「ごめんなさいすぐにへばっちゃって」
「いえ……こっちこそごめんなさい」
あの男から自分を助けてくれたのは、蒼だ。巻き込んでしまった自分のほうが謝らなくてはならない。
「あの。こんな学校の先生みたいなこと言いたくはないですが、こんな夜中に女の子が一人歩きするのはよくないですよ。夜中は、程度の低い人間しか外を歩きませんから」
「夜中の一人歩きなら、あなたもじゃない」
言われ、蒼は思わず、といった具合に
「そうでしたね」
と微笑みを浮かべる。
「ねぇ蒼ちゃん。あなた……さっき求人誌読んでたけど、アルバイト探してるの」
たずねると、蒼は「はい」と答えて
「そう……だったらさ。うちのピザ屋に来ない?」
は、と蒼は思わずといった具合に口をあける。
「一人インストの子を探してるのよ。注文が来なかったら遊んでていいし、楽よ」
「そこの採用は、誰が行ってるんですか?」
「へ?」
面食らって、かなでは少し考えてから
「店長がしてるよ。社員を採る時は社長さんが面接するみたいだけど……」
「履歴書にはどんなことを書けばよいのでしょうか? 用意する物とかは? 生徒手帳とかいりますか?」
「そんな難しく考えなくていいよ。何も用意しなくていいし、履歴書なんてほとんど見られないよ。こないだ一人採用された高1の子なんか、そもそも履歴書持って来てなかったしね」
「そうなんですか」
しばし考え込んだ後、蒼は決意したように言った。
「紹介してもらえます?」
○
蒼は手書きの履歴書に、志望動機その他をびっしりと書き込んで面接に望んだ。採用はすぐだった。基本的に、その店は来るものを拒まない。
津川慶介という若い男が店長を勤めるその店のスタッフは、ほとんど従業員間での紹介によって新人を採用していた。特に理由がある訳ではない。求人情報の広報にあまり積極的でないことがその理由だった。スタッフはほとんどが若者で、あまり従業員同士という感じはせず、どこかしら所帯じみてすらいた。
蒼は店内業務を行うインストアとして、生真面目に働いた。仕事の覚えが早いわけでもなく、要領も良いとはいえなかったが、愛想がよく素直なため店長には良く気に入られた。
どちらかというと、蒼は男の店員、特に津川店長と話をしている時間が多かった。女性スタッフからは、雑用を押し付けられたりシフトの穴埋めを頼まれたりといった場面が多く、蒼も素直にそれに従うことが多かった。
「じゃあ桐嶋さん。あとよろしくね」
そう言って、大学生の女スタッフが、就業前の割り当て作業を蒼に押し付けて立ち去っていく。蒼はいやな顔をせずに「はい」と淡々と答えた。
「蒼ちゃん。断ったらいいのに」
と、自分の割り当てである店内の掃除をしながら、かなでは言った。蒼ははにかんで
「いえ。私は新人ですからね、こういうことは引き受けて、ちょっとでも気に入られておいたほうが、楽に働けるんです」
それはそうかもしれないけれど……少し気に入らないなと、かなでは箒を動かした。
「ところでかなでさん……明日の昼からシフトはいってますけど、学校は大丈夫なんですか?」
蒼がたずねる。かなでは「え、と」といってから、カミングアウトするかどうかを悩む。ただ、どうせ誰かから耳に入るはずだし、また、親友の蒼には自分の弱いところは自分の口から話しておきたい。
「実はね。あたし学校いってないんだ」
いうと、蒼は「そうだったんですね」と納得したようにうなずいた。
驚いたり、好機を抱いたりする様子はない。そういうシャープなところが蒼らしいとも思う。
「うん。ちょっといやな男の教師にセクハラ受けててさ。怖くなって、でも誰に話しても信じてもらえなくて……やめちゃったの」
その男子教師はクラスメイトたちからも慕われていて、教師間での信頼も厚かった。自分がどれだけ主張しても交わされ、ついには自分のほうが目立ちたくてあらぬことをわめいているのだということで、決着を付けられた。
その思い出のせいで、かなではいまだに、程度以上男に近づかれると吐き気を催す。
「そんなものですよ」
と、どこかそっけなく蒼は言った。
「私たちは力のない子供です。汚い大人が本気で物事を隠蔽しにかかったら、もうどうしようもありません。逃げるというのは結局のところ、それ以外にどうしようもない、正しい選択だったように思います」
蒼は言った。女同士だと、しばしばオーバーに大声を張り上げて『なにそれ酷い!』といわないと、薄情に見られる場合があるが、蒼の反応は静かだった。こうした冷静さが蒼なのだろうと、かなではなんともなしに納得した。
かなでが棚の隙間に箒を突っ込むと、ゴミと一緒に脂ぎった黒い塊が這い出してきた。それがゴキブリだと気付いて、かなではすくみあがった。
「きゃぁ! 店長! 店長!」
津川が「うわ。やめてくれよ」といやそうな表情でやってくる。
「おれ、嫌いなんだって。ゴキブリとか、虫とか」
「そんなこと言ってないで! 男でしょ?」
「ほっとけよ。どっかいくってそのうち」
騒いでいると、蒼がぼんやりとした表情でこちらに視線をやり、それから淡々と歩いて来てゴキブリの前で膝を下ろした。
なにをするのかと思っていると、蒼は素手でいとも容易くゴキブリをつまみあげてしまう。息を呑むかなでの前で、蒼は指先に力を込めてあがくゴキブリを握りつぶしてしまう。
「これでいいですか?」
無造作にゴキブリをゴミ箱に放り投げる。角に引っかかって、蒼は渋い顔をした。とぼとぼ歩いて、死骸を拾い上げてゴミ箱の中に置く。
「それはなめとらないでよね」
猫の死骸の前であったときのことを思い出していうと、蒼は苦笑して
「そうします」
と蛇口を捻って手を洗った。
「でもすごいね。蒼ちゃん。頼りになる」
かなでは興奮したように言って
「男の店長より男らしいわ。すごいよ」
「そ、そうですか?」
困ったよぬいそういう。その顔が妙に可愛らしくて、かなでは蒼を覗き込む。蒼はそっぽを向いた。照れているのか。
元の業務に戻るそう。所在なく、蒼はスカートの中に上から手を突っ込んだりなどしていた。
店長が下卑た笑い声を上げる。
「桐嶋さん、それ、チンポジ直してるの?」
蒼はその場をすくみ上がるようにしてから、「はあ」と困ったような顔をする。「なんですかそれ?」かなでがたずねると、店長は「いやなんでもない」といって肩をすくめてから去っていく。
「何か分かる?」
蒼にたずねると、蒼は顔を赤くして「はあ」というだけだった。
☆☆☆
『桐嶋蒼』としてアルバイトを終えた『中桐蒼』は、ぼんやりと夜の街を三時間ほど徘徊してから家へと帰り着く。どんなに眠たくても、この夜歩きだけはやめるつもりはない。
徘徊することに理由はない。ただ、なんとなく夜の街という空間が好きだった。
正常なものが光の中にいるのだとすれば、異常なものは闇の中に潜んでいるべきだ。海外で行われる連続猟奇殺人の類のほとんどは、夜の闇の中で行われているし、近所に出没している猫殺しの犯人という『偽者』だって活動するのは夜だろう。
