オーデルクの公子 2
「私の名は、フィリアス。オーデルクから来ました」
きれいに空になった食器を前にして、金髪の若者が言った。
「オーデルクって、アーヴァーンのお隣の国だね」
食後のミルクを飲んでいたガガが、頭を少し持ち上げて、ナディルにささやく。
「ほんの少しだけど、一応ね」
ナディルは、仕方なく呟いた。
アーヴァーンは、四つの国と隣り合っていた。
オーデルクはアーヴァーンの西隣にあり、尻尾のように伸びた領土の端が、アーヴァーンと接している。大公が治める、緑に囲まれた平和な美しい国だ。
「私の家には、代々伝わる宝冠があります。翡翠を嵌めこんだ金の冠……。花嫁になる女性が、結婚式の時に付ける冠です。だがその宝冠は、三年前に盗まれたのです」
フィリアスが言った。
落ち着いた、静かな声。煙るような紫の目が美しい。
そして、真新しい朝の光の中で、波打って輝く金の髪。
ナディルは二杯目の砂糖入りのお茶の器に手を添えながら、彼を見つめる。
この人の髪は、太陽によく映える。
エリュースの銀の髪が映えるのは、月の光の下だ。
神秘的な、あまり華美ではない、気品のある銀の色。
やわらかいその髪は、猫に変身したとき、毛の先に星々のかけらがきらめいた。
「冠の行方を調べましたが、何人かの手を次々と渡った後、カジェーラという魔女が持っていることがわかりました」
「まじょっ!」
ガガが舌をぺろりと出して、呟く。
「私は冠を取り戻さねばならないのです。そのためにオーデルクを出ました。魔女に会って交渉し、冠を持って帰ること。それが私の使命です。翡翠のナディル。あなたにそれを手伝っていただきたい」
「でも、私は魔法は使えませんよ、オーデルクの公子さま」
ナディルは、フィリアスに言った。
フィリアスは、アメジストによく似た目を大きく見開く。
「あなたは私の素性をご存知なのですか?」
ナディルは、肩をすくめた。
「だって、翡翠をはめこんだ冠があるのは、翡翠の産地のオーデルクの、それも大公家だけですから。代々の公妃さまの宝冠ですよね。大公家の方は、紫の目が特徴だって聞いたことあるし、そこの公子さまは、あなたと同じような年恰好のはず。名前までは覚えていませんけど」
「そーそ。アーヴァーンの王女さまの結婚相手としては、申し分のない家柄だもんね。やっぱりあれは、この公子さまの肖像だったってわけ」
ガガが、フィリアスに聞こえないように、小さな声で呟いた。
「はい。おっしゃる通り、私はオーデルクの公子です」
フィリアスは、ナディルたちが拍子抜けするくらいに、あっさりと認めた。
「公子さま自ら、冠を探しに?」
普通、公子さまともなれば、そういうことは臣下に任せて、宮殿の奥でただ待つだけでもいいはずなのに?
