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出会い 1

 ナディルがエリュースに初めて会ったのは、風の吹かない満月の夜だった。


 暗い澄んだ藍色の天には、月が普段よりも存在感を持って浮かび上がり、地上のものは、すべて薄い銀の膜で覆われる。

 月は中空に、異様なほど明るく輝いていた。

 空を見上げて月が視界に入ると、誰もがどきりとするほどに。

 ナディルは窓を開け、しばらく離宮の庭の風景を眺めた。

 青と黒と月の銀色。吹き溜まる光のしずく。闇にまぶされ、凍ったような花たちの影。

 静かだ。

 木々のざわめきすら聞こえない。

 月が、いつもナディルが飽きるほど眺めている景色を、似ても似つかぬ別のものに変化させてしまったかのようだった。


「散歩に行かない、ガガ?」


 ナディルは、小さな金の竜に声をかける。


「散歩? こんな時間に? またあ?」


 半分眠りかけていたガガは、けだるそうに頭を持ち上げる。


「こんな時間だから、行くの」


 腰よりも長い漆黒の髪、透き通るような白い肌。そして、一度会った者は必ず記憶に残すであろう、神秘的な翡翠の色の目。

 アーヴァーンの第一王女ナディル・リア・ジフルは、王城からは西へ遠く離れた、小さな離宮で暮らしていた。

 兵士たちに守られ、侍女たちに囲まれて離宮内で過ごす日々が、五年間続いている。


 ナディルは、おとなしく手のかからない姫君を演じてはいたが、時々月の明るい暖かい夜には、見張りの目をごまかして、離宮を抜け出した。

 森の中を抜け、離宮近くの湖まで出かける。

 しばらく湖のほとりを散歩し、あるいは岸辺で座って風に当たり、乳白色の朝靄の中を再び見つからぬよう、細心の注意を払って離宮に戻り、ベッドに潜り込む。

 ナディルにたった一つ出来る小さな冒険であり、気晴らしだった。


 ナディルは人の気配がないことを確かめ、窓に足をかけた。

 引きずるように長い寝間着をものともせず、すっかり慣れた手際のよさで、外壁に絡みついた蔦を上手に使い、地面へと降り立つ。

 窓から見下ろしているガガに手招きをすると、ガガはしぶしぶ金に輝く羽根を広げ、ふわりと空中に浮いた。

 ガガは静かに窓を閉め、ナディルの隣に着地する。


 ナディルとガガは暗やみに身を潜めながら、ナディルが数年前に偶然見つけたいつもの抜け穴を通り、いとも簡単に離宮を抜け出た。

 そしてすぐに、森の湿った草を踏む。


 湖は静まり返り、黒曜石を溶かして流し込んだかのような、深みのある闇色に染まっている。

 水面の鏡のような丸い月は、天の満月をそのまま写し取って湖の中に投げ込まれたかのように、じっと息を潜めて光を放っていた。


 うううう。


 低い、唸り声とも溜め息とも取れる声を、ナディルは聞いたような気がした。


「なに、今の?」


「あっちに何かいるよ。動物みたいだ。やわらかい毛で、体温の高い……」


 ガガが、鼻をひくつかせながら言った。


「うさぎ?」


「もっと大きい」


「猛獣? そんなの、この辺にいるわけないけど」


 ふうっ。


 あきらめたような、溜め息。


 ナディルは、灌木の茂みを分けた。

 二つの丸い月のかけらが、闇に浮かび上がる。


「わっ!」


 ガガが、後ずさった。


 灌木の影にうずくまっていたのは、一匹の大きな猫だった。

 全身を覆う毛は、月の光とよく似た色合いの銀色。

 その大きさは、ヒョウやライオンぐらいは十分にあるに違いない。


「すごくでかい猫だな。本当に猫かな?」


 ガガが、感心したように呟く。


 銀の猫は黙り込んだままガガを見つめ、それからナディルを見上げた。

 目の奥に、透き通るような金色の炎が揺らめく。

