第五章 第六話 深紅の姫君と大司祭
イブは廃工場の敷地内を歩く。しかし、ふらふらと彷徨うような歩き方ではなく、確固たる信念に基づいたようなしっかりとした歩みだった。
イブにしてみれば、それは当然の事である。自分の直感が敵の所在を突き止めているので、何も考えずに歩けば問題は無い。
「ここね」
イブはとある建物の前で止まった。建物の入り口は巨大な鉄のスライドドアで、その扉の上には大きく『第三ライン』と書かれた看板があった。
彼女は意を決し、その鉄扉を開けた。鍵は掛かっておらず、人一人分の隙間だけ空けると、彼女はその中に吸い込まれるようにして足を踏み入れた。
建物の中は、機械部品の製造に関わる機械で埋め尽くされていた。ベルトコンベアー、プレス機、ロボットアーム。どれもが使われた形跡が無く、表層には埃が積もっていた。また、機械の陰による死角も多く、敵がどこから襲ってきても不思議はなかった。周囲三六〇度に警戒し、慎重な足取りで奥へと進む。足を進める度に、敵の気配が強くなっていた。
ややあって、イブは前方からの強烈な気に足をすくませた。彼女の前方一〇メートルの地点に、黒いローブで全身を包み、長柄の狼牙棒を手にした人物が居た。人物は何かの機械の上に腰掛けている。フードで顔は隠れており、表情や性別、年齢などは不明だった。身長は一〇〇センチ程度、しかし、しゃがんでいたので断言出来なかった。
イブは気の正体が目の前の人物であることを確信した。
「アナタは、誰……?」
その気の強さから、相手が相当な強者であり、同時に言葉を理解できると推測したイブは、震えかけの声で訊ねる。すると、意外なことに、目の前の人物はあっさり答えた。
「私の名はヒュエル・ガロ。ソドル王国大神殿の大司祭である」
『ソドル王国大神殿大司祭』と聞いた瞬間、イブの表情が凍り付いた。目の前の人物が、自分の祖国を滅ぼした国の中枢にあたる人物だったのだ。
「ところで、そなたは何者かね」
ガロは静かに訊いた。
「私はイブ。アリンス帝国の姫、イブ・キールよ」
イブは怯える自分を奮い立たせ、凛とした口調で答えた。しかし、やはり無理が生じたのか、最後の方の声はうわずってしまった。
ガロはそれを感じ取ったかどうかは定かではないが、先程よりも強い口調で再び質問した。
「アルバ様は何処だ」
「知らないわ。彼は行方不明よ」
「行方不明? 貴様、はぐらかす気か」
「そんな気ないわ。彼は本当に行方不明なの」
イブが必死にそう答えると、ガロは押し黙る。しばしの沈黙。その後、ガロは口を開いた。
「では、質問を変えよう。そなたは本当にイブ姫かね?」
「本当よ。ワタシの目を見れば解るわ」
イブがそう言うと、ガロはゆっくりと顔を上げる。ガロの顔が月明かりに照らされ、さっきまで解らなかった事が白日の下となった。ガロは男性、そえも相当な高齢である。皺の多い顔の中央、鼻の下と顎に白くて長い髭を蓄えていた。
皺の奥に隠れた、ガロの灰色の眼がイブの眼を覗き込む。
「ふむ、どうやらそなたは、本当にイブ姫のようだな」
ガロはぽつりと漏らす。
イブはガロの感想を聞き取ると、今度は自分から訊いてみた。
「アナタは、ここに何をしに来たの?」
すると、ガロは僅かに考える素振りを見せた。
「ふむ、私は昨日の夕刻から行方知れずのアルバ様を捜しに参った。アルバ様は、ご自分のお部屋から人間界にやってきたようだが、私はその理由を知らない。とりあえず、アルバ様を連れ戻しに参った、という所だね」
ガロの答えを元に考えると、アルバは自らの意志でここまで来たようである。
「そうなの。でも、この世界に彼は居ないわよ」