ナディルは不思議に思う。
「二十人です」
フィリアスが、ふうっと溜め息をついて言った。
「え?」
「全部で二十人、冠を取り戻すために、オーデルクの若い剣士たちをその魔女の元へ向かわせました。だが、誰一人として帰ってこなかった。私の幼なじみや友人たち、従兄たちも入っています。これ以上冠のために、親しい人々を失いたくありません。それにあの宝冠は、わが大公家に伝わる大切なものです。宝冠を付けぬ妃は正妃とは認められぬほどに。大公家の栄光と繁栄の象徴ともいうべきもの。次期大公家を担う公子ならば、自ら赴いて取り戻すのが当然です。もし取り戻せないなら、私は後継者としての資格を認めてもらえないでしょう」
「えらいっ!」
ガガが、ミルクの皿を舐めながら頷いた。
「たったお一人で? 見たところ、お連れはいませんよね?」
「そう。一人で旅立ちました。誰か腕の立つ剣士を見つけて、雇うつもりでした。で、あなたを見つけたわけです、翡翠のナディル」
フィリアスはにこりとして、ナディルを見つめる。
「私に雇われませんか? 報酬として、両手にいっぱいの上質の翡翠をあなたにお約束しましょう」
ナディルは、どん、と音をたてて、お茶の容器をテーブルの上に置いた。
「あのですね、公子さま。私は商売仲間の間じゃ、それほど腕が立つってほうじゃありません。翡翠の宝冠を取り戻しに行った人たちが一人として帰ってこなかったということは、つまりカジェーラがその人たちをどうにかしたってことでしょう? あなたは、その魔女と戦わなくてはならないかもしれないんですよ。私は魔法の心得は全然ないんです。私の名が知られているのは、私が若い娘で、珍しいからです。大人の男の人たちに比べたら、体力も腕っぷしも当然劣ります。私よりすぐれている人は、見つけるのは容易なはずです」
魔女だなんて、本当に冗談ではない。
魔法がらみの事件に巻き込まれるなんて、真っ平だ。
危ないし、時間がかかるし、ろくなことがない。
早くエリュースを追いかけないと、ますます遠ざかってしまうというのに。
ナディルは少々いらつきながら、思う。
この、きれいでお人よしそうな公子さまを、たったひとりだけにして置いて行くことに、ほんのちょっぴり気がかりを感じないこともなかったが。
「いや、あなたの腕前は、かなりなものだと思いますよ。幼い頃から、さんざん仕込まれてきたという気がする。違いますか? 魔法が使えなくても、だいじょうぶ。きっと魔女に勝てますよ」
あなたがその笑顔で言うと、本当に簡単に勝てそうだ。
ナディルは呆れながら、心の中で呟いた。
「では、フィリアス公子。宝冠とあなたの臣下の人たちを取り戻す手立てはあるのですか? あなたは魔法が使えます?」
ナディルは、公子に訊ねた。
「いや、使えませんね、まったく」
ガガが、ミルクの皿を引っくり返しそうになった。
「でも、説得します。きっとわかってくれるはずです」
フィリアスは、まぶしいくらいの笑顔で、明るく答える。
「話にならんっ……!」
ガガは、ふいっと横を向いた。
「カジェーラは、元々人間に対して、非友好的な魔女ではありません。自分からは、人間の前に姿を現すことはしませんが、訪ねて行った人間たちには極めて親切だったと聞きます。占いをしたり、病気を治したりね。ただ、宝石を集めるのが趣味で、そのために一部の人間からは恨みを買っているようです。私の臣下たちは、彼女を怒らせるようなことを何かしたのかもしれませんね。だとしたら、謝って許してもらわねば」
フィリアスが言った。
「二十人が、二十人ともですか?」
「カジェーラがどうしても冠を返してくれないから、輪になって座り込みでもやってるんじゃないの?」
と、ガガ。
「そうかもしれませんね」
フィリアスが真面目に答えたので、ガガはおもしろくなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「その二十人は、魔法をかけられているとか、どこかに閉じ込められているとか……では?」
フィリアスは、ナディルに頷いた。
「それも考えられますね。でも、ここ最近、カジェーラの城に行ったまま、帰ってこなかった人たちは、私の臣下以外にもたくさんいるらしいのです」
「魔女は気まぐれだからね。人間に対する方針を転換したのかも」
ガガが呟く。
ナディルは、紫の目の麗しきオーデルクの公子に向かって言った。
「公子さま。残念ながら、私はあなたのお手伝いは出来ません。私は人を探しているんです。もちろんご存知でしょうけど」
「化け猫エリュースですか」
