第一章 第一話 路地裏への入り口
夢斗はその後、いきなりの出来事に戸惑いながらも、一旦帰宅し、いつも通りに登校した。
「夢斗、おはよ」
教室に入ってきた夢斗に声をかけたのは、夢斗の彼女の小出園美だった。園美はセミロングの茶髪を、肩の辺りからウェーブをかけている今風の少女である。
「ああ、おはよ」
夢斗は軽く返事をし、自分の席に着いた。
ふと、今日の未明の出来事を思い出す。夢斗はその事を園美に訊いてみた。
「なあ、園美。昨日、月見た?」
「え? いきなりどうしたの?」
園美は突然であり、どうでも良すぎる問いに驚く。
「いいから、どうだった?」
「見てないけど、どうかした?」
「そうか……、わかった、ありがと」
どうやら、取り越し苦労か変な夢なのだろう。そう思うと、胸のまだかまりが取れるようで心地よい。
夢斗がそう感じた直後、教室に担任の教諭が入ってきた。
「おい、お前ら。早く席に着けー」
妙な事に、授業中の夢斗の脳裏に昨夜の月が蘇る。
(なぜ、月が赤かったんだ?)
教師の言葉もそっちのけで思案にふける。
そもそも、何故赤く見えたのだろう。月は元々、太陽の光を反射して光っており、自ら光を発している訳ではない。それが赤く見えたという事は……?
(一体……、なぜ……)
自分の知っている最大限の知識と思考をフル回転させるが、答えの糸口は全く見あたらない。考えれば考えるほどに、思考の堂々巡りにはまってゆく感覚に陥る。
そのおり、夢斗の視界が急に鮮明さを帯び始めた。霞んだ情景が透き通ってゆき、頭の中の曇りが解ける。
「では、この訳を……。はい、足達君、答えてみて」
夢斗を思考に待ったを掛けたのは、教師の声だった。
英語担当の女性教師の顔が視界最果てに映り、彼女の声が不可解な程良く聞こえる。
「足達君」
教諭に一括された夢斗は、飛び起き様に叫んだ。
「月が赤い!」
教室が笑いの渦に包まれる。その中心に居たのは、紛れもなく夢斗であった。
その日の放課後。夢斗は園美と一緒に、駐輪場まで歩いていた。
「あー、もう。国松ウザ過ぎ!」
園美はひどく気が立っていた。昼休みに担任に呼び出され、頭髪について厳しく注意を受けたからである。
「まあまあ、そんな怒るなって」
夢斗は園美をなだめる。
「うん、実はもう慣れっこなんだけどね」
園美は手の裏を返し、平然とした様子で答えた。
二人が駐輪場に着き、各々、自転車の鍵を外してるときに園美が口を開いた。
「夢斗。今日もバイト?」
園美は既に鍵を外し終え、自転車を手で押して夢斗の近くまで来ていた。
「ああ、そうだよ」
夢斗がそう言った直後、夢斗の自転車の鍵が外れた。
「あんまり、遅くまでしない方が良いよ。今日みたいなことになると、アタシがはずかしいから」
夢斗はその日の授業中の出来事を思いかえすと、何も反論することが出来なかった。
「じゃね。アタシも今日バイトあるから」
園美はそう言うと、サドルにまたがり、自転車をこぎ出す。
「じゃあな」
夢斗がそういうと、園美は一旦振り返って手を振った。
「お疲れさまでしたー」
夢斗はそう言って、搬入口のドアノブを回す。
「お疲れさまー」
程なくして、店の奥から返事が来る。
夢斗はそれが聞こえたことを確認すると、そそくさと店を後にした。
「ふいー、今日も疲れたなー」
夢斗は無意識のうちに、空を仰ぐ。
月は、今日も赤かった。
何かを暗示するかのように、妖しく輝く赤い月。夢斗はしばらくの間、赤い月に見入っていた。
「そういや、昨日も赤かったな……」
大体、何故二日続けて赤く見えるのだ? 疲れか? いや、それにしては赤さが強すぎる。それこそ、月本来の彩りを一切合切取り替えたみたいだ。
「ええい、くそ。もういい、月は見ない」
思考のもやを振り払うようにして頭を振ると、そのまま駅に向けて歩き出した。
と、そこで、昨晩の事を想い出す。そのきっかけとなったのは、昨日も見た例の一行がいたからだ。相変わらず、周囲に対して歪曲した威厳を放ち、無言の脅迫で通りを染めている。
(搬入口を出て繁華街へ行き空を見たら、赤い月が出ていた。前からヤクザ屋さんが来た。彼らを避けるために路地裏へ逃げた。そして……)
夢斗は思い出すのを止めた。いや、思い出せなかったのである。
(あれ……)
どんなに思い出そうとしても、路地裏へ逃げた後は、自分は朝日に照らされていた。まるで、記憶そのものをそっくりそのままえぐり取られたかのような感覚。確かに何かがあるのに、その何かが見付からない。
「何で……、なんだ……!?」
ノートに何かを書いたのだが、それが作為的に消されている、そんな間隔だった。どうして、何かが書かれていたと認識出来るかは、紙に筆圧による形跡が残っていたからだ。昨日というページの一部が、綺麗に消し去られている。
「ここからの記憶がない」
夢斗が振り返った先には、昨日逃げ込んだ路地裏への入り口があった。
彼はビールケースを蹴飛ばして路地裏へと走り出すと、その闇へと消えた。