第七章 第一話 魔界。そして、新たな戦いへと
「準備はいい?」
初めて会ったときと同じ服装の、白い和服姿でイブが訊く。
園美と分かれてから、夢斗はしばらくエントランスホールで立ち尽くしていた。それからは、何がきっかけで部屋に戻ったかは覚えていない。気が付いたとき、彼はベッドの中にいたのだ。
「ああ。いつでも行けるよ」
そこは例の廃工場だった。いつぞや、老齢の大司祭との一戦があり、二人の思いの丈がぶつかり合い、互いを理解し合った場所である。
夢斗は剣とボストンバッグを両手に一つずつ持ち、イブは刀を腰に差し呪符を右手で掲げていた。
「じゃあ、始めるよ」
彼女はそう言って、呪符を放った。すぐさま右の掌を突き出すと、呪符はその動きに呼応したかの様に宙に浮く。
夢斗は呪符の動きを目で追っていた。空中をふわふわと漂う五枚の符は、禍々しい反面どこか可愛くも見える。
「行こう」
彼女は快活な笑みを浮かべながらそう言った直後、細い腕が背中に回ってくる。そして、そのままきつく抱き寄せられた。触れた部分から、体温が伝わってくる。
きっと、不安があるのだろう。いくら里帰りと言っても、故郷は戦争で跡形もなく破壊されているのである。それに、彼女が先導する次元転換は初めてである。
「うん」
そんな彼女の憂慮を察し、相手の眼を見て強くうなずく。数秒間見つめ合うと、互いに前を向いた。
イブは眼を閉じる。腕に入る力が一層強まった。それとほぼ同時に、ゆっくりと呪文を唱え始めた。
「ナダン……アフテン……カンテンゲジ……」
彼女がそう唱えると、呪符がそれに反応し、二人を取り囲む様に周遊し始める。
腕に更に力が加わり、イブは続きを唱える。
「ネカクイ……クマウ」
呪符は周遊速度をみるみる上げ、強い光を発し始めた。
「デトコテツデマ……レソラタシイ……パッシマ」
呪符が砕ける。いや、無数の光の集まりになったと言うべきであろう。周遊時の速度を保ちつつ、幾つもの光の帯が二人を包む。内側は、真っ白な光が形作る空間となった。
「……。あとは、念じるだけね」
イブは眼を開けて、そうこぼした。腕の力は弱まっていたが、まだ夢斗の背中に回されたままであった。
「念じる?」
「そう、念じるの。ワタシが魔界の事を頭の中で思い浮かべるから、夢斗は楽にしてて」
「うん。わかった」
そんなやりとりの後、彼女は再び眼を閉じた。口を小さく動かし、何かをつぶやいてもいる。
しかしながら、本当は今のイブの仕草など、夢斗にはどうでもいい事であった。一番の関心事は、これからどうなるという事である。それも魔界に着いてからどうこうではなく、このまま無事でいられるか、という不安だ。
夢斗がこれから先の事について、あれこれと考えているおり、脇からイブの声が響く。
「行くよ!」
次の瞬間、彼の視界は光そのもので埋め尽くされた。それに加え、途切れることのない振動と轟音が襲う。何度か飛行機の離陸を経験したことのある夢斗だったが、今回のものはそんなレベルではなかった。直下型地震か巨大隕石の落下のような、凄まじく桁違いなものだった。
「……!」
声を出すことも、指一つ動かすことさえままならない。数秒前の光の津波によって閉じたまぶたも、開けることが出来なかった。ただ、背中と腰にかけて、何かがあたっていることだけは分かった。
(イブ……)
心の中で彼女の名前を呼ぶ。度を越した衝撃の中で感じるイブの腕だけが、夢斗の頼みの綱であり、イブの存在の証明でもあった。
時間にして数十秒だろうか。光も振動も轟音も、全てが消えた。外部からの強烈な干渉がはたりと消え失せたのだ。ただ、相変わらず、彼女の腕の感覚だけははっきりと残っている。
夢斗は恐る恐る、こわばったまぶたを開けてみた。するとそこには、見渡す限りの平原が広がっている。地上には浅緑、そして、天高く澄んだ青空。おおよそ夢斗の抱く魔界のイメージとはかけ離れていた。
「ここが……。魔界?」
夢斗はぽつりとこぼす。
魔界と聞き、彼はてっきり地獄のような場所を想像していた。空は赤黒く、世界の果てまで荒野が広がり、あちらこちらに鬼や犬の類が群れている。そんなとてつもなく殺伐とした光景を、夢斗は思い描いていたのだ。
しかし、実際は違った。のどかで平穏。下手をすれば、羊の群が目の前を横切ってもおかしくなさそうな光景。戦争や魔獣の存在を疑いたくなるような世界だった。
「そう。ここが、魔界よ……」
イブはゆっくりと噛みしめる様にして答えた。帰郷したことによる懐かしさから、それきり何も喋らなくなる。
夢斗は深呼吸をしてみた。鼻で空気を取り込み、肺胞をゆっくりと膨らませる。問題なし。魔物の血が発する異臭や、予想していた息苦しさなどは無く、いつも吸っている空気と何ら変わりなかった。むしろ、都会の空気より澄んでいるようにさえ感じる。
「本当に、ここは魔界なのか?」
にわかには信じることが出来ない。辺りをぐるりと見回すと、、見渡す限りの広々とした草原である。空気も全くと言って良いほど、問題なかった。
戸惑いを隠せずにいる夢斗の表情を察してか、イブが口を開く。
「信じられないかも知れないけれど、ここは魔界なの」
「本当に?」
疑念はぬぐい去れないままだ。
「本当よ。……!」
その言葉の直後、彼女の目つきが変わった。柔和で優しい目つきが一転、鋭いものに変わる。
「どうしたの?」
夢斗がそう言うのとほぼ同時に、彼女は両足を肩幅より広めに取り、腰の刀の柄を握る。
次の瞬間、彼女は振り返り、目にも留まらぬ速さで抜刀。
「伏せて!」
紫電一閃。
イブに促される様にして振り返った夢斗には、状況が良く分からなかった。しかし、一つだけ分かった事がある。眼前で痙攣する生き物の肉塊と、舞い踊る鮮血。鼻を刺す例の臭気が、事実を彼の前に突きつけた。
「わかった?」
まだいるであろう残存の有無を知ってか、イブは臨戦態勢のまま言う。
「ここは、魔界」
イブの言葉と、夢斗の中の結論は一致していたのだ。
夢斗は半ば反射的に、研を鞘から抜き放つ。龍の彫刻の眼が、赤々とした光を発した。
こんにちは、伊之口遅筆です。
これだけの文面を書くのに、一ヶ月弱掛かりました。
はい、ヘタレです。すみませんでした。
<(_ _)>