「そうか。ならば、私がここに居る理由も無かろう」
ガロはそう言って明かり取りの天窓を仰ぐ。月は赤く輝いていた。
「ふむ、しかし、せっかく来たのだ、私が何もせずに帰るのは少し虚しく感じる。どうかね、私と一緒に帰らないかね。そなたの居るべき世界へ」
イブはどきっとする。目の前の男は、敵ではあるが自分を元の世界へ連れて行ってくれるというのだ。
イブの心中は激しく揺れ動いた。夢斗と気まずくなったし、これ以上迷惑を掛けられない。それに、自ら敵国へ赴いて停戦を呼びかけるのも強ち間違っているとも言えない。しかし、そんな考えの中で、自国の迎えを待つという選択肢も生まれた。自分を信じて頑張っている国民を裏切るような事はできない。
合理的な道を選ぶか、それとも皆を信じるか。究極の二者択一に悩み、回答を決めかねているイブに、ガロが声を掛けた。
「そなたは自国の救援を待っているのかね?」
その声に気付き、一旦思考を止めると、イブは静かに頷いた。
「ふむ、そなたの愛国心と国民を信じる気持ちには頭が下がる。しかし、この世には受け入れなければならない事実というのもあるのだ。そなたの祖国、アリンス帝国は、我らの侵攻しより滅亡した。王族、貴族は全て処刑され、国民の殆どは死んだか別の地域に逃げ、国土は荒れ果てている。首都も陥落し、そなたの住む城も宮殿も無くなっている。どうかね、これでも自国の救援を待てるかね?」
『滅亡』 この一言に、イブは激しい怒りと絶望感を抱いた。信じていた、愛していた祖国は滅び、大切な家族は殺され、国民も城も無くなってしまった。
「そんな……、ウソよ……」
イブは自分の心の奥からこみ上げてくる物を止められなかった。それは雫となって、眼からこぼれ落ちる。
しかし、そんなイブにガロは追い打ちを掛ける。
「嘘や偽りではない。そなたの行方が知れなくなってから暫く経たない内に、そなたの国の九割は我らが掌握した。そして、すぐに王族と貴族の処刑は実行され、国民は魔獣共の餌となった。これは全て事実だ」
ガロの口調は静かで、それ故に残酷さが顕著に伝わる。表情を変えることなくここまで言われると、激しく言われたときよりも怒りがこみ上げてくる。
『何故、冷静でいられるの?』
怒りが更に湧き上がり、それが彼女を支配する。血に怒りが混じって体中を巡り、どうしようもなくなる。
止められない。
抑えられない。
我慢出来ない。
行き着く所、殺したい。
イブにはこれまで感じたことの無いほど、激しい殺意が生まれる。
気付けば、彼女は腰の刀を抜いていた。
「ほう、私に刃を向けるとはね。年老いたとは言っても、昔はソドル王国では知る者が居ないとまで称された男なのだよ。それでも、私と戦うのかね?」
イブはその問いに答えず、深紅の両眼でガロを睨んでいた。
「ふむ、沈黙は肯定でもなければ否定でもないが、態度での意思表示はできる。そなたは私と戦いたく、あわよくば殺したいのだね?」
ガロの回りくどく、なのに的確な心理分析に、イブは更なる苛立ちを覚えた。
「黙りなさい! これ以上ワタシを馬鹿にしないで! 人を舐めるのもいい加減に」
イブはそう言いかけると言葉を失った。激しすぎる怒りで、それ以上言葉を綴ることが出来なくなったのである。
「そのように怒ると、そなたの美しい顔が台無しであるぞ」
空気を読まないこの発言は、果たして真意か挑発か。その命題に答えを見いだすことも面倒になってきた。目の前の敵を切り刻めたら、どれほど爽快だろう。
「やるのかね?」
鬱陶しい。
「いいのかな?」
煩わしい。
「是非もなし」
さっさとやれ。
直後、激しい金属音が、無人の工場に響いた。