蒼は、『本物』でありたかった。倒錯を抱え、周囲を欺き、背徳する怪物でありたかった。
家へ戻った頃には十二時を回っていた。両親は一応なりともベットに入ってはいるが、リビングの前を通る時、母親の視線を感じた。
「ただいま帰りましたお母さん」
笑顔を浮かべて言う。母親は無視して、わざとらしく寝返りを打つ。蒼はため息をついた。
蒼は風呂場へと向かい、鏡の前に立つ。どこからどう見ても、あどけない美少女の姿がそこにはある。蒼は満足げな笑顔を浮かべて、セーラー服の前をはだけた。少し前から付け始めたブラジャーを取り外すと、貧弱な少年以外の何者でもない薄い胸部が姿を現す。
パンツを脱ぐ。一応、見られてもいいようにブリーフやトランクスは履かないようにはしているが、しかし、あるいはだからこそ、スカートというのは酷く頼りない衣類に思える。冬場は太ももが冷えてしもやけして痒くなった。女子のほぼ全員がストッキングをはいている意味が分かったのは、十二月が訪れてようやくだ。
パンツを脱いで短いスカートをめくったそこには、十四歳という年齢に相応しく短小なペニスが備わっていた。セーラー服を来た少女らしき人物が、前をはだけ、スカートをまくり、中からペニスを取り出しているというその情景を鏡に見ながら、蒼は体中の血流が一点に集まる感覚を覚えた。蒼は、たまらずペニスに手をやる。
自分には女装癖があるが、それだけで決して性的嗜好が逆転している訳ではないし、つまり変態ではないはずだ。きちんと女が好きだし、普段自慰をする時には、女性の登場する媒体を用いる。男の裸を想像して興奮したことなど一度もないし、これからも一度もないだろう。
しかし……鏡に映る女装した自分の姿が一番興奮するというこの性癖についてだけは……流石に言い訳ができないのではないか……。
そう、思えば思うほど、蒼はこの行為をやめられなくなるのだった。
○
初めて女装したのは中学二年生の夏だ。それは決して自主的なものではなかったし、そもそも強要でもされなければ『こんなこと』やり始めようとは、その時の蒼に思えるはずがなかった。
蒼は、虐げられていた。退屈な自分自身と周囲の世界に辟易していた蒼は、まだ平凡とか秩序とかいうものに距離を置いていそうな連中……いわゆる不良のグループの人間と交流を持った。しかし、使いっ走り以上の立場を獲得することは適わなかった。
カマキリの群れに貧弱な蝶々が近づいていけば、結果としてなぶり者にされるのは当然のことだが、当時の蒼にはそれを予想できなかった。体の小ささとドン臭さが原因し、蒼は暴力と屈辱にまみれながら中学生活を過ごす。その女と見まごうような顔つきと小さな体つきは、侮蔑の対象としてはもってこいだった。
あだ名は『オカマ』『バイシュン』。いつか、自分を見下す奴らを、海外の連続猟奇殺人者のように後ろからナイフで刺し殺してやりたいと、その時はチャンスを伺うだけの毎日だった。
ある日のこと。蒼は、体育館裏に呼び出され、近所の女子高の制服を差し出されて『これを着ろ』と要求された。『オカマくんにはちょうどいいだろう』とのことだった。
自分の貧弱な肉体にコンプレックスを持っていた蒼にとってそれは、相当に屈辱的なことだったし、虐げる側からすれば笑い者を作るいい手段だ。蒼はセーラー服姿でつれまわされ、あちこちさらし者にされることとなり、本気で女と見間違えられては性器を無理やり晒された。
精神的に歪まざるを得ない。蒼はある日、暗い駅のホームにいた。午前三時。ベンチに腰掛けて、明日が来るのが少しでも遅れてはくれないかと、ぼんやりと星のない空を見上げていた。
『ねぇきみ』
そんな蒼に、声をかける壮年の男の姿があった。
『君、かわいいね。担当直入に言うけど……お小遣い欲しくない?』
……自分が女に見えるのか。こんなに弱いから、男らしい要素を何一つ持たず貧弱な自分が、そんなに女に見えるのか。
赤面し、怒りを覚えた蒼だったが、しかし、心のどこかでは真実に愉快なものを感じていた。自分は正真正銘男だ、ペニスだってついている。それを女だと勘違いするとは、間抜けなことだ。
こんな良い大人が。
『三万円』
『それでいいかい? どこまでできる?』
『朝までに帰れたら。「私」でいいんですよね。先払い、何があっても返金不可でお願いします』
その声は、良く効けば声変わりの始まった少年が無理に作った高い声だと分かるものだが、あどけない少女そのものの蒼の顔つきを見れば、少しハスキーな程度で少女の声に聞こえてしまう。
蒼は、壮年の男に連れて行かれ、自分の下半身をさらした。壮年の男は仰天し、蒼に渡した金を返せと迫る。
『おじさんは「私」を買ったじゃないですか。その「私」を受け入れてくれないんですか? 酷いですね。でも返金不可ですよ』
『ふざけるな』
『でもおじさん。困るんじゃないですか。「私」はおじさんの車の番号から勤め先から全部知ってるんですよ。そりゃあ子供のいうことですからごまかしようはあるかもしれませんが……でも面倒はやっぱり、あるんでしょう? どうですか、キャンセル料金、あるいは手切れ金と思えば……』
蒼はその言葉遣いにおいて、中学生としてはこましゃくれたところがあった。退く場所を失い保身さえ捨ててしまえば、大人を説き伏せるだけの交渉力を発揮することができた。
初めて自分の力で手に入れた金。愚かな大人をだまして、手に入れた金。おもしろかった。蒼は真実に『オカマ』『バイシュン』になった。
退屈で暗い、閉じた世界が、少しだけ開けたような、そんな気がしたのだ。
○
その手の火遊びは何度かした。しかし火遊びは火遊びということで、『男でもかまわない、それはそれでいい!』などという『紳士なお客様』に遭遇して逃げ出したのを最後にやめた。
二十万少しの金は稼げたが、ナイフとスタンガン、それからいくつか興味のある薬品をインターネットで購入したら溶けた。それらの武器は肉体的に貧弱な蒼を何度か救った。そう、あの時、かなでと一緒にいて、上原という男と遭遇した時のように。
相手を屈服させうる暴力が手にあるなら、あとは、それをどれだけ躊躇なく発動させられるかということだ。その点で、蒼は申し分がなかった。自らに少しでも危険が迫れば、相手を静めることに容赦などない。それは虐げられたもの特有の、弱者ならではの覚悟だった。
蒼は喧嘩という奴が大嫌いだ。痛い思いをするから。しかし暴力は好きだった。相手を叩きのめして屈服させれば、それだけ自分を特別な存在のように思える。
上原は、蒼が未だにいじめられっこに甘んじていると思い込んでいる間抜けだが、自分の『秘密』を知る危険な男であることに違いはない。かなでという『自分の秘密を知らない人間関係』の中にいる者に対し、秘密を漏らしてしまう可能性が僅かでもあるなら、一刻も早く黙らせるに限る。
