第六章 第四話 言い訳
夢斗の視界には、見慣れた校舎と校門があった。いつもと変わらぬ朝の光景が広がっている。普段は始業ぎりぎりに飛込む彼にとって、朝早くの学校というものは新鮮な感じがした。遠くから野球部の掛け声が聞こえる。
自宅から学校に着くまでの間、顔の知った生徒とは会わなかった。朝練のある部活動の生徒とは会ったが、部活に所属していない彼には大した問題ではなかった。仮にクラスメイトと鉢合わせになったとしても、上手く言いくるめられるだけの理論武装は済んでいる。
「まずは職員室だな」
肺を新鮮な酸素で満たすと、固い決意を背負って歩き出した。
職員室には何人かの教師が出勤していた。名前くらいなら知っている教師もいた。しかし、目的の教師、自分のクラス担任の国松の姿はなかった。
やはり早すぎたな、と少しだけ後悔する。時刻は七時半をわずかに回ったばかりで、多くの教師はもっと後になってから出勤する。この時間に学校にいるのは、事務職員と朝練の生徒、あとは余程律儀か暇な教師だけである。
職員室のドアのガラスからもう一度室内を見渡すが、やはりいなかった。しばらく教室で時間を潰そうとして踵を返すと、よく見知った男、担任の国松重幸とばったり出会した。
「足達。足達じゃないか。どうしたんだ、いきなり飛び出してから連絡もよこさないで。心配したんだぞ」
国松は四〇過ぎの数学教師だった。中肉中背で髪は丁寧に整えている。生徒から絶大な支持を得ている訳ではないが、さりとて、馬鹿にされている訳でもない。要はどこの学校にもいる、標準的な教師である。
目の前の男は当惑している様子だった。何しろ、ここ数日の間に様子の激変した生徒と、思いもしなかった場面で鉢合わせたからである。
「先生。その事についてお話があります。良いですか?」
真剣な面持ちで告げる。それを読み取った国松は、しばし無言だったが、
「分かった。少し待っていなさい」
そう言って、職員室へと消えた。
夢斗と国松は、職員室の隣にある進路相談室にいた。八畳程度の室内の壁際の本棚には、大学に関する資料やファイリングされた書類などが並んでいる。そんな本棚に囲まれた部屋の中央には、白い机とパイプ椅子があり、椅子は向かい合わせに置かれていた。夢斗は入り口側の椅子に座り、向かい国松と対面していた。
「それで……」
国松は重々しく口を開く。
「話とは?」
しばし無言で国松を見据え、何かを決めたようにうなずく。
「はい。これまで、無断で休んだ事についてです」
夢斗の話の内容に、あらかたの予測はついていたのだろう。国松は特に驚いた素振りを見せなかった。
「実は、父さんがスペインで事故に遭いました……」
「っ!?」
目を見開いた所から察するに、国松は相当驚いたようだ。そんな国松を尻目に、夢斗は続けた。
「三日前の事です……。空港からホテルに行く途中のタクシーが、酔っぱらい運転のトラックと接触して……、バランスを崩して橋から落ちたみたいです……」
ときおり言葉に詰まったり、うつむいて目頭を押さえて信憑性を出す。当の国松は夢斗の言葉を信じ込み、続きを待った。
「容態は詳しく分かりませんが、かなり悪いみたいなんです……。むこうで手術をしたみたいですが、回復するかどうかはよく分からなくて、それで……」
「分かった。もう、いい」
夢斗の話には続きがあったが、国松はそれを制した。
「それが休みの理由だな」
「はい。それで、もうひとつ言うことがあります」
「何だ」
「父さんの顔を見にスペインに行かなければならないので、しばらくの間、また休みます。いつになるかわかりませんが……。必ず帰ってきます」
「そうか……」
国松はうつ向き、彼の話に聞き入っていた。
「今日の午前中の飛行機で日本を発とうと思っています。いろいろと迷惑を掛けますが、よろしくお願いします……」
最後に声のトーンを下げられるだけ下げ、ゆっくりとした動作で席を立った。
国松はそれを止めようとしなかった。同情だろうか、少し物憂げな視線を送ると、
「みんなには、先生から伝えておこう」
と言い席を立った。
内心はらはらしたが、なんとか国松を信じ込ませ、学校側への言い訳は立った。
夢斗の父親の事故は勿論嘘である。最低一週間は魔界に行かなければならなくなったため、学校に偽りの休学報告をしたという訳だ。その際、夢斗の父親の職業と、彼の演技がものを言った。少し大袈裟な気もしたが、結果的には良い方向に傾いたようだ。
「何とか上手くいったな」
校門を出てからしばらく歩いた所で振り返り、学校の方向に目をやる。特に後ろめたさは感じなかったが、それ以前に帰ってきたときの事が気懸がかりにった。
「長引くと大変だな……」
テストや単位についての不安が余切った。遅刻は多くないが、成績が芳しくない。帰りが遅くなれば、進級や退学も絡んだ問題が浮上してくる。それに、欠席日数が多いと、無条件で進級できなくなるのだ。
(進級できなくなるのは勘弁だな。でも退学も嫌だなぁ)
心の中でぶつぶつぼやきながら、彼は家路を急いだ。