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舞踏会の夢 1

 離宮の人々は、満月になると猫に変化する若者に、最初は面食らい警戒していたが、やがて王女の唯一の友人として、それなりの接し方をするようになった。

 そして、離宮にひとりで閉じ込められている気の毒な王女のために、決して若者のことを外部に漏らしたりはしなかった。


 その不思議な若者のせいで、それまで無表情に近い顔つきで日々を過ごしていた王女には笑顔が豊かに現れ、その唇からは明るい笑い声が漏れた。

 剣術の稽古の時以外は、一日のほとんどを薄暗い蔵書室に閉じこもっていた王女は、太陽が沈むまで彼と一緒に中庭にいるようになった。

 二人がガガを伴って語り合う光景は、一枚の絵のようだった。その絵を垣間見ることによって、微笑ましく、あたたかい気持ちになれるような――。


 日溜りに立つエリュースには、月の光の中にいる時とはまた別の美しさがあった。

 透けるようにやわらかい光を放っていた銀の髪は、太陽の下では落ち着いた華やかさを持つ、たぐいまれな金属のようだった。彼の目は、太陽の午後の輝きを映したような黄金の色。

 侍女たちが騒ぎながら選んだ紺のトーガを身にまとい、傷ついた足の代わりに体を支える杖を持った彼は、威厳と気高さを合わせ持った魔法使いのように見える。


 エリュースはナディルに、いろいろな話をした。

 彼が訪れた様々な国のこと、人々の様子。賞金稼ぎである彼が片付けてきた、奇妙な仕事の話。

 それは蔵書室のどの本よりもおもしろく、彼の心地よい声の響きと共に、ナディルの記憶に刻まれた。


 ナディルが朝、目を覚ますと、エリュースは必ず離宮のどこかにいた。

 姿が見えなくても探してみると、澄んだ鈴の音は回廊の奥から、あるいは窓の下から聞こえ、彼の銀の髪が中庭の花々の間を移動して行くのを見つけることが出来るのだった。

 ナディルは、彼の姿を探し当てるその度ごとに安堵した。

 振り向くと彼がいるその現実が嬉しく、また不思議にも思った。

 彼がここにいるということ自体が、夢か幻のような気がする。

 彼を助けたことも、離宮に連れてきたことも、すべて満月の妖しい光が映し出した幻。

 時折そんな不安が頭をもたげて夜中に突然起き上がり、ガガにいぶかしげに睨まれたりする。

 だが、夜が明けるとエリュースは、やはり離宮のどこかにいるのだった。



「あなたは、私が怖くはないのですか?」


 ある時、エリュースはナディルに訊ねた。


「怖い? どうしてですか。最初お会いしたときに申し上げたでしょう? 怖くないって」


 思いも寄らぬ質問をされて、ナディルは戸惑う。

 そんなこと、考えたこともないのに。わかってくれていると思っていたのに。

 エリュースは、なぜそんな質問をまたするのだろう。

 ナディルは、悲しくなった。


「私は猫族の血を引いています。人間ではない部分を持っているのですよ」


「猫族は伝説だと思っていました。はるかなる昔、天からやってきて、そしてすぐにまた天に帰ってしまった、猫の姿をした人々。魔法をもたらしたのも、その人たちだと……」


 ナディルは、子供の頃に書物で読んだその話を思い返した。


「もたらしたのではありません。言わば、きっかけを与えただけです。魔法の源は、この世界。この世界を構成するすべてのもの。人間はただ、それらに呼びかける術を知らなかっただけです。猫族は上手に呼びかけ、操ることが出来ました」


 エリュースが言った。


「あなたが猫に変身するのは、先祖返りなのでしょう?」


 ナディルは訊ねる。


「そう。猫族は、短期間しか地上にはいませんでしたが、彼らの血は結構人間の中に広がりました。魔女や魔法使いは、そのほとんどが彼らの子孫だと言われています。私は、魔法は使えませんけれどね。当時、多くの国々の王たちを始め、野心を持った人々は、好んで猫族と婚姻を結んだそうです。魔法の強大な力を手に入れるためとはいえ、猫とよく結婚できたものだ。彼らは人間の姿形を取ってはいましたが、本当の姿は猫の化け物です。私が猫になったときのような……」


 エリュースは皮肉っぽく、ふっと唇をほころばせる。


「そりゃあ、自分の意思に反して猫と結婚するのは、ぞっとすることかもしれませんけど。交わるには、あまりにも異質すぎますものね。でも、愛し合っていた人たちだっていたでしょう。いえ、きっといたはずです。だから結ばれて新しい命が生まれ、あなた方が今いるのだと思います」


 ナディルは、言った。

 エリュースは、おとなしそうなこの姫君の少々大胆な言葉に驚いたようだった。

 彼は、ナディルを見下ろした。


「あなたは、たとえばご自分の夫が猫だとしたら、どうされます? その者と結婚しなければならないとしたら?」


「構いません。その人のことを好きならば。それに、アーヴァーン王家にも、猫族の血は入っています。王家に昔から伝わるルビーも、猫族から受け継がれたものだとか。ですから、あなたとは遠い遠い親戚なのかもしれませんよ。それに……あなたは化け物ではありません。猫のときのあなたも、とてもきれいだと思います」


 ナディルは答える。

 エリュースは、微笑んだ。


「あなたの目は、まるで翡翠ですね。見ている者の感情を落ち着かせ、安らぎを与えるような緑色。きれいな色だ」


 彼の黄金色の二つの目が、自分を見つめている。

 自分は、彼に真っ直ぐ見つめられている。

 ナディルはその事実に、体の表面が薄い炎で覆われたように熱くなるのを感じた。


「孤独な魂は、引かれ合う危険を孕む。私は、ここへは来るべきではなかったのかもしれない」


 エリュースが言った。


「そんな悲しいことを言わないでください。私はあなたに会えてよかったと思っているのに」


 ゆっくりと、心が動き出す。

 もう止められはしない。

 あなたは、魔法は使えないと言ったが、きっと無意識のうちに使ったのだ。

 心が彼を追いかけ始める。

 氷が解けるように静かに変化していくのが、自分でもわかる……。


 ナディルは不謹慎だと自分を戒めながら、エリュースの足が、まだずっと治らなければいいと本気で思った。

 足が治れば、彼は出て行ってしまうだろう。

 それは当たり前のこと。最初からわかっていたことだ。

 そしてナディルは、またひとり、この離宮に残される。

 今までと何一つ変わらぬ味気のない生活が、淡々と続くのだ。


 この先、あなたはどこを巡るのだろう。

 その黄水晶の目は、何を見るのか。

 何を思い、何を感じるのか。

 そして、誰を愛し、誰から愛されるのか。

 ナディルは、それが自分にはわからないことが、せつなかった。

 決して知ることの出来ない、彼の未来。

 この若者と自分の未来は、たとえわずかでも、この先交わることは永遠にないだろう。

 王女と賞金稼ぎ。あまりにも遠すぎる。あまりにも……。


 エリュースは、杖をついて歩き始める。

 ナディルは、彼の隣に並んだ。

 今はこんなに肩が触れ合うくらいに近くにいるのに。ここにいるのに。

 彼は、やがてはいなくなる。

 朝、目を覚ましても、彼の姿がどこにも見当たらない日が、必ずやってくる。

 ナディルは、目からこぼれそうになるあたたかい滴を無理やり押さえ込んだ。



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