結果的に、その出来事のおかげで、蒼は『女として振舞える人間関係』を手に入れたのだから、そのきっかけを作ったかなでにはいくらか感謝もしている。
玉置かなで。自分のことを女だと勘違いしている、哀れな女。
見てくれはいい。体つきのほうも蒼の男性の部分を刺激する。悪い女ではない。しかし、どこかしらアタマのネジが飛んでいるような感じもした。初対面の自分に対して妙になれなれしかったのもそうだし、どこか妄想癖のようなものを持ち合わせてもいるらしく、単位を落として高校を退学した事実を『男子職員からセクハラを受けた』などと言い張り、あるいは思い込んでいるようだ。店長の津川から聞いた話だ。
しかしそんなところにも、蒼は妙なシンパシーを感じてしまうのだった。かなで自身、蒼と同じく学校では虐げられる立場にいたらしく、狭い世界で絶望する毎日の中で『特別な存在たりたい』という思いを募らせていったようだ。そうした空想が『男子職員にセクハラを受けている被害者』という悲劇のヒロインとしての自分自身を作り出し、それを成績不振による退学の言い訳として、今はピザ屋でバイトをしている。
自分も一歩道を間違えば、いや、『一歩正常な道を歩めていれば』似たような境遇をたどっていただろう。そう考えればこそ、三つ年上の『親友』のことが、蒼は憎からず思えるのだった。
○
「日本で起きた猟奇殺人としてはやっぱりあれ、神戸の少年A! 短期間の連続殺人に、首を切り落とすという猟奇性、ナイスな犯行声明文、おまけに犯人はただの中学生と来た!」
「ええ。『私』も彼のことはすごく興味深く調べてますよ。リアルタイムで経験したかったものです」
ピザの注文がない暇な時間中、蒼は店長の津川とそんな話をしていた。この津川という男はこと各国の猟奇事件、未解決事件などには目がないようで、その悪趣味において蒼とは話しがあった。
あくまで、店長と、バイトの少女、としての関係だが。
「おれはリアルタイムだったよ! いやすごかったね! 十四歳っていや当時のおれと酷く変わらなかったし。思ったわけよ、『これおれも同じことやってやろう!』ってさ。おれも同じことして、世間を大騒ぎさせてやる! って。まあ、そんなことしてたら今のおれはない訳だけども」
「今からでも遅くはない、という考え方もありますよ。六十過ぎてシリアルキラーになった人だっているんですから」
線を越えられる人間というのに、蒼は心から憧れている。身近な人間がそうした理性の線を越える瞬間が見られるなら、素敵なものではないか。
「いやいやいや。猟奇殺人なんてそんなこた、日本じゃとうてい上手くやれるもんじゃないよ。間違いないね」
賢明な判断だった。だがこれでは、つまらない。
「蒼ちゃんはまだ小さいから、上手にやったら猟奇殺人だってなんだってできるって思ってるかもしれないけどさ。でもその『上手にやる』っていのはやっぱり難しいんだ。計画の上では完璧でも、実際にはびびって手がすくむような場面はいくらでもあるし、仮に計画を完全に遂行しても、おまわりさんの前でびびってボロが出ればそれでおしまいだ。『偽者』はそうやって自滅するのさ」
「それはそのとおりですけれども。でもそうしたリスクを受け入れて、あるいは実際に逮捕されるに至って、ようやく退屈な世界から、一線を越えられるんじゃないですか?」
「そうかもしれないけれど、その一線を越える……『逸脱』って奴の価値はね、年をとるごとに小さくなっていくんだ。特別な、世間を賑やかした存在になれたっていう満足が……そんなにたいして重要なもんじゃないと気付くようになってしまうんだよ。昔ずっとバカにしてた、並な幸せとか人生とか? そういうのによっぽどあこがれるようになるんだ」
年寄り特有の……いや、半端にすれてしまった輩の特有の説教だ。蒼は退屈な気持ちになる。
「でも、つまらないんじゃないですか? 毎日会社にいって、何者にもなれずに、誰かと同じ仕事をして誰かと同じテレビを見て、誰かと同じ時間に寝起きする生活っていうのは、つまらないんじゃないですか?」
「つらまらないよ。つまらないし、つらいさ。けどその『誰かと同じ』にすら至れないってのは、もっとつらいしつまらないことなんだ」
津川はうんうんとうなずく。
「蒼ちゃんも。ちゃんと勉強はしたほうがいいよ。履歴書の志望動機、文章はしっかりしてるけど、使ってる漢字はだいたい中二か中三くらいのレベルだったもん」
蒼は、自分の心臓を刺し貫かれたような心地になった。一応、このピザ屋でアルバイトを雇う基準であり、普段着ているセーラー服に合わせた高校一年生という設定にしておきはしたが、思わぬところでボロが出るものだ。
「確かに漢字の書き取りは怠けてますけど、店長なんでそんなこと分かるんですか?」
「おれ、去年まで塾の講師してたもん。ここはいったの、講師クビになって、前の店長の紹介で、だから」
そう言って津川はけらけら笑う。
ふざけた男に見えて、やはりというか大人というだけあって年の功はある。以前『チンポジ治してるの?』と指摘されたときは、間抜けながらあからさまに狼狽してしまったものだ。
チンポジ、とは、そのまま『ちんちんの位置』という意味となる、男同士で使われる品のない単語だ。どう考えても、常識のある人間が、女性に対して言い放つようなことではない。
単に津川らしい品のない冗談、というかセクハラということになるのだが……しかし、実際にかなでに顔を近づけられて、勃起したペニスの置き場をいろいろ試していた蒼にとって、動揺しないことは難しかった。
「ところで蒼ちゃん、今夜ごはん食べにいかない?」
津川が媚びるような声でそういう。この男が自分に気があるのは分かっている。どうもこの男が仕事中に呼んでいる低俗な雑誌などには、『女子中学生』『ロリ美少女』などといった単語がしばしば見受けられる。一見して幼い少女である蒼に、男と知らない津川がデレデレとするのはおかしいことではない。
「蒼ちゃんは、今夜あたしと一緒に帰りますから」
そばで仕事していたかなでが厳しい声をかける。津川は「あーん、だめ?」とそれこそオカマのような声を出して
「かなでちゃんも一緒に来ない? おごるよ」
「どうせ牛丼とかでしょ? というか下の名前で呼ぶのやめてくださいっていったでしょう?」
どうしてこの女は津川に対してここまで攻撃的になるのだろうか。親友である自分を取られるとでも思っているのかもしれない。
「蒼ちゃんも。きちんと断らないと、だめよ」
姉のような表情でそういうかなで。蒼は「はあ」と苦笑してみるしかない。そこからは津川から自分を遠ざけようとするかなでに従順に、一緒に仕事をすることにした。
この空間では、自分は完璧に女でいられる。
そのことが、蒼には愉快でならないのだった。
○
「本当に最悪よね。あの店長」
バイト上がりに、自転車置き場へと向かいながらかなでは憤慨したように言う。蒼には、苦笑を返すことくらいしかできそうもない。