 ナディルは、猫が身動きできない状態にあることを感じた。

 足がどうかしたらしい。

 ナディルは、かがみこむ。


「猫さん、罠にかかってしまったのね」


「へっ?」


 銀の猫の右足には、猪を捕らえるための罠が、しっかりと食い込んでいた。離宮お抱えの狩人が仕掛けたものだ。


「ガガ、明かりをお願い」


 ナディルが言うと、ガガは気乗りのしない様子で上を向き、口を開けた。

 喉の奥にぽっと薄紅の小さな炎が灯り、やがて橙色の火の玉が、ガガの並んだ歯の間で燃える。

 ガガの明かりは、大猫を照らし出した。

 銀の毛は、光の中に溶けてしまいそうなくらいにやわらかく、その目は黄色の宝石だった。

 尖った耳に、ぴんとはねた髭。

 ヒョウでもライオンでもなく、やはり猫だ。


 ナディルは、猫の足をくわえこんでいた罠をはずした。

 罠のはずし方は、もちろん夜の散歩の成果で習得済みだったので、簡単なことだった。


「血だ。けがをしてる」


 ナディルの手に、赤い液体がべっとりと付く。


「手当てしなきゃ。この罠、必要以上に強力だから、深い傷かもしれない」


「手当て?」


 ガガが、火の玉を口の中で燃やしたまま、首をかしげる。


「離宮に運びましょう」


「待った! こんな大きな猫をどうやって? 引きずるのだって、ナディルの力じゃ無理だよ。むろん、ぼくの力でも!」


 ガガが、わめくように言った。


「そういえば、そうか。困ったな」


「ほうっておいて、帰ろうよ。罠をはずしてやったんだから、それで十分だよ」


「このままにしておくなんて、そんなかわいそうなこと、出来ないよ」


 その時、灰色の雲が、光り輝く月を飲み込んだ。

 地上を包む銀の膜は消え去り、闇が景色を塗り替えるように、いっせいに出現する。


「あ……」


 ナディルは、目の前の、今まで猫であったものを見つめた。

 ガガは「わあっ」と声を上げ、思わず橙と青の火柱を吹き上げる。

 銀の猫の姿は、まるで魔法の力が使われたかのように、消え失せていた。

 代わりにそこに座っていたのは、人間の若者だった。

 後ろで一つに束ねた髪は、たった今まで確かにいたはずの、あの猫の毛の色と同じ、見事な銀色だった。

 整った顔には、トパーズの二つの目。

 質素で丈夫そうな旅人の衣装をまとい、銀の猫と同じようなうずくまった姿勢で、ナディルを見上げている。

 彼の足首からは、血が流れていた。


「猫さん……よね。今、ここにいた猫さん……。あなただったの?」


 若者は、仕方なさそうに頷いた。


「私は満月の光を浴びると、猫になる」


 若者が言った。


 ナディルはその声に、心地のよい懐かしさを覚えた。

 この声を知っている。昔から。

 遠い過去から知っていたような気がする……。

 ナディルがいつか出会えるとずっと夢見ていた、そんな声だった。


「魔法でもかけられているんですか?」


 ナディルが訊ねると、若者は首を振った。


「そういう体質なのです……」


「とんでもない体質だな」


 明かり役に徹しているガガが言う。


「とにかく足の手当てをしなきゃ。一緒に来てください。さ、私につかまって」


 ナディルは、若者をゆっくりと立ち上がらせた。

 そして、彼の腕を自分の肩に回す。

 若者が胸元に付けている小さな鈴が、チリンと澄んだ音をたてた。


「歩けますか?」


「あなたは、私が恐くないのですか? 私は、化け猫と呼ばれる身なのですよ」


 若者が言う。


「べつに……。そりゃあ、不便な体質だと思いますけど」


 ナディルが答えると、若者はあきれたような表情をして、微笑んだ。


「初め、あなたのことを幽霊かと思った。でなければ、この辺の魔女か、それとも魔物……」


