第五章 第九話 暴威
暴威のみの太刀筋が額を掠めた。その後も、荒れ狂う剣は止めどなく暴れ続ける。力任せで抑揚のない攻撃は、振りも大きく隙だらけなのでかわすに労は無いが、脚を負傷しているイブには、些か危なげであった。
「待って。落ち着いて!」
乱撃を避けつつ夢斗をなだめる様に言う。しかし、彼の耳にその言葉は届かない。
芸の無い攻撃を避けて後ずさるうち、彼女の背中に細長い感触があった。手を背中に回し、後ろ手に手探りすると、愛用の刀の柄に手が触れた。彼女は一心不乱に柄を掴むと、床から引き抜いて体の正面にて構える。
僅かな間を置き、暴威の剣が刀身と激突した。
柄をしっかり握っていたのが幸いしたのか、刀は動ずる事なく剣を捉えている。
ぎちぎちと互いの刀身が震え、得物を挟んで睨み合う。彼女の脳裏に特訓の時の情景が甦り、目の前と重なった。
目の前の男の眼は邪念に満ち、剣は猛烈な殺意を放つ。
あの時と遥かに遠く、到底及び得ない光景に、イブは思わず目を背けそうになる。
(やだ。あんな夢斗、見たくない……)
顔を逸らし俯くと、忘れかけていた痛みが襲い来る。
「あっ……」
全身からの激痛に怯み、彼女は思わず刀を持つ手を緩めてしまった。夢斗の剣はそれを見逃さず、彼女の刀を弾き飛ばす。刀は床に落ち、しばし滑るように旋回して止まった。
(しまった……)
刀の動向に意識を奪われていた彼女は、振り上げられた剣の存在を知るのに遅れた。刹那、斬撃が首筋を掠る。とっさに顎を反らしたのが幸いし傷は浅いが、一筋の血が首を流れ落ちた。
夢斗に目をやると、彼は返しの一撃を放つ為の予備動作に入っていた。彼女から見て左下。彼の左の太腿の高さに、刀身が光っている。自分の脚に力が全く入らず、ふらつきながら最善策を一瞬で練り上げる。彼女は反射的に空いた両腕を突きだした。
直後、体の正面から突き飛ばされた夢斗は、よろめいて後ずさる。一度大きく後足で踏ん張ると、小刻みに後退して姿勢を正す。
武器もなく、脚に力の入らない彼女には、両手で突き飛ばす位の抵抗しか出来なかった。負傷した脚では蹴りの威力も半減だし、かといって軸足にすることなど不可能に等しい。重傷を避けるためには、ほんの少し剣の軌道をずらせれば良いので、両手で思いきり押した。しかし、意表をついたささやかな抵抗は、結果的には大いにプラスになった。
しかし全体の有利不利はそのままで、彼女の振りに変わりはなかった。
「はあ、はあ……」
肩で息をする。思えば、今日の戦闘では不利になってばかりだ。ガロはレベル的に格差があって不利になり、夢斗とは負傷と疲労で不利。どうも上手く運ばない展開に、苛立ちを感じていた。
そのおり、またも傷口が痛み出す。どうやら、夢斗を突き飛ばした時、僅かに踏ん張ったのが災いしたのだろう。例え一瞬だけ忘れられても、必ずぶり返してくる。
「うっ……」
思わず膝を付いてしまう。夢斗はそれを見逃すことなく、剣を逆手に持ち、大きく振りかぶった。
避けられない。やられる。これが運命。こればかりは受け入れなければならない。
そう悟った。
しかし、来るとばかり思っていた激痛は襲ってこなかった。
目を瞑って覚悟を決めていた割には、大分期待はずれで呆気ないことに戸惑い、恐る恐る目を開けた。視線を横へ横へとずらしていくと、激しく震える両足があった。
「え……?」
更に視線を上げる。すると、怯えきり冷や汗まみれの夢斗が、自分を見下ろしていた。手には剣がしっかりと握られ、切っ先が首の付け根の、ほんの数ミリ手前で震えている。そして、その更に上には、怯え、戸惑い、恐怖のどれともつかない表情の夢斗の顔があった。
イブは床に両手を付き、その場にへたり込んで夢斗を見上げる。彼の眼は、想像を絶する恐怖と対面したように眼を見開き、顔中に汗を滴らせている。
夢斗の状態に一番驚いたのは、他でも無いイブであった。あれほど剣を狂気で満たして襲ってきたのに、目の前の状況があまりにも意外すぎた。おおよそ、凶徒には似つかわしくない表情。
「何で……」
彼の凶行と目の前の表情に驚きを隠せず、小さく漏らす。
その時だった。彼はイブの声を聞き、またスイッチが入った。再び剣を振りかぶり、力を込めて振り下ろす。イブは思わず瞼を閉じて、腕で頭部を庇うように覆った。
しかし、鮮血が花を咲かす事は無かった。
その代わり、困惑の中でただ呆然とし瞑目する彼女の頬に、何か熱く小さな物が落ちてきた。一滴、二滴とその量を増し、一筋の痕跡を残して顎へと伝う。伝うものの温度は、夢斗に別れを告げた時の感覚と似ていた。いや、そのものだった。この懐かしくも哀しげな感覚に気付き、瞼を開ける。
すると、そこには大粒の涙を流す夢斗がいた。