1st-2
ガヤガヤと皆が席を立ち移動する休憩時間に俺へと声をかけてくるものがいた。
「おぃっ……!!」
急に捕まれた腕を反射的に振り解いて振り返る。乱雑な扱いにしかめていた眉がその人物を目にして更に険しくなる。しかし男はそのことに気付かず、そして他も気付かない。
声をかけた側と声をかけられた側の2人を退けて人の波は早々に四角い箱から流れ出ていった。生徒の波に乗らなければ転入生という存在は次の授業も何も知らず、どうすることも出来なくなる。俺は前の時間は移動教室だったので教室の場所すらわからない。教師も少し気を使ってくれればよかったのに、と恨みがましく思うのも無理ない。そんな時に事情も考えず声をかける奴も最悪だった。初日に、しかも数時間も経たず目を付けられるなんて。
「戻って、きたのか……」
目の前に立つ男は呟く。信じられない、とでもいうような不安定な声音。
先程は俺の自己紹介のみをし、授業は再開された。だから俺には未だ知り合い、声を掛け合ったクラスメイトなどいない。けれど男は声をかけてきた。
そして俺は、その男には見覚えがある。――以前からの知り合い。それでもこの場所で会うには不適格で、同時に“秋橋 涙”の知り合いでない。初対面だった。
「何の話」
感慨もなく、淡々と返した言葉に男の感情が高ぶったのを感じた。その端正な顔立ちに感情が馴染み過ぎている。表情が出やすかった。いや、顔全体で感情を表しているといっても過言ではないほどに、表裏がなかった。
「――っ忘れたのか?」
傷ついてみせる男の表情に、揺れる瞳に、心が粟立った。しかし、
「俺は今日、転校してきた秋橋 涙だ。知らんな、お前なんて」
平坦な声音で放つ言霊の刃。存外にお前なんて知らない、と伝える。煽られた感情は既に平常へと戻っている。何の感情も呼び起こされない。
感情は月の引力によって潮汐する海と同じ。しかし、それは湖でもある。波紋が広がったとて、どうやって波が立とうというのか。水面は心を映し出す。水底は暗いのも必然だった。
「だいたい、顔も憶えていないような奴と重ねるなんて――」
「なんで知ってるんだよ」
「?何が――……っ!」
指摘されてから自覚する。
今、俺は何を口走った?当人以外、知っていちゃいけないことを言わなかったか……?
「7年前のことだ。随分昔だし、子どもの頃とは違ってると思う。でも、そんなことじゃなくて、顔自体俺には思い出せない。」
「……」
「特徴のない顔。本人は覚えられにくい、って言ってたけど異常なぐらい覚えられない顔だった。直前まで会っていても、振り返って思えば顔が分からなくなる。そんな奴で、でも、そいつがそいつだと俺が証明できる唯一つは」
抗議も空しく利き腕を押さえこまれた。左で振り払おうとしてもう一方で掴まれる。簡単に無力化されたことに得体の知れない怯えが奔る。たった一つの失敗で導かれる真実に俺の動揺は最高潮に達する。
「やめ――」
「このペンダント。俺が、送ったものだ。手作りで、同じものを持つものはいない」
捕らえられた。服から引っ張り出され、胸元に揺れるペンダント。金のチェーンに通された透明な玩具のビンが俺には重い。それは“秋登”が持っているはずのものだ。“俺”が“秋登”だということを決定付ける明確な証拠。
「アキ――っ」
「知らないって、言ってるだろっ!!」
大仰な動作で腕を振り払い、言い逃げのようにその場を去った。その背を声が追う。けれど男自身は来ようとしなかった。そのことに胸が痛むことはない。当然だ。俺は遊びに来ているわけじゃない。心の警告に素直に従う。
“これ以上、アレに関わるのは危険だ”
俺は一人だ。友人も協調性もいらない。感情も不要。邪魔なだけだ。
今の俺に最も必要なこと、それは目的を果たす。ただそれだけのために俺は存在する。
「俺は今日、転校してきた秋橋 涙だ。俺はアキという人物じゃない」
俺は繰り返す。そして否定した。
己に言い聞かせるように、感傷など抱かなくてすむように。声なき声で、真実を偽る。
記憶を頼りにして流れの途絶えた生徒の群れを急ぎ足で追った。同じ組と思しき連中を視認して、ようやく速度を緩める。思考の端に引っ掛かるものなど、忘れたフリをして。




