第八章 第四話 敬意を捨てる代償
「この腰抜けめ」
その日も神殿内に父の怒声が木霊する。叱責の矢面にたたされていたのは、ほかの誰でもないシアだった。
痛む体を引きずって神殿の外へ。ほどなくしてあのせせらぎのほとりにたどり着く。
「シアさん」
せせらぎで待っていたソラが彼女に駆け寄って肩を貸す。
「はは、今日もだいぶ派手にやられちゃった……」
「大丈夫ですか? はやく横になってください。しかし、実の娘をここまで傷つけるなんて」
そう言いながら、彼女の傷を手当てする。彼の手からオーラが放出され、シアの患部を包み込む。
この程度ならばソラの手を借りずとも、自分で十分に癒すことができた。意識を失っていなければ、自己治療は可能なのだ。だが、シアはこうして、せせらぎの音を聞きながらソラに傷を癒されることに、他の何にも換え難い安心感ややすらぎを覚えていた。
「気にしないで。お父さんはわたしや国のためを思ってあえて厳しくしているの。それに、この道を選んだのはわたし自身よ。はじめから、こうなることへの覚悟はできていた……」
「シアさん……」
「ソラ……」
何度かここで逢瀬を重ね、夢を語り合ううちに、二人の間柄は特別なものとなっていた。
見つめ合う二人。鼻息がかかりそうなほど顔が近い。ほんのりとしたまどろみの中へ、二人で一緒に身を委ねていくときの快感は、余人の知るところではなかった。
そんなときだった。
「シア!」
『!』
せせらぎを掻き消すようにして、シアの父の怒鳴り声が木霊した。その怒声によって二人はまどろみから引き戻され、二人きりの時間を邪魔された気恥ずかしさから、互いに目を見開いて慌てふためく。
「お父さん」
「お前の魔術がいつまでたっても未熟なままだと思えば、このような軟弱な若造と馴れ合っていたのが原因だったようだ。来い! そんな軟弱者はお前にとって無価値だ!」
シアを強引にソラから引き離そうとする傍ら、ひどい言葉でソラを罵る。
「待って。彼はわたしの治療をしていたの」
ソラの存在の否定が彼女に憤りを生んだ。ただ、相手が尊敬する父親であることと、ソラの目の前であることとが、彼女の声色の高潮にまったをかける。
「治療? ほう、こんな未熟者にそんな大層なことが出来るのか。フン!」
「うわあっ!」
シアの父はソラをたしなめるように一瞥すると、とまどうことなく攻撃する。どこからともなく電光が走り、ソラの体に殺到する。彼はなす術なく電光に弄ばれ、全身を痙攣させて地面に突っ伏した。
「ソラっ!」
「シアさん……」
地面に倒れ伏し、すがるようにシアを見上げる。直後、糸の切れた操り人形のように、力無く昏倒して動かなくなった。たった一撃であっても、彼の体の損害は予想以上に多大であった。
「ひどいわ! なんで彼を……」
「他者を癒すというのなら、まず己を癒せて当然だ。それに、この程度の攻撃さえも防げぬ者に、人の娘に手を出す資格などない。いいか、これ以上この能無しと関わり合うことは金輪際禁じる。良いな」
シアの腕を掴んで、ぴしゃりと言い放つ。そのまま踵を返すと、彼女の腕を掴んだまま足早に立ち去ろうと歩を進めた。
しかし、シアはその足取りに従う気にはなれなかった。ソラが未熟なのは確かだが、あの言葉は悪辣すぎる。ソラへの暴力も許せない。暴力の正当化も単なる屁理屈だ。これまで尊敬していたが、自分の交際にまで口出しして欲しくない。もっとも、あんな酷いことをソラに対して行った父親に、もう敬意を払う必要などないが。
ソラへの想いの強さと突発的な感情が、彼女の尊敬心を憤りに変えていた。
「離して。あんなひどいことをする人だったなんて思わなかった」
いたく冷静な口調で言い放つ。とげとげしい言葉の裏には、父を見放した彼女の決意があった。
「フン。あの男に骨抜きにされたのか。お前は見込みある娘だと思っていたのだがな。どうやらあやつと同じ、どうしようもない生来の腰抜けだったようだな」