「そうです。私が旅をしている第一の目的は、彼を探すこと。だから、たとえお金になったとしても、ややこしい仕事や長引く仕事は引き受けません。魔法がらみは、特にね。この仕事を始めた頃は、手当たり次第にやってましたけど、今は選べるようになりました。それに、あなたに持ってきていただいた賞金のおかげで、当分仕事をしなくても旅を続けられそうですし」
「その、エリュースですがね、ナディル」
フィリアスは、軽く片手で頬杖をついた。
「エリュースは、カジェーラの城にいるかもしれないのですよ」
「え……っ」
ナディルは、凍り付く。
「それは、どういう……」
「彼は、北に向かいました。カジェーラの城をめざしてね。彼はドーレンの貴族から、ある首飾りの捜索を依頼されたそうです。その首飾りも、カジェーラが持っているとか」
「では、エリュースは……」
ナディルは、胸に当てた手をぎゅっと握りしめる。
「彼が無事に首飾りを手に入れて、カジェーラの城を出ることが出来たのかどうかはわかりません。だが、私の臣下たちが彼女に捕らえられているならば、エリュース殿も同じ目に遭っている可能性がある」
「エリュースは、魔女に捕まるようなヘマはしない」
ナディルは、フィリアスの言葉に被せるようにして、呟いた。
「でも、あの人は、イノシシの罠にかかるようなヘマはしたよ」
ガガは言って、ルビーの目でナディルを流し見る。
「そういえば、そうだけど……」
「じゃあ、決まりですね、翡翠のナディル。私としても、やはり旅の道連れは、むくつけき男よりも、あなたのようなかわいい娘さんがいいですしね」
フィリアス公子が微笑む。
「どうするの、ナディル? オーデルクの公子さまなんて、あまり関わらないほうがいいに決まってるよ。それに、カジェーラの城にエリュースが確実にいるかどうかはわからない。出て行った後かもしれない」
ガガが言う。
エリュース……。
ナディルは、心の中で彼の名を呼んだ。
その名を呼ぶ度に気持ちが沈み込む。体の表面が氷の膜に包まれるようだ。
あなたはいるの? その城に?
もしいるのなら、私は行かなければならない。
あなたをずっと探してきたのだから。
私はもう一度、あなたに手を伸ばす。もう一度だけ……。
ナディルは、唇を噛んだ。
体が震えている。
何を恐れているのだろう。
彼に……やっと彼に会えるかもしれないというのに。
そのために、こうして旅を続けているというのに。何をいまさら。
ナディルは、彼に会うことをためらっている自分を遠くへ押しやる。
そして少し黙り込んだ後、フィリアスに言った。
「わかりました。たとえ彼がそこにいなくても、彼がその城をめざしたことが事実なら。エリュースの消息がかけらでもわかる可能性があるのなら、お供いたしましょう」
「ありがとう」
フィリアスの顔が、願い事がかなえられた子供のように、嬉しそうに輝く。
ナディルは、フィリアスが差し出した手を握り返した。
日焼けのしていない、白いやわらかい華奢な手。
あたたかかったが、エリュースの体温には届かない。
「では、これは手付金です」
フィリアスは、テーブルにコトリと音をたてて、緑色の石を置いた。
「翡翠のナディル。名前の通り、あなたには翡翠がよく似合う」
「どうも」
ナディルはそっけなく答え、宝石をつまみあげた。
深い湖の神秘的な緑。心が落ち着く、静かな緑色だ。
「確かに」
「それから、あなた用の馬も、ついでに町で買っておきました」
「用意周到だな」
と、ガガが冷ややかに言う。
「ナディル。あなたには、いつかどこかでお目にかかりませんでしたか? あなたのその、翡翠と同じ珍しい色の目には、見覚えがあるような気が。あれは、どこだったか……」
フィリアスは額に手を当てて、考え込んだ。
「公子さま。あなたの目も、アメジストみたいな紫色で変わっておられますけど、私には記憶はありません」
ナディルは、彼がアーヴァーンのナディル王女のことを思い出さないうちに、急いで言った。
「あなたは賞金稼ぎなどしておられるが、本当はどこかの貴族の姫君なのではないのですか?」
フィリアスが訊ねる。
「なぜ、そうお思いです?」
ナディルはフィリアスを見据えた。
「いや。なんとなく、そうじゃないかと感じたまでです」
「オーデルクの公子さまには、一切関係のないことです」
ナディルは、外気にさらされた翡翠の表面温度よりも冷たく答える。
「エリュースというのは、あなたの恋人なのですね」
「それも、あなたには関係のないことです」
ナディルは、さらに輪をかけた冷たさで言った。
ガガは、口を少し開け、尖った見事な歯を剥き出して見せる。
それが彼なりの、にやりと笑った顔だった。
その後、オーデルクのフィリアス公子は、翡翠のナディルの部屋から丁重に追い出され、彼女の用意が整うまで『砂漠に眠る緑の羽根生え猫』の門の前で、じっと待つはめになったのだった。