「そういえば、そのヒラヒラした寝間着を着ていれば、そう見えないこともないな」


 二人の先に立って飛ぶガガが、呟く。


「だが、あなたはちゃんと触れられるし、あたたかい。生きているのですね」


 若者が言った。


 ナディルは、頬に触れる彼の腕と、背中に触れる彼の胸の体温を感じた。

 あなたも、あたたかい。

 ナディルは、心の中で呟く。

 彼もまた、魔物やまやかしではなく人間であることが、ナディルは嬉しかった。変わった体質の持ち主であることにはあるのだが。


「猫さん、旅の人?」


 ナディルは、彼に訊ねた。


「そうです」


「傭兵とか?」


「たまにそういう仕事をすることもありますが、本業は賞金稼ぎです」


 きれいな人……。

 ナディルは、すぐ隣にある彼の横顔を眺めた。

 銀の髪が、ガガが灯す明かりから、チラチラと小さな星を集める。

 目は、猫になったときと同じ、黄色の透明な宝石……。


「ところで、私をどこに連れて行くおつもりですか、お嬢さん」


「離宮ですよ。アーヴァーンの王家の」


 ナディルは若者の質問に、当たり前のように軽く答える。


「離宮に……? 住んでおられるのですか? 侍女をしておられるとか、父上が離宮の衛兵とか……?」


「失礼なやつ」


 ガガが、幾分侮蔑を込めた眼差しで、ちらりと若者を振り返る。


「あんたが寄りかかっているのは、王女さまだよ」


「おうじょ……っ!」


 途端に若者は、ずっしりと重くなり、同時にその体の感触は、やわらかくなった。

 ナディルはその重みに耐え切れず、若者ごと地面にうつぶせに倒れる。


「きゃあっ」


 月が再び顔を見せ、若者は銀の猫に戻っていた。

 ナディルは、重い毛皮を背負ったような気分になる。

 その毛皮は、心地よいあたたかさを持ってはいたが。

 銀の大猫は、すまなさそうに、ナディルから離れた。


「ややこしいやつ」


 ガガが、空中から感想を述べる。


 月が雲に隠れると、銀の髪の若者が、魔法のように現れた。

 鈴がそのことを告げるように、彼の胸でリーンと鳴る。


「王女さま……ですか」


 若者は困ったような、複雑な表情をする。


「でも、アーヴァーンの王族の方々は、都の王宮に住んでおられるのでは……」


「私は、ずっと離宮に住んでいます」


 ナディルは、口を尖らせる。


「では、あなたは第一王女の……」


「そう。ナディル・リア・ジフルです」


 若者は黄水晶の目で、注意深くナディルを見つめた。


「確かナディル姫は、病弱で静養中だと聞いていましたが……。病弱ではなさそうですね」


「ここに来た頃は、体は多少弱かったけど、とうに治っています」


「なのに、あなたは離宮にいる」


「……」


 ナディルは、黙り込んだ。

 そう。実際にナディルのいるべき場所は、王宮なのだ。

 幼い頃遊んだ記憶があり、なつかしい母の思い出がある場所。父の住む、水晶の形の美しい城。

 だが、ナディルはまだここにいる。

 健康になったと言い出せぬがため、帰れと言われぬがため。

 そして何より、身の安全のために。


「まあ、いろいろ事情があるようですね」


 若者は、それ以上聞こうとはしなかった。


「ところでナディル。どうやって離宮に入るの? この人を連れて入ると、当然見咎められるよ。抜け穴を通っていくのにも、この状態じゃ時間がかかりそうだし」


「だいじょうぶ」


 ナディルは、いつも使っている秘密の抜け穴ではなく、正門の前に堂々と立った。


「開門! 開門っ!!」


 ナディルは、唖然としているガガを無視して、声を張り上げる。


「あーあ」

 と、ガガがうなだれた。


「これで当分、ナディルの夜の散歩は、ご法度だ」