「蒼ちゃんも、あんなふうに話し合わせなくたっていいのよ。あんな気持ち悪い話、本当はいやでしょう?」
それなりに楽しく会話をできていたのだが、そうは言うべきではないだろう。
「いえ。『私』なんか相手をしてもらってうれしいくらいですよ」
かなでは、蒼に『従順で清純な後輩』という記号を押し込んで接しているが、かなでの期待する蒼を演じるには、ただ天然で接してやればよかった。どうも自分は、十七歳のかなでからすれば幼いらしい。
「あの店長にぃ? なんでよ?」
「どうもこの職場にもまだ上手には馴染めていないんです。『お姉さん』だけいれば良いというものでもありませんし、交流は積極的に行っていかないと……」
『お姉さん』という呼び方をするたびに、かなではいつも上機嫌になってくれる。しかし、その時は違ったようだ。
「あたしがいればいいじゃない。あたしだって、蒼ちゃんがいればいいわ」
そう来たか。蒼は苦笑する。思ったとおり、独占欲が強い。
夜の公園でであった不思議な少女、という記号を持つ自分を、かなではうんと独り占めにしたいのだろう。蒼を従、順な妹のようにして、かわいがりたいのだろう。
「うれしいです」
蒼は心からいった。
蒼は、昔、姉が欲しかった。自分を守りかわいがってくれる素敵な姉が。一人っ子で生まれて遊び相手がいなかったというのもあるし、どちらかというとサッカーや野球よりはままごとなどの女の子らしい遊びが好きだった(思えば女装癖の資質は昔からあった)というのもある。
「『お姉さん』にはいつも本当お世話になってます。ここを紹介してもらって……仕事の面倒も見てもらって。お姉さんと会ってから、本当毎日楽しいです」
おべっかというわけでもなかった。かなではうんと満足したような表情で、「もううれしいなぁ」といって蒼のアタマをなでる。悪くない気分。
夜の街は、完全に無人だった。町で猫を殺して回っている犯人のような殊更の者が動き出すとすれば、こういう夜しかないだろう。
自転車置き場にたどり着いて、かなでは「あ……」と声を出した。
ずらりと並んだ自転車が、ドミノのように横倒しになっている。これでは、かなでの自転車を取り出すのは至難の技だろう。
「どうしよう。上手く起こせない」
複雑に絡み合った自転車を起こすには、力がいるはずだ。蒼はかなでを制して、少ない力を動員してどうにか自転車を掘り起こす。これでも一応、男手だ。かなでより力はある。
「すごい! ありがとう!」
少し、照れた。クールに徹しようとしてから回るよりは、感情を無造作に見せ付けるほうがいい。なので、蒼は軽くはにかんでおいた。
うっとりとした表情で、かなでは蒼のほうを見つめる。どきりとする。
「あたしね。前の学校をセクハラで退学してから……ずっと男の人がきらいだったけど」
また『その話』が始まる。相槌の打ち方が面倒くさいのだが、という表情はおくびにも見せないようにして、『親友の話を熱心に聞く少女』というキャラクターに自らをトレースする。
「蒼ちゃんみたいな男の子がいたらいいなって、時々思うの。おごらなくて、乱暴さがまったくなくて、女の子のことを侮らず、でも頼りになるときは頼りになって、褒めたら子供みたいにはにかんでくれる男の子」
そういわれ、蒼の心臓の高鳴りを覚えた。蒼は当然のこと女性から好意的な言葉をもらえたことなど一度もない。小学生の頃に一緒にままごとをしたとかを除外すれば、クラスの女子はただ虐げられる蒼を笑うか、いまのように気持ち悪がって腫れ物のように接するかの、どちらかだった。
「でもそんなのいる訳ないもんね。男の人って全員……自己顕示欲が強くて、その割にたいしたことなくて、でもそのたいしたことない自分をごまかすために暴力で人を支配しようとするような、そんな人ばっかり。
蒼ちゃんみたいな男の子と出会いたかった。ううん、女の子でもいい。蒼ちゃんみたいな人と、もっと早くに親友になりたかった」
胸が早鐘のように鳴る。なんだろうこの感覚は。目の前の女はただのメンヘラ女のはずだ、この発言だってただの思いつきで言っているだけだ。分かっている、分かっているがしかし、蒼は踏みとどまれなかった。
女装をするという形でしか、人に注目されず、何者にもなれなかった蒼にとって……『男』としての自分を受け入れてくれるかもしれない女に出会えたことは……もうこれはどうしようもなく……彼が、その一歩を踏み出してしまう理由となる。
それは崩壊を意味した。
「あの。お姉さん……」
蒼は辺りを見回す。バイト先の建物の裏、まだ居残っている店長が仕事を終えるまでは誰も訪れようもない。
「ちょっと話したいこと……見せたいものがあるんです。あっちに来てもらっていいですか?」
そう言って……蒼は『念のため』建物同士の隙間を指差す。あそこの中なら万が一人が通りかかっても問題ない。
「なぁに? 蒼ちゃん。なんでもいって」
かなでは素直に従った。きょとんとして首をかしげるかなでの肉体に、改めて視線を向ける。一緒にアルバイトをする中で、必要以上に距離の近いこの女に『それ』を感づかれないように本当に神経を使った。しかし、
「はい。その、信じられないと思うのですが」
いって、蒼は……躊躇はせずに、確かな期待を持ってそれを打ち明ける。
「『私』は、いえ僕は、実は」
真実を示すため、蒼はスカートをめくりあげる。その中にあるものを見て、かなでは、絶句したように固まった。
「見てのとおり、男なんです。だましていてごめんなさい」
言いながら、蒼はかなでのほうへ近づいていく。かなでが激しく困惑して、吐き気をこらえるようにして口元に手を当てるのが見えた。蒼は取り繕うように笑いながら言った。
「……あなたは確かに、男として僕を……受け入れてくれると、おっしゃった。ですから……いいですよね。ねぇ、『お姉さん』。受け入れてください、僕を。女装をした僕をではなくて……ありのままの僕を」
絶叫がこだました。
☆☆☆
おぞましい。おぞましい。おぞましい。
かなでは走って逃げていた。今すぐに、誰かに保護を求めなければならない。さもなければ自分の尊厳は、またしても奪われる羽目になる。
かなでは涙を流しそうになる。セクハラから逃げるように高校を退学する羽目になり、ようやく自分の居場所と思えてきたバイト先で……親友だと思っていた相手からのこの仕打ち。
どうして自分ばかりが。理不尽で、不公平だ。
「店長! 店長、助けてください!」
そう言って、バイト先の建物へと戻る。大声で叫びながら事務室へと向かうと、なにやら机の上で書き物をしていた津川が、気だるげな視線でかなでの方を見やった。
「なんだ。騒々しい」
津川はそう言って面倒くさそうな顔をする。
「君が切羽詰っているらしいことは顔を見れば分かるけど、それをおれのところに持ち込まないで欲しいというのが本音だな」
最低な男だ。かなでは憤慨する、自分はこんなに酷い目にあっているのに、どうして周りの人間は誰も彼も真剣にそれに向き合ってくれないのだろう。