シアの父はぴたりと足を止め、背を向けたまま言った。言い終わるとすぐに彼女の腕を掴むことを止め、乱暴に振り払った。
シアは自由になると無言で反転する。ソラの治療をしなければならない。
「あの男のところに行くのか。私は認めんぞ。どうしてもというなら、お前との関係も今日限りだ」
今日限り。その言葉に少々の躊躇いを感じはしたが、それも悪くはないだろう。いずれ父親のもとを離れ、魔導師として自立するつもりだった。後味の悪い独り立ちではあるが、いつまでもあの人でなしに頼りすがることに意義を見いだせない。
「そうね。これで終わりね。だから何? それで引き留めているつもり?」
振り向こうともせず、互いに背中を向け合ったまま言い合う。
「……。誰のお陰でここまで成長出来たと思う。それに、私の紹介無しで神殿の高僧になれるとでも思っているのか。今のお前は私の下で技術を積め。色恋沙汰は断じて許さぬ」
「一人娘がいなくなって寂しいのね。あなたみたいな人がいるような所なんかで、働きたくないわ」
そうこうしているうちに、シアはソラのもとに辿り着いた。彼の側までくるとすぐさま治療を始める。想像以上にその傷は深く、全身に無数の傷跡があった。ソラの傷を見て、ますます決別の意思が硬くなる。
「馬鹿者が。そんなに私が気に食わないのなら、お前の望むとおりにしてやろう……」
「そう。それは願ってもないことね。感謝するわ」
シアは治療を止め、ゆっくりと立ち上がって父と対峙した。彼の眼には、寂しさをごまかしたような怒りがこもっているように見えた。
「メスムカバ」
青白い電光が彼の背後から躍り出るやいなや、シアに向かって一直線に殺到する。その一筋一筋が明確な殺意を内包していることを、彼女は肌で感じ取っていた。
「ヤズラカワ」
すかさず自身とソラをかばうようにして防護壁を展開する。しかし、彼女の作り出した防壁では、父の電光を防ぐには不十分だった。
「あっ!」
防壁はいともたやすく破られたが、彼女がそれを知ったのは自身の体を激痛が駆け抜けたあとだった。
「シアさん!」
ソラはシアの治療で意識を取り戻していた。彼女が膝をつくの同時に声を荒げる。
無茶をした。彼女は後悔していた。まだ修練での傷が癒えきっておらず、ましてソラの治療をしたあとで強引に力をひねり出して展開したような防壁では、父の攻撃を防ぎ切ることなど至極困難だった。
その場に力なく膝をつくと、すぐさまソラに助け起こされる。しかし意識がはっきりせず、視界がゆがむ。彼の声も宙でむなしくこだましているようで、何を言っているのかわからない。体の末端の感覚がないのに、心臓がやたらと強く、内側から叩きつけるかのように鼓動している。
「フン。所詮はその程度。己がどれほど卑小な存在かわかったか」
彼女の聴覚がかろうじて父の言葉を拾う。
「このような娘など、いてもいなくても同じ……」
父はその懐から数枚の呪符を取り出すと、それを扇状に持っておもむろに宙に放つ。
「やめろ!」
ソラが吼えた。直後に彼からの助けはなくなる。シアのことを守ろうとして飛び出したことは明白だった。
「小癪な」
直後、どこからともなく別の呪符が躍り出て、ソラに殺到する。ソラはその存在に気づく間もなく、強烈な閃光を再び浴びて動かなくなった。
(ソラ……)
視線の低くなった視界の中で、ソラが倒れる。助けようとして起き上がろうとするが、全身に蓄積したダメージは想像以上の怪力をもって彼女を地面にねじふせていた。
いつのまにか、すっかり呪符に包囲されてしまっていた。
「ナルクテッエカトドニ!」
網膜の焼けそうな光の向こう側で聞いた父の言葉は、彼女との決別と同時にソラとの別れを意味していたが、そのときの彼女は今の自分がどうなっているのかさえわからなかった。