「こんな夜更けに、何者だあ?」


 門番たちが顔を出した。

 眠そうな彼らの顔が、途端に豹変する。


「ナ、ナディル王女さまっ!?」


「よかった、私の顔を覚えていてくれて」


 ナディルは、にっこりと門番たちに微笑みかける。


「な、な、な……」


 門番たちは、口をぱくぱく開けた。


「ちょっと散歩してきたの」


「さ、散歩……っ」


 門番たちの手がわなわなと震え、手に持った槍も、それに合わせて音をたてる。

 彼らが守っていると固く信じていた姫君が、こともあろうに外から帰還したのだ。

 平静でいることを期待するのが酷というものだろう。


「この方は、私の命の恩人なの。けがをされているので手当てをします」


 ナディルは、門番たちに言った。


「どっちが恩人だか……」


 ガガが、ぼそっと呟く。


 門が、鈍い音をたてて開いた。

 今回のナディルの行動で、ガガの言う通り、離宮を抜け出すのは難しくなるだろう。

 警備はきびしくなり、侍女たちも、常にナディルの行き先について回るかもしれない。

 そのことを考えると少し憂鬱だったが、それよりナディルは、この猫に化ける若者を自分の住む場所に招き入れられることが嬉しかった。


「猫さん、お名前は?」


「エリュースです。でも、王女さま、本当に私のようなものを中に入れてよろしいのですか?」


 エリュースは、確かめるように、ナディルの翡翠色の目を覗き込んだ。

 ナディルは頷いて、微笑する。

 この人は、自分に何かをもたらすだろう。

 この人を離宮の中に入れることで、何かが変わっていく。そんな気がする……。

 ナディルは、小さな明かりのように灯った予感を、そっと抱きしめる――。



 アーヴァーンの離宮は、その夜から、銀の髪とトパーズの目を持つ不思議な若者を受け入れることとなった。

 三か月後、彼が自ら離宮を立ち去る日まで。


 エリュースに初めて会ったときのことは、今でも色褪せることなく、ナディルの記憶に焼き付いている。

 彼を見たときの、吸い込まれるような不思議な印象。

 猫の彼と、人間の彼。二つの姿のエリュース。

 背中を覆ったぬくもりとやわらかさ、そして重さ。

 闇の中で妖しく光る月の目と、光の中に出たときの、黄水晶の目の色。銀の髪のきらめき。鈴の澄んだ音色。

 交わした言葉の一つ一つも覚えている。


 エリュースがナディルに残したのは、たくさんのきらめくような会話。一緒に過ごした、楽しく愛おしい時間。そして、ナディルがその短い間にも大切に育むには十分だった、彼への真っ直ぐな恋心だった。

 さらには、彼が迷い、心を抑えていることが簡単にわかってしまうくらいの、彼からのナディルへの強い思い――。

 彼は、ナディルのある望みを拒否したが、ナディルは確かにそれもまた、受け取ってしまったのだ。

 だからこそ今でも、心が彼へと向かうのを封じ込めることが出来ない。

 あの時のえぐり取られたような心の痛みは、二年という時間が立とうとも、消える気配はなかった。

 二年前と同じように感じるのは、底知れぬ渇き。寝苦しい夜。

 止めている涙も、その気になれば、いつだって流すことが出来るだろう。


 もう少し時間を重ねれば、それらは単なる思い出という総称に変化するのだろうか。

 あるいは、既に色褪せつつあることに、自分が気づいていないのか。それとも、無意識に認めようとしていないだけなのか。

 どちらにせよナディルは、当分それらを撫でさすりながら、抱えていかなければならなかった。

 エリュースを見つけるまで。

 あるいは彼の記憶と存在を、痛みを感じぬくらいの遠くへ置いてしまえるようになるまで。



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