第七章 第二話 美しさの対比
夢斗とイブの視線の先には、黒色の体毛をまとった獣がいた。短くもたくましい四肢と太い首が特徴的で、熊に良く似た体型である。それらはどれも牙を剥き出して、全身から殺気をみなぎらせている。
夢斗はイブが抜刀したのを見、直ぐさま自分の剣を鞘から抜き放った。
その時、背後で何かが動いた。物音に驚き振り返ると、先程イブに斬りつけられた熊が、残る四肢を駆使して立ち上がろうとしていた。イブの一撃は、熊の右前脚を切断するに留まったようである。
「生きてやがる」
小さな悪態をついて、イブの方を見る。彼女にその事実を伝えようとしての事だった。
しかし、イブは対峙する残りの熊との戦闘に移っていた。右へ左へと素早く立ち回りながら、確実な一撃を決めるべく刀を振るう。その度に血飛沫が踊り、獣の放つ苦痛に満ちた咆哮が響き渡った。
一対四の戦闘を繰り広げる彼女に、これ以上敵を回すべきでは無い。今の自分にできる事といえば、彼女への負担を出来る限り軽減することである。
瞬時にそう判断した夢斗は、ふらふらと立ち上がる敵に狙いを定める。敵の眼光は未だ鋭く、かてて加えて未知なる脅威に少なからずたじろぐ。しかし、怯える自分を強引に奮い立たせ、剣の柄を強く握りしめた。
夢斗が覚悟を決めたその時である。深手を負った熊が全身の力を振り絞り、後脚だけで立ち上がったのだ。地上三メートルはあろうかと思われる、熊の巨体がそびえ立つ。苦痛に耐える為のものであろう、低く重たい咆哮が、周囲一帯の大気を振るわせる。咆哮と同時に無事な左前脚を振り上げると、鬼気籠もる眼差しを夢斗を睨んだ。
「ヤバイ!」
夢斗が身の危険を察知するも束の間、熊の手は彼目がけて振り下ろされた。鋭い爪が、真上から襲ってくる。避ける術はない。いや、そんな時間を与えないほどの高速で、彼を捉えたのだ。
死、運が良くて重傷。魔界に来てから、まだ五分と待たずして命が潰えるか、あるいは限りなくそれに近付くのか。
「夢斗っ!」
夢斗が一瞬の思慮にふけっている最中、一陣の風が吹き抜けた。それとほぼ同じくして聞き慣れた声。刹那、左肩に感じる一瞬の圧迫感。死と隣り合っていた夢斗が見た物は走馬燈ではなく、刀を構えて自らの頭上に躍り出るイブの姿であった。いきなり現れた彼女に、熊と夢斗は驚きを隠せずにいる。しかし、当の本人は両者に逡巡も憂慮も許さず、その代わりに熊には更なる苦痛を、夢斗には惨劇を見せつけた。鋭い電光の後に、鮮血が舞い踊る。
熊は胴体を斜めに深く斬りつけられた。その線上にある心臓は、半ば両断に近い形で斬られ、背中側に面する心筋のみが辛うじて繋がっている、という状態であった。噴水の様に血飛沫が舞い、断末魔の叫びが虚しく轟く。それを最後に熊は事切れる。えび反りの体勢で地面に倒れ、それきり動かなくなった。
「終わり……」
彼女は静かにそう言って、刀の血を払い鞘に収める。緊張から解き放たれたのか、イブの肩から力が抜けたのが見てとれた。
「怪我はない?」
そう言って振り返る。此度もまた、彼女は鮮血にまみれている。
「ああ……。大丈夫……」
途切れ途切れに答える。イブは夢斗が無傷であることを知り、また一つ表情を緩めた。次第に緊張から解き放たれて行く様が、手に取るようによくわかる。少しずつ表情が柔和になり、自然な笑みが徐々に顔を覗かせていった。
「そう、よかった」
まるで女神すら敵わないであろう笑顔を浮かべ、彼女はゆっくりと夢斗に歩み寄る。全身に飛び散った鮮血が、彼女の笑顔を引き立たせる対比のようであった。