「蒼ちゃんが……桐嶋蒼が!」
かなでは訴える。
「あたしのことを……レイプしようとしたんです! 暗い建物の隙間に連れ込んで……それで……」
「はぁ?」
津川は呆れた様子で
「そりゃ驚いた。蒼ちゃんはレズビアンだったのか。いいじゃない受け入れてあげなよ、蒼ちゃんのことはかわいがってあげていただろう」
かなでは悲鳴をあげるように
「あいつ……男だったんですよ! あたしに汚らわしいものを見せてきました、本当です!」
「彼女は混乱しています」
そう言って……背後から忍び寄る小柄な影がある。
蒼だ。かなでは息を飲み込んでその場ですくみ上がる。蒼は、少しだけ唇端を吊り上げてかなでを一瞥してから……真剣な表情を作って津川の方を向き直った。
「一緒に歩いていたら突然情緒不安定になって……声をかけてはいたんですが、どういうわけか、途中から『私』のことを男のレイプ犯だと思い込んじゃったようで……」
「ははあ。はあ。うん、なるほど……なんじゃそりゃ」
津川はあきれ返ったように
「そりゃ災難だ。寝言は寝て言えっての。ああー親御さんを呼ばなくちゃな、おれじゃ対応できねぇわ」
「なんで信じないんですか? あたし、襲われそうになったんですよ! なんとかここへ逃げてきたけど……あと一歩でやられそうだったんだ! この下種な男に組み伏せられて……それなのに!」
かなでは津川に向かってまくし立てる。津川は気だるげな様子で携帯電話の操作を始めた。かなでの親に連絡しているのだろう。
「こいつが!」
かなでは蒼の体を掴みあげた。蒼は突然のその行いに目を丸くするしかない。
「こいつが男だって、どうやったら信じてもらえますか?」
「それは一つしかないよ」
携帯電話を手に持ったまま津川がぼんやりと
「パンツ脱いでもらおうか。うん、それがいい、実にいい提案だ。蒼ちゃん、お願いできるかな? ん?」
「ふざけないでください」
蒼はぴしゃりといって、それからその場で腰を下ろす。
かなでと津川の見守る前で、蒼は左右の太ももを床に置き、その上で膝から下を腰に回す座り方をして見せた。構造上女にしかできないはずの、ぺたんとした座り方だ。
「これでいいですか?」
そう言って蒼はその場を立ち上がる。そんなこと……かなでは思った。練習すればどうにでもなってしまうはずだ。かなではそう思ったが、しかし……津川はうなずいて
「間違いなく女の子だってさ」
とそう言ってかなでの両親へ電話をかけ始めてしまう。はじめから、蒼が男だなどとまるで考えもしない様子だ。あくまでも、この男は自分が嘘を吐いていると決めてかかっているのだろう。
「もう、いいです」
かなでは脱力して言った。
「もういいです! もうあんたなんかに何も頼りません!」
それから、バイト先に背を向けて、涙を流しながら走り出す。
どうして誰も、頑なに自分のことを信じないのか。誰の目にも明らかなことを、捻じ曲げてまで自分を悪者にしようとするのか。
その理由は……かなでには分かっていた。世界が、自分の敵だからだ。この世界中のあらゆる概念が、かなでを不幸にしようとしているからだ。それはもう、疑う余地は内容に思われた。
「みんな敵だ……みんな敵なんだ……。うわぁあああ!」
情緒不安定に、かなでは叫び、疾走し続ける。
それは助けを求める魂の慟哭だった。しかし……それはたいていのものにとって、せいぜい好機の目としてしか写らないだろう。
一心不乱にバイト先を走り去っていくかなでのところに、心配げに駆け寄ってくる人物がいる。かなでの母親だ。
「お母さん……」
「かなでちゃん。今度はどうしたの? バイト先の人に迷惑かけたんじゃないでしょうね」
「違うの!」
かなでは叫ぶ。
「違うのよ……ねぇ聞いてお母さん。あたしのこと信じてくれるでしょう?」
かなでは懸命に何があったのかを訴えた。
「女の子で、親友だと思ってた蒼ちゃんが……実は男だったの! それで、あたしのことを物陰に連れ込んで、れ、レイプしようと……」
母親の顔が、暗い諦めに染まっていく。自分でも突拍子のないことを言っているとは思うが……しかし、それが真実なのだ。かなでにできることは、とにかく必死で訴えて、それが真実だとどうにか信じてもらうことしかない。
「ねぇ! 信じてよ! 本当なの、本当なのよ……」
「かなで。アタマを冷やしなさい」
そう言って、乗ってきた車のほうに手を差し出す。
「明日病院に行きましょう。ねぇかなでちゃん、あなたをいじめようとする人はいないの。あなたの敵なんてどこにもいないの。大丈夫なのよ。全部あなたの勘違い、勘違いなのよ。だからね、かなでちゃん、落ち着いて……。お願いだから」
「これが落ち着いて……」
吐き気がする。……信じていられると思ったのに。神秘的な女の子、あの星のない夜に出会った大好きな親友が……自分のもっとも嫌悪する存在に成り代わった。
その絶望感とおぞましさに、かなではたまらず、吐き出すことしかできなかった。
○
家に連れ帰られて、かなではすすり泣きながらベットで横になった。理不尽な現実に対する恨み節をただただ垂れ流しながら、泣きじゃくるしかなかった。
世の中とは理不尽なものだ。かなでが何か酷い目にあったとき、加害者は常に悪魔のような狡猾さでその悪事を隠蔽し、全てを自分の狂言だと言い張る。そしてどういう訳か……自分の周囲の人間は、親などの本来自分を無償で守るはずの存在は、ことごとくその悪魔にだまされてしまうのだった。
どこか一人で生きていられる場所に、逃げ出したいと思った。しかし、この世のどこにもそんな場所など存在しない。
翌日。かなでは病院の精神科を受診し、いくつかの薬を処方されて帰宅した。バイトはしばらく休むことになった。
そして翌々日。両親が仕事に出かけ、家に一人だけとなる。かなでは、何度も躊躇してから、過去の交際相手である上原に電話をかけた。
上原との関係は、かなでが高校に通っていた時、教師からセクハラを受け始める前までには解消されていた。上原があまりにも乱暴な方法で自分を求めたからだ。今となっては絶対に会いたくもない存在だったが……しかし、このまま蒼に襲われたことを自分の虚言にされてしまうのは、我慢ならなかった。
スリーコール待たずに上原は出た。「おお、かなでちゃん! なになに? 会う約束ならいつでもいいよ?」と発情したオスのような声をあげる上原に、かなでは鋭い声で
「桐嶋蒼って知ってる? 知らないはずないわよね! 前にあったとき一緒にいた、女みたいな顔の……」
「中桐だな」
上原は言った。
「キリシマじゃない。中桐だ。苗字違うぞ?」
「え? でも、あいつは桐嶋って名乗ったし、あいつがバイト先に持ってきてた履歴書だってあたし見たもん。確かに桐嶋だったし……」
少し考えて……かなではある可能性に思い至る。偽名という線。女としてかなでのバイト先に忍び込む際、特定されないよう別の苗字を名乗ったという可能性。
