決意と願いと
目が覚めたとき、レムの視界には茶色い天上が広がっていた。
気だるい体をゆっくりと起こして辺りを見回した。
部屋には観賞用の植物が数本に、小窓が二つ、テーブルと対の椅子がペアで置いてあった。
カーテンとテーブルクロスはお揃いの白で、全体的にこざっぱりした部屋だった。
その部屋にはレム以外に人はおらず、静かな風が白いカーテンを優しく揺らして仄かに香る花の匂いをばら撒いて行った。
甘い花の匂いに、はっとして立ち上がろうと動いたとき、体に力が入らず、どさりと床に倒れこんでしまった。
その時に初めて自分がベットに寝ていた事に気づいた。
あまり痛みを感じないことに不思議に思ったが、再び風が花の匂いを運んでくると、そちらに関心を寄せて小窓の一つへとたどり着いた。
窓の縁に手を乗せて外を覗いてみると、そこはあの灰色に染まった世界とは思えなかった。
大地一面に緑の草原が広がり、所々で木々が立ち、鳥や花が楽しそうに太陽の光を浴びていた。
驚きを隠せないレムだが、どこかでこの光景を覚えていることにも動揺した。
(何でだろう…この景色見たことある、それにこの部屋も)
不思議な感覚がレムの体のすべてを包み、まるで自分が今この部屋には居ないようなものだった。
『レムー?どこにいるのー?』
風に乗って、レムの耳に優しい女性の声が聞こえてきた。
その声は、もう一つの小窓の向こうから聞こえ、レムは高鳴る鼓動を抑えながらその小窓へ駆け寄った。
どこかで聞いたことのある、あの優しい声。
戸惑いと懐かしさに引っ張られながら、窓の縁に手を乗せて身を乗り出すと、周囲をぐるりと見回した。
すると、少し先に花畑が見えて、その中に人の姿が見えた。
色様々な花の中で、黒の長髪の女性が楽しそうに鼻歌を歌いながら小鳥と遊んでいた。
神秘的に見えるその姿だが、レムはその人間の姿を見て駆け出さずにはいられなかった。
小窓であることも忘れて、靴も履かずに家から飛び出すと、その花畑に向かって全速力で駆けた。
レムが走ると、風が驚いてレムを避けるように抜けて行き、草花もレムを邪魔しないように避けていた。
そして黒髪の女性の真後ろにまでやってきた。
息切れが激しく、暴れる心臓を深呼吸で大人しくさせようと努力しながら、目だけは黒髪を見つめていた。
「何年ぶりかな、随分大きく成長したね」
その声は先ほど聞こえてきた、あの優しい女性のものだった。
くるりと女性が振り返ると、レムは目を疑った。
どこかレムに似た顔立ち、優しい眼差し、ふっくらした唇…包容力のあるその姿に、レムは女性の正体を知ってしまった。
「お母さん…」
「ふふっ、覚えていてくれて嬉しいわ、もし忘れてたらどうしようかなって困ってたの」
その黒髪の女性…レムの母は、ニコリと心底嬉しそうに笑った。
笑った表情がさらにレムにそっくりで、まるで双子のように見えた。
「ここは?どうしてお母さんがいるの?私は確か…」
「慌てないで、一つずつ説明するから…ここはレムの記憶と心の中間地点、お母さんがここにいるのは、貴方の記憶の中の住人だから」
「中間地点?記憶の住人?」
どれも首を傾げる単語ばかりで、レムが一度に理解するには少し難しかった。
その様子を表情を見て感じ取ったのか、レムの母は小鳥達を空へ飛び立たせると、レムと向かい合ってまた優しく微笑んだ。
「記憶と心の中間地点、これは誰もが持つ心の拠り所、自分の記憶にある光景と、心のバランスによってその姿は様々であり、同じ物は一つもない…貴方だけの空間」
「それが中間地点なのね…なら記憶の住人は?」
「記憶の住人は、その名の通りに、貴方の記憶の中に住む心の残滓よ、私もその一人、レムが覚えていてくれたから私はここにいることが出来るの」
「…難しいのね、でも私はお母さんに会えてとても嬉しいわ、とてもとても…」
レムはニコリと笑って母と再会を喜んだ。
強く抱擁を交わすと、はっとしてレムはある事を思い出す。
様子がおかしい娘に、母が大丈夫かと声をかけると、レムはすがり付くように母に尋ねた。
「皆はどこ?グラドさんは?カルシナさんは?ストロアは?」
「落ち着いてレム、言ったでしょう?ここは貴方の中間地点、いわば精神世界なの、肉体は現実世界に留まっているわ」
必死になり過ぎているレムに、母は厳しくも優しく言い聞かせるように説明した。
「私はまだやらなきゃいけないことがあるの、ストロアを助けに行かなきゃ…」
「それは貴方が決めたことなのね?」
母に問いかけられ、レムはすぐに力強く頷いた。
自分で決めたこと…最初はそんなに大したことでは無いと思っていたかもしれない。
でも今は違う、とレムはあの鍵をぎゅっと握った。
たくさんの命と触れ合い、レムにしか分からないことも、レムには分からないこともたくさんあった。
自分をここまで成長させてくれた世界のために、今度は恩返しがしたいと思い始めていた。
「お母さん、私ね…世界を守るなんて英雄みたいな事は出来ないわ、それでも私には守りたい場所があるの、守りたい皆がいるの、だから…まだ安らぎに浸るのは早いと思うの」
「レム…」
娘の強い意志に何も返す言葉が無かった。
もう自分が覚えている頃の、可愛い小さな娘では無いことに、寂しさと嬉しさを感じた。
「分かったわ、貴方が決めたなら私は貴方を精一杯応援するわ」
「ありがとう、お母さん」
二人が同時に笑いあうと、レムの視界がぼやけてきた。
それが現実世界に帰る合図だと思うと、ほんの少しだけ寂しくなった。
だが母に告げた想いを胸に、精一杯母に手を振って別れた。
レムがその空間から消えると、小鳥達が母の肩に乗った。
「あの子はもう大丈夫、もう…大丈夫だね」
一層優しく微笑んだレムの母は、娘を思いながら空を見上げた。
青い空が広がるこの空間が、再び現実世界に広がってくれることを願い、再び鼻歌を歌いながら鳥達と触れ合った。
誰よりも娘の光輝く未来を願いながら…。