二人が魔界に到着した、丁度その時の事である。二人の場所から途方もなく離れた神殿の祭壇に、痩身の老司祭がいた。彼の眼前には、二人の姿をぼんやりと映し出す鏡が浮いていた。
「ふむ。さすがはイブ姫。この程度ではまだ緩いか」
右手を顎にあて、自分だけにしか聞こえない声でそう言った。
神殿内は薄暗く、祭壇に設置された幾つかの松明と、鏡から映し出される幽鬼だけが唯一の光源であった。
「まさか……、これほど早いとは……」
彼の背後にた数人の僧侶が、驚嘆の声を上げた。彼らは、自らが遣わした刺客に、もう少しましな働きを期待していたのだろう。それを証拠付けるかのように、祭壇の中央部には空になった巨大で堅固な檻が横たわり、それを松明の炎が照らしている。
「手荒い歓迎を、許したまえ。しかし、かの青年は一体?」
イブの隣にいる青年――夢斗の存在に疑いを隠せない。
その時、若々しいが横柄な声が辺りに木霊した。
「クソアマのカレシだよ。名前は、あいつが『ムト』とか呼んでたな。弱い割には、何かと目障りな人間だよ」
祭壇に設置された、壺状の祭器に腰掛けていた男がそう言った。男の脇には松明があったが、神殿全体が暗いせいか顔がはっきりしない。それでも、老司祭やその部下と比べると、遙かに若い印象がある。
「ほう、人間か。なるほど……」
老司祭は鏡の中の夢斗を凝視する。彼の知る限り、魔界に人間が来たという話は聞いたことがない。おそらくは物珍しさからだろう。彼の視線には、相手をたしなめる様な、品定めをしているようには見えなかった。『人間風情が、何をしに来た』という侮蔑の念が籠もっている。
「人間だと……」
「あり得ぬ。何故、人間が?」
「我々に対する挑戦か? ふざけおって」
部下の僧侶達が口々に悪罵を放つ。また、それと同時に、鎖と鎖が触れ合う様な音もする。老司祭はそれらを制するかの様に、左手をすっと横に出すと、掌を僧侶らに向けた。
「かの者達のやることは目に見えておる。ですから、焦らずとも大丈夫ですぞ、アルバ様」
有無を言わさぬ様な凛とした口調で、老司祭はそう言う。
その言葉の直後の事、男が動いた。松明にその顔が照らされ、全体像が映し出される。長身で筋肉質、そして色白の男だったが、全身から黒々と淀んだ殺気を漂わせていた。手には、金属製の三節棍が握られている。
「そうだな。けどよ、焦らなくてもいいって知ってても、どうしても我慢できそうにねえな」
アルバと呼ばれた男は老司祭の隣まで来た。鏡の中の二人を交互に見回し、両者を鋭い眼光で睨み付ける。
「では、アルバ様のご無念。私が晴らしてしんぜましょう」
老司祭はそう言って左手を眼前に持っていくと、掻き消すようにその場から消す。
次の瞬間、イブと夢斗を映す鏡の視点が変わり、その片隅に痩身の老人が姿を現した。
「やれやれ、喧嘩好きなじいさんだな」
アルバは皮肉たっぷりに、そして一抹の期待を込めてそう言い放つと、黙って鏡を覗き込んだ。
「何故、アナタが!?」
イブは明らかに取り乱していた。瞬時に抜いた刀を持つ手が、小刻みに振るえている。
「手荒い歓迎を許したまえ。本来なら、こして私が直々に赴くべきであったな」
老司祭。ヒュエル・ガロは、ローブの袖口から何枚かの呪符を取り出した。
どうも皆さんこんにちは。遅筆野郎伊之口です。
本当はですね、今後の流れとかはちゃんと考えてあるんです。ただ、時間が、時間だけが足りません。あ〜あ〜、精神と時の部屋欲しいなあ〜
とまあ、下らない愚痴はこの辺に致しまして、今後の展開に乞うご期待!
(なるべく早くします。ハイ、すみませんでした)