「どうしたの? なんで今更、中桐なんて野郎のこと聞きだすんだ? 俺も最近知ったんだが……あいつ相当な危険人物だぜ。関わらないほうがいい」
「詳しいの? 蒼のこと?」
「まあな。あいつから金を巻き上げたこともあるし」
上原はこともなげに言った。
「どういう関係?」
「俺の友達の舎弟が、あいつの中学にいてさ。その繋がりで何度かまあ、顔を見たことがあってさ」
「じゃあさ。聞くけど」
かなでは、息を飲み込むようにして
「あいつ、男だよね?」
「ああ。男だよ」
上原はあっけなくうなずいた。かなでは息を吐き出し、それから喜びに体を振るわせる。
……証人ができた! 中桐蒼の秘密を知っている証人が。やはりあの男は自分の性別を欺瞞しているのだ。どういう目的だかは知らないが……中桐は女として自分の居場所であるアルバイト先へと忍び込み、親友のように振舞った挙句最後には裏切った。
気がつけば、かなではバイト先で起きた全てのことを上原に向かってまくし立てていた。上原はどこかぼんやりと、上の空といった様子でかなでの話を聞いたが、最後には「ほー。あいつならやりかねないなー」と漠然と肯定してくれた。
「それでね。頼みがあるの。あたしのバイト先に来て……あいつが男だって証言して欲しいのよ? できる?」
何か対価を要求される可能性があったが、しかしかなでは言った。とにかく今すぐにでも、あの卑劣漢のすべてを暴き立ててやりたかった。
「あー。えっと、かなでちゃん。それはちょっとな」
しかし……上原から帰ってきた答えは煮え切らないものだった。
「どうしていやなの? あんただって、こないだの仕返しを中桐にしたいでしょう?」
「仕返しっつか……そういうの以前にな。もう俺、あいつには関わらないことに決めてるんだ。いや、びびってるんじゃないよ? 素手で喧嘩すればあいつが五人いても勝てる自信はある」
けど、と、そこで上原は息を飲み込んで。
「気色悪いんだ。あいつ。だいたい、スタンガンなんか持ち歩いて、しかもそれを、躊躇なく金玉にぶち当てられる奴なんてそうそういねぇ。そもそも、あいつ、人、殺したことあるらしいし」
「え……?」
人を、殺す? かなでは息を飲み込んで上原の話に耳を傾ける。上原は少し饒舌だ、自分が中桐に関わりたくないのは、決して臆病ではないというのを立証したいからかもしれない。大げさな口調で、実年齢中学三年生十四歳の中桐蒼少年が、過去にやらかしたことについて、語り始めた。
○
中桐の中学での立場はいじめられっこだったようだ。
基本的に不良グループの使いっ走りであり、しばしば暴力にもさらされた。線が細く体の小さな中桐に抵抗の余地は基本的になく、言われるがままにどんなに尊厳を奪われるようなことでも受け入れていたという。
最初に女装をしたのも、そのいじめが関わっているとのことだった。彼の同級生の数奇な男が、近所の女子高の制服を一着手に入れて来て、女顔で小柄の中桐に着せてみたという。
上原と中桐が関わったのも、この時らしい。中桐の同級生は、女にしか見えないそのいじめられっこを、見世物として先輩や他の学校の同級生に見せびらかしていた。高校二年生だった上原はその姿を見せられて、あどけない愛らしさと本当は男であるという事実のギャップ驚いた。
中桐がいじめられっ子を脱することとなった事件は、彼女が女装をさせられるようになってから数ヶ月後。中学二年生の冬頃、彼が十三歳の頃に起きた。
町の不良たちの中でも、『ホモ』と噂される太った男がいたという。その男に中桐を襲わせてみせてはどうかという話が出たのだ。女にしか見えない中桐が男に犯される姿はおもしろいだろうし、『ホモ』なら抵抗なく中桐を抱けるだろうということだ。
そうして連れてこられた『ホモ』だが……おびえる中桐の姿を見て、首を横に振ったという。何故か? 『ホモ』は女みたいな男が好きではなかったのだ。自分は『ホモ』だから男らしい男が好きだし、そんな女みたいな男を相手にして楽しいなら最初から女を相手にするし、そもそも『ホモ』になどならない。と『ホモ』なりにもっともな理論を展開し不良たちをがっかりさせた。
しかし『ホモ』は中桐の顔を見ながらこうも続けた。『ホモ』仲間のある男にこういう顔の男を相手にする変わった奴がいる。そいつは『両刀』と呼ばれていて、男も女も、女みたいな男も相手にできる。呼べば来るはずだから電話をかけようか、と。不良たちは歓喜してそれにうなずいた。
車でやってきた『両刀』は、二十歳を超えた大人の男だった。服を脱げば背中には竜が立ち上っていて、巨大なペニスには真珠が埋め込まれており、やくざ者の雰囲気を全身にまとわせていて不良たちを震え上がらせた。『両刀』はその時々のプレイに応じて自分のキャラクターを豹変させるという特性を持っていて、哀れな中桐を相手にする『両刀』は相手を甘やかすようなオカマ口調で中桐の顔や体を嘗め回した。
中桐は、笑顔だった。そのことが不良たちには不気味だった。なんであんな気持ちの悪い男に犯されているのに、そんな風にへらへらと笑っていられるのかと。
『両刀』はオカマ口調で中桐に自分を愛撫するように要求した。中桐はその瞳に暗い光をたたえて『両刀』のまたぐらに顔をうずめようとする。ギャラリーは悲鳴を上げつつ目を離せずにその様子に見入っていた。
いつどのタイミングで中桐の心が壊れたのかが、もはや誰にも分からない。何かきっかけがあったのか、それともじわじわと壊れていったのか。確かなのは、中桐蒼という気弱な少年を一匹の怪物へと変貌させたのは他ならぬ彼の同級生たちであり、またこの後起きたすべての事柄はすべて因果応報の出来事であるということだ。
中桐は、裸になって警戒心を解いている『両刀』の睾丸に噛み付き、食いちぎろうとしたのだ。
『両刀』は憤怒した。男の口調へと豹変した『両刀』は中桐の腹を鋭く蹴り上げる。しかし中桐は強い意志力を持って『両刀』に食らいついたまま離れなかった。そして、スカートのポケットから取り出して見せた大型のナイフで、『両刀』の睾丸をペニスごと切り裂いて見せたのだ。
股間から噴出した血しぶきを全身に浴びる中桐は、どこか静かな表情をしていたらしい。蹴られた腹を押さえながら立ち上がった中桐が食いちぎった睾丸とペニスを吐き出すと、凍り付いていたギャラリーが蜘蛛の巣を散らしたように逃げ始める。
中桐の復讐はそこで終わらなかった。倒れた『両刀』の懐から車のキーを取り出した中桐は、『両刀』の車に乗り込んで逃げ惑う不良たちを一人、また一人と跳ねていった。最終的にパトカーに包囲されるまでに、中桐は『両刀』を含む二名を死亡させ三名に重軽傷を負わせた。
当時十三歳の中桐を裁く法律は存在しなかったし、壮絶にいじめられ犯行の際やくざにレイプされていた中桐に情状酌量の余地はあった。基本的に学校という特殊な空間の人間関係の中で起きた事件だったし、『両刀』を要するやくざ側も、中学生をレイプしようとしてペニスを切られて死んだ構成員のことなど公表したくないに決まっている。出来事は可能な限り内々に処理され、事件の規模ほどは積極的な報道が行われることはなかった。
