第六章 第一話 新たな光
雀の鳴き声。バイクの駆動音。人々の行き交う足音。朝の住宅街は、ことのほか賑やかだ。
夢斗はそんな日常の喧騒で、閉じきっていた瞼を開けた。そこは、例の廃工場の中だった。
「ん……」
少し重たげな瞼を開け、ゆっくりと身を起こす。工場内には暖かな日光が降り注いでいたが、空気はまだ冷たい。ひんやりとした空気で肺を満たして意識をはっきりさせると、背後から懐かしく優しげな、そして暖かく柔らかい声が聞こえた。
「目が覚めた?」
はっとして振り返ると、そこにはイブがいた。体中のそこかしこに傷があり、所々に包帯が巻かれていたが、彼女はパッと見元気そうだった。
夢斗は『おはよう』と、言いかける。何故なら、彼女へ向けた悪意の存在を、はっきりと覚えていたからである。イブから目をそらして逡巡していると、彼女からの働きかけがあった。
背中に彼女の体温を感じ、後ろからきゅっと抱かれる。そして、耳元から優しいささやき。
「おはよう。大事な話があるの…」
恐らく別れ話の類だろう、と悟り、イブの腕をそっと振り払うと、一回大きく背筋を伸ばしてから、イブと向き合った。
しばしの沈黙。少し、朝の日差しが眩しかった。
「ワタシね、もしかしたら、夢斗と別れずに済むかも知れないの」
その言葉に、彼は驚きを隠せなかった。
時間を遡ること数時間。人間界から戻ってきたガロは、これまでになく激しくうろたえた。
「なんたること! まさかアルバ様の身が、これほどまで痛めつけられるとは!」
廃工場から舞い戻ったガロは、神殿の祭壇で横たわるアルバを見ていた。
アルバは正しく満身創痍。顔から血の気は引き、眼は半開き。彼の下に描かれた複雑な魔法陣が光を放ち、彼を取り囲むように居並んだ国中の高僧達が、険しい顔つきで呪文を唱え続けている。
「大司祭様! 事態は一刻の猶予も御座いません! どうか、アルバ様の治療を!」
先程まで呪文を唱えていたと思しき高僧が、ガロの真横で大仰な仕草とともに慌ただしく急かす。その慌てぶりやアルバを取り囲む状況が、やせた身体を矢よりも早く弾き飛ばした。
「アルバ様! 今すぐ、お身体の傷を癒しましょうぞ!」
そう言うと、ありったけの呪符を放り投げ、誰にも聞き取れないほど早口で呪文を唱える。すると、総動員された呪符はアルバの身体に貼り付き、彼の姿を覆い隠す。その間も、ガロは呪文を唱え続け、いつしか透き通った光が、彼の身体から滲み出るようにして現れていた。
「セェイ!」
ガロの一喝。透き通った光はアルバに向けて一直線に向かって行き、彼の身体を包み込む。直後、強烈な閃光が轟く。
「うわっ!」
高僧達は思わず眼を瞑り、腕で光を遮る。
しばらくすると、例の閃光は収まり、辺りは普段の厳かな雰囲気の祭壇に戻った。ただ一つ違うのは、祭壇に寝かされたアルバの傷が、何もなかったかのように癒えていたことだけだった。
「んっ……」
アルバは瞼を開くと、首を動かして辺りを見回す。自分の事を食い入るように見入る高僧達。そして、ここから一番遠い所に、見慣れた司祭の姿がある。
「何があった?」
上体を起こしてぽつりと漏らす。すると、辺りから割れんばかりの歓声が聞こえる。拳を天井に向ける者。隣の者と抱き合うもの。出身部族の物だろうか。奇妙奇天烈な舞で喜びを表現する者。やり方は多種多様だったが、その場の全員が喜びと安堵を露わにしている。それは、ガロも例外ではなかった。
「良かった……」
ガロはそう言って、その場に力無く座り込んだ。二度の次元転換と、荒療治が答えたのであろう。憔悴しきった顔つきで、ぼうっとアルバの顔を眺めていた。
当のアルバと言えば、周りの様子に釈然としないながらも、どこか訝しげな表情を浮かべ、拳をきつく結んでいる。そんな彼の様子を心配したのか、小柄な僧侶が彼に近付いた。
「どうなさいました? まだ、お身体の調子が悪いのですか?」
しゃがれ声でそう訊かれると、アルバは小柄な僧侶をキッと睨み付ける。
「ひっ!」
小柄な僧侶は素っ頓狂な声を上げ、後ろ向きに仰け反る。その時のアルバの眼光たるや、残虐な闘志に溢れていた。
「あの女……、ぜってぇ許さねぇ……」
そう言うと、彼は何処かへと走り出した。
「アルバ様……」
その場の高僧達は、一斉にアルバを追う。しかしアルバは彼らを振りきるようにして祭壇を駆け下りた。
その時だった。
「アルバ様。いずこへ……」
アルバの前にガロが立ちはだかった。祭壇での一部始終を見ていた彼は、重い体を強引に引きずっていた。
「どけよ、ジジイ。オレは、あのクソアマをぶち殺しに行くんだ」
「その『クソアマ』とは」
「イブだよ。あのアマがオレをこんなにしやがった。叩きのめしてやりてえ……」
その名を聞き、ガロの血相が変わる。それと同時に、彼の中で点が線になった。
『知らないわ。彼は行方不明よ』
途端にイブの言葉が脳裏を過ぎる。よくよく考えれば、おかしな事だ。何故、隣国の王子が行方不明だと言うことを知っているのだろうか。それは、何らかの形で関与しているか、一度会っているからである。
ガロの中に怒りがこみ上げてきた。そして、あのとき葬っておけば良かった、と後悔の念が湧いてくる。
「イブ姫。そなたは、どうやら我々ソドル王国全てを、敵に回したようであるな……」
「何言ってんだ?」
「フフ、アルバ様、ご安心を。彼女は何をせずとも、いずれ我々の前に現れます。そう遠いことでは御座いません」
「そうか」
「はい」
「……。フッ、楽しみだな」
アルバはガロの言葉を信じ、彼の脇から祭壇を後にする。
『今のアルバに戦意は無い』と判断したガロは、それを黙って見送った。恐らく彼は、自分の部屋に戻るであろう。
「あの? 何が……」
小柄な僧侶がガロに訊く。
「近いうちに、また新たな戦乱が訪れる。その時は、アリンス帝国の真の滅亡だ」
ガロは静かにそう呟き、アルバに倣って神殿を後にする。
詳しい事情を知らない他の僧達は、ぽかんとした眼で二人を追っていた。
さて、この話もやっと四〇話行きました。これもひとえに、読者の皆様のおかげです。回を重ねる事に、着実にラストに向けて歩んでおますので、これからもよろしくおねがい申し上げます。