第八章 第五話 不安
どれだけ時間が経ったかわからない。ただ、まぶたをじりじりと焦がす光が、彼女を覚醒へと促した。目を開けると板張りの天井が見え、鼻の中は木の匂いで満ちていた。簡素なベッドに寝かされているようで、周囲には同じようなベッドとその上で横たわる負傷者が並んでいた。シーツの絹ずれに混じって、小さなうめき声が聞こえる。
(ここは……)
病院と答えを出す瞬間、部屋のドアが開く。
「あら。目が覚めたのね」
扉の向こう側から現れたのは、艶やかな黒髪をした妙齢の女魔導師だった。格式高い厚手のローブを身にまとい、首からはその国の紋章と思しきペンダントを下げている。
「ここはどこ?」
「ターファー山脈第四魔導師訓練区域の中の脱落者収容所よ」
「ターファー山脈……」
聞いたことがない。そもそも、ソドルに『ターファー山脈』なる山脈は存在しない。それに、ソドルでは『魔導師』とはいわずに『僧侶』かあるいは『神官』という。国外の地域に飛ばされたということは明白になった。
「あなた。ここの訓練生じゃないわね」
「!? どうして」
いきなり核心をつかれ、一瞬背筋が跳ね上がる。
「ローブが違うわ。それに、あなたが発見されるすぐ前に、この近辺に強い魔力による不可解な干渉があったの」
「……」
「ただ、あなたはそのお陰で今も生きていられるのかしらね。干渉があったからこそ、警戒中の教官がすぐに駆けつけることができた。収容されたのは四日前だけど、その時のあなたは全身傷だらけで虫の息だったのよ。干渉した魔力の強さからみて、かなり無茶なことされたみたいね。どこから来たの?」
「それは……」
答えようとして口籠もる。次元転換による他国領内への移動は、それが他者からの強制的なものであったとしても、国防上の観点から厳禁とされていた。これを無視して他国の領内に侵入し発見されようものなら、厳しい拷問を受けることは免れない。その拷問の最中に命を落とす者もいるが、多くの場合、自動的に死刑となるのが常であった。
「言えないのね。それも当然、あなたはソドルから来たから」
(どうしてそんなことまで!?)
再び背筋が跳ね上がる。しかし、今度は言葉が出ない。驚きよりも、自身のことを正確に言い当てる彼女を疑問に思い、それと同時に恐怖さえ感じていた。
「近辺の国の中でもね、ソドルの者だけなの。アリンスの魔導師の作る結界に干渉できる能力があるのは」
「じゃあ、わたしは殺されるのですか」
おずおずと顔を上げ、女魔導師の顔を覗き込む。彼女はたしなめるような目つきでシアを見ていた。彼女の視線が、全身を舐めるように這いずっているのがわかる。
「いいえ、そんなことはしないわ……」
彼女はゆっくりとシアににじり寄る。吐息が耳にかかるほど近づいたところで、背中を華奢な指が這う。だが、全身の痛みと過度の緊張下にいたシアに、この生暖かい感触は不愉快によく似ていた。
「あなたを殺すなんて、もったいないわ……」
「じゃ、じゃあ、どうす……」
耳を舐められる。濡れた生暖かい舌先が、そっと耳たぶをなぞる。
「あなたには、これからアリンスの魔導師として働いてもらわなくちゃ……」
背筋がぞくぞくする。それが耳を這い回る舌先によるものなのか、それとも自身を待ち受ける見通しのきかない未来にたいするものなのか。今の彼女にはそれを判断する余裕など、あるはずもなかった。