○
上原に教わったことをもとに、かなでは中桐蒼という少年について調べていった。
未だに地元のH中学に在学している三年生であること。学校にはふつうに男子の制服で通っていて、表向きにはまともな就学態度であり、異常性など感じさせないこと。しかし夜になると、しばしばセーラー服を着用して町を徘徊する姿が見られるということ。
そしてこれは自分しか知らないことだが……最近中桐は自分が完全に女として生活できる場所を手に入れた。それは、H中学から遠く離れた、自分のアルバイト先だった。桐嶋蒼として、中桐は『女』に成りきって働き、先輩たちからは素直で従順な後輩としてかわいがられ、店長の津川から好意を寄せられている。
何故、この男は女としてアルバイトをすることを望んだのか? そしていきなり自分に秘密をカミングアウトし、襲い掛かるようなまねをしたのか。かなでは理解しようとした。
「もういいか?」
そう言ったのは、中桐が暴走した『例の事件』の生き残りである中学生だった。中桐の同級生で、自分より三つ年下の少年。
「あいつの話はしたくないんだよ……。もういいよな?」
「ええ」
「あっそ。じゃあ約束の金くれよ」
かなでは中学生に報酬として五千円サツを手渡す。ひったくるようにして、「サンキュ」と中学生は立ち去ろうとする。
「でもねーちゃん。気をつけろよ」
中学生は最後にそういい残す。
「もう外暗いし、親に迎えに来てもらえよ」
「心配してくれてありがとう。優しいんだね」
「バカ言えよそんなんじゃねーし。つか……もうあいつに関わるのもやめとけ」
やばいからな、そういい残して、中学生はそのファミリーレストランから姿を消した。
さて。かなでは伝票を持って立ち上がる。これだけ証言も証拠もそろえれば、津川や両親とて、中桐がどれだけ異常な男なのかは理解してもらえるはずだ。
かなでは夜の街を歩く。たびたび夜歩きをするかなでを、両親は心配しているかもしれない。
そう考えていた時、かなでの携帯電話が鳴る。
両親かと思って出てみると……そこには中桐の番号が登録されている。いまだに『そーちゃん』と登録されたその番号に辟易した気分を抱えつつも……かなではその電話に出ることにした。既に、優位は自分の手中にあるからだ。
「玉置さん……いえ、『お姉さん』ですか?」
こびたような声だ、と思った。「そうよ」剣のある声で、かなでは応対する。
「いまさら何よ?」
「この間のこと」
中桐は言う。
「謝ろうと思って。乱暴しようとしたことはもちろん……そのあと姑息な隠滅に走ったことも」
沈んだ……叱られた少年のような声だった。
「『お姉さん』のことを、僕は本当に好きだったんです。だから……あの時、僕はこらえきれずにやらかした。それは反省しています……傷つけたと思うし、裏切ったと思います」
懺悔するような声。耳を傾けていいのかどうか、かなでは考える。
「『お姉さん』は僕に女の子としての居場所をくれた。『お姉さん』、僕はちょっとおかしいんですよ。男らしくない自分がいやで、だからって、女の振りをすることで自分の男らしくなさを包み隠してしまおうなんて……。でも女装をしているときのほうが、僕は楽です。お姉さんといるときは本当に安らいだ。だけど……ちょっと思ったんですね、『お姉さん』なら、男としての僕でも受け入れてくれて……何もかもまともに戻してやり直せるかなって……」
電話の向こうで、涙を流すような音が聞こえた。鼻をすする音もする。
「謝らせてくれませんか? 今から来てもらいたいところがあるんです」
核心を述べるように、中桐は言った。
「今僕はアルバイト先のピザ屋でいます。店長の津川さんも、今日は休みですが一緒に呼び出してあります。津川さんの前で、僕から、すべての真実を語ります。そうすれば『お姉さん』が嘘を吐いたっていう疑いも晴れます。『お姉さん』を裏切った事実は消えないし、何もかも元に戻すのは不可能ですが……でも、僕は排除されても『お姉さん』は元の生活に戻れます」
どうですか? 来てくれませんか? その言葉に、かなでは……うなずいたのだった。
●
中桐の真摯な謝罪を受けて、許そうと思った訳では決してない。
ただ……彼が筋を通そうとしているのであれば、それを受け入れるくらいのことは、してあげようと思った。
それは、過去に『桐嶋蒼』を名乗っていた中桐に感じていた友情に対して、報いようとした結果だったかもしれない。そうだ、自分はあのあどけない不思議な少女が好きだった。
囲われている……いつもかなではそんな風に感じて苦しんでいた。高校に通っていた頃は分かりもしない授業をそれでも懸命に受けるしかなく、退学してからは如何なる未来にも繋がらないアルバイトを無為に続けるしかなかった。どこにも繋がらない、何の希望もない日々を、ただ繰り返すようなそんな世界の中で、かなでは窒息しそうな気持ちでいた。
そこで現れたのが、中桐だった。女の姿で、公園で猫の死体を覗き込んでいた彼は、かなでにはなんだか神秘的に見えた。彼女ならこの囲われた世界の外に出る道を、自分に指し示してくれる、そんな予感を確かに覚えたのだ。
「もし。あんなことがなければ」
かなでは考える。
「もし彼があんなおぞましいことをしてこずに……もっとまっとうなやり方で自分が男だと打ち明けてくれたら……もしかしたら……そうしたら」
あの時のことを思い出す。中桐は『嫌がる』自分を『強引に』物陰に押し込んで、下半身を露出させて『無理矢理』に『襲い掛かった』……。
……本当にそうだったか?
「あれ?」
唐突に、かなでは足を止めた。おかしい、なんだか記憶が曖昧だ。
中桐は自分を襲おうとした? そういう風に記憶している。しているが……ならば具体的に、中桐がどんな風に自分を物陰に押し込み襲ったのか……まったく思い出すことができない。
それどころか……かなでは自分から物陰へと入っていったのではないか? 親友の『蒼ちゃん』に切り出されて、その真剣な様子に何の疑問も感じずに、ただ物陰に。そして男であることをカミングアウトされた。当然、ただ男だといわれただけでは、かなでは親友の性別が男だということを信用するはずなどなかったはずだ。
あの時中桐が自分のスカートをめくり上げたのは、ただの、そういう意図ではないのか?
そもそも、中桐は自分を押さえ込むようなことをしたか? そんな事実は覚えていない……。むしろ、自分のほうから一方的に中桐をひっぱたいて逃げてきたような……。スカートをめくった下の、下着のふくらみは間違いなく雄のもので。すべてを悟った男嫌いのかなでは、ただ、反射的に、反射的に悲鳴を上げて中桐から逃走し……。
そして、『襲われた』という記憶をでっち上げたのではないか?
立ちすくんで、そこまで思い至って……かなでは息を飲み込んだ。すべては自分の空想で、虚言だったとでも言うのか。そして、その虚言によって追い込まれた蒼は、すべてを隠蔽して身を守るしかなかったのだ。
ようやくそのことに気付いて、愕然とするかなでを背後から一台の車が撥ね飛ばした。
吹き飛ばされたかなでは、激しく地面に叩きつけられる。頭を酷く打って、どちらが上かも分からないほど朦朧とした世界で、ただただ自分を跳ね飛ばした何者かを探す。
店長の……津川の車がある。ピザ屋に向かっている途中で間違って自分をはねたのか……、そう思ったかなでの前で、車は僅かに後退しかなでを睨むように一度静止した後で、アクセルを踏み込んだように急発進した。
寝転んでいたかなでの肉体は、一トンの車体を支えて高速回転する車輪に容易く巻き込まれる。肉のちぎれる感触に、しかし長く絶叫することもままならないのは、肺が圧迫されているからか。あるいは……つぶれてでもしまったのか。
喉の奥から競りあがっていく熱い血の感触を、口から垂れ流す。全身の痛みのことしか考えられなくなった体を、今度は後輪がひき潰す。後輪が去れば、車体は再びバックしてかなでを轢いた。
前後運動を繰り返すうちに……かなでの肉体はあちこちをひしゃげさせて、無残な姿へと代わって言った。それは臆病な猫が、既にくたばっているネズミに怯えて過度な攻撃をくりかえすかのごとき、執拗なものだった。
☆☆☆
四回、轢いた。
そろそろ大丈夫なはずだ、と中桐蒼は結論をつける。死体を確認しようと、蒼はギアをバックに入れてかなでをもう一度跳ねながら後退する。
真っ赤になったかなでの姿があった。蒼は満足して息を吐き出した。ここはクールに頬を盛り上げ、自分の仕事の成果を誇るように笑いたいところだが、緊張からひきつった表情をしかできなかった。
隣では、顔を真っ赤にして酒臭い息を吐きながら眠っている津川の姿があった。睡眠薬が効いているのだろう。ネットで得体の知れない人物から購入した代物だったが、ただのビタミン剤をつかまされた訳でないことは蒼自身が飲んで実証済みである。
津川にカラオケに誘われ、なんとなく受けたのがそもそもの発端だった。二人で個室に入り、津川がアニメソングをへたくそに謡うのを適当に褒めてやっている内に、どうやら、津川は今日こそ自分と関係を持つ気でいるらしいということに思い至った。
それはあまり望ましくないということで、蒼は津川を最初は酔わせてしまおうと勤めた。津川は車で来ているにもかかわらず、蒼が酌をするままビールを何杯も飲み干していったが、悪酔いでセクハラが酷くなるばかりで解決には至らなかった。
そこで蒼は、しょうがなく津川を眠らせることにした。津川が『残酷な天使のテーゼ』を熱唱している隙をついて、蒼はスカートのポケットに持ち歩いている武器や道具の中から睡眠薬を取り出し、ビールに混入した。間奏中にそれを一口飲んでしまった津川は、二番の歌詞をすべて謡い終わる前にその場で倒れ付した。
本来なら、この男はどこかに捨て置いて、自分はタクシーでも使って家に戻るというのが当たり前の行動だ。しかしそこで、蒼はあることを思いついてしまった。思いついて、かなでに連絡をかけて、アルバイト先のピザ屋へと呼び出した。
津川を引きずって会計を済ませ、どうにか車に押し込んだところで、既に息が上がっていた。津川のポケットから車のキーを取り出して、エンジンをかける。自動車の運転なら蒼は得意なものだった、何せ、過去にそれを用いて自分をいじめた同級生をはねまくったものだから。
安全運転で、かなでの家からピザ屋までの道をたどる。そしてかなでの無防備な背中を見つけるなり、背後からひき殺したのだった。
後は津川を運転席に乗せ、ハンドルを握らせたままどこかに放置しておけば、警察は津川の飲酒運転による過失致死として処理するはずだ。それで計画達成。蒼は、自分が女として過ごすことのできる世界を、守ることに成功するのだ。
自分が男だとどんなにわめこうと、蒼が誰の目にも女に見えている以上は、しばらくの間はかなでの虚言癖ということで済む。だが、かなでが本気で自分の性別を明らかにしようとか動いた場合、真実がばれるのは時間の問題である。警察に訴えるなどされば身体検査くらいされるだろうし、そうでなくとも自分の中学の同級生で蒼の女装癖を知っている人間など、いくらでもいる。かなでのことは、早急に排除しなければならなかった。
車内に蒼の指紋や体毛が残るのは問題ない。送り迎えをしてもらったのだから当然だ。降りる時にだけ足跡が残らないよう注意しなければならないが、そこをどうにかできれば完全犯罪成立である。
「ひょっとしたら津川さん、自分が酔っ払ってとんでもないことをやらかしたと、自分でも思い込むはめになるかもしれないですね」
蒼は隣で眠っている津川に話しかける。
「津川さん、前に言いましたっけ? 『上手にやるのは難しい。計画の上では完璧でも、びびって手がすくんだり、ボロを出したりすればおしまい。偽者はそうやって失敗する』……ですよね?」
目いっぱい、虚勢を張るように蒼は笑って見せた。
「出しませんよ、ボロなんてね。僕はね、『本物』の異端者なんです」
自分で言ってむなしかった。声が震えていたからだ。自分は少なからずこの状況におびえている。ゆえに、自分は『本物』などではない。ただ、男らしくない弱い自分を、セーラー服による女装というさらなる弱さに包み隠して、おびえているだけだ。
「『お姉さん』」
蒼は、車の中から、既にただの肉塊と化したかなでに話しかける。
「『お姉さん』に感謝していたのは本当です。友情も感じていました。あなたは極度の被害妄想を煩っていましたが……それを含めて好きでした。
悲劇のヒロインになりたかったんですよね? それが『お姉さん』の空想した『特別な自分』の形。分かります、僕も同じようなものですから。ありのままの自分を受け入れられなくて、だから強くて残酷な怪物である自分を空想する。
その空想を自らにトレースする……そうして僕は真実に怪物になれるんだ」
蒼は謡うように語る。それを聞くのは、蒼自身だ。自分が特別な『本物』であることを、自分の言葉で、自分の心に刻み込む。
「あの時……僕のことを受け入れてくれていれば……そうすればあなたを殺すことなんてなかったのに。ひょっとしたら僕も……こんな可愛らしいセーラー服を着ていなくたって、ありのままの自分を好きになれたかもしれないのに」
そのとき発した言葉だけは、欺瞞とは言い切れなかっただろう。
「さようなら、かなでさん。あなたといるのは、楽しかったです」
蒼はアクセルを踏んだ。計画の仕上げをするため、偽者の小さな悪鬼は、夜の帳の中へと消えていった。
読了ありがとうございます。