オーデルクの公子 1
月が輝きを失って薄青くなった空に溶け込み、その代わりに、まばゆい朝の太陽が天のドームをゆっくりと昇る。
ナディルは目を開け、四角い窓の形に切り取られた明るい白銀色の空を、ぼんやりと眺めた。
ほのかに漂う薬草の香りが、心地よい。
今しがたまで夢の中で一緒に過ごした銀の髪の若者の姿を、ナディルは何度も思い返した。
彼……エリュースの夢を、また見てしまった。
ナディルは翡翠色の目を宙に漂わせ、深く息を吸う。
本当は、彼が夢に登場することを待ち望んでいた。
毎晩そのことをそっと願って、眠りに就く。
現実の世界で会えないのなら、せめて夢の中ででもいい。彼に会いたい。
この目で見ることの出来ない彼の顔を見て、この手で触れることのかなわぬ彼に触れたい。
けれども夢から覚め、それが夢であるとわかった途端、気の遠くなるような悲しみが、影のようにナディルの体を覆い尽くすのだった。
夢の中では、隣にいて微笑んでくれていた彼は、現実にはここにはいないのだ。
どんなに手を伸ばし、探し回っても、見つけることは出来ない。
そのことが、明るすぎる太陽の光でよけいに気づいてしまう朝。いやというほどわかる、きれいな朝だ。
ナディルは、両手をかざした。
エリュースと手を繋いでいた。
あれは、舞踏会だった。猫の仮面を付け、正装していた彼。
彼と踊ったあの短い時間の、夢の中での虚しい再現だった。
まだ彼の手のあたたかい感触が残っている。不思議なくらいに、はっきりと。
彼の黄色い目の色も、銀色に輝く髪も、鮮やかすぎるほどに覚えている。あれが夢だなんて……。
彼の微笑み、自分を呼ぶやさしい声。
全部、頭の中での出来事なのだ。記憶と意識が作り出した物語。
いっそ、夢が永遠に覚めなければいい。たとえ夢の中でも、エリュースといられるのなら。
ナディルは、半ば本気でそう思う。
目をこすると、手のひらが湿った。
ナディルは、それを頬に撫で付ける。
泣いてはいけない。決めたのだから。彼に会うまでは、絶対に泣かないと。
泣いていたのは、長い髪をし王女の衣装をまとったナディル。
二年も前のことだ。『翡翠のナディル』は、泣かない。
夢を見ようと見まいと、彼のいない一日は再び始まる。
行き場のない心を抱えて、また一日を過ごさなければならない。
そうだ。あの二人組を連れて行って、引き渡さなくては。
ナディルは思い出して、憂鬱になった。
夢の世界は薄れ、直面すべき現実が押し寄せてくる。
昨日通った町に逆戻りしなければいけない。確かベルタイトとかいう町だ。
だが、どうやって運んだものか。
大きな図体の男が二人。当然、馬がいる。
丈夫な馬を一頭買って、あの二人を乗せて引いて行こう。ちょっと馬が気の毒だが。
何と面倒なことか。
時間の無駄だ。懸賞金が入るのは、嬉しいとはいえ……。
ナディルはベッドから体を起こし、髪をかき上げた。
ガガは、ナディルの足元で丸くなって眠っている。
ナディルは、ガガの頭をそっと撫でた。
朝の冷気を含んだひんやりとした感触が、金の鱗から伝わってくる。
「あなたはいつも、私のそばにいてくれるんだね。ありがとう」
ガガは、耳をぴくりと動かした。
ナディルは微笑んで、そっとベッドから離れる。
顔を洗い、服を着替えたナディルは、部屋の扉を開けた。
そして、廊下を覗き込む。
「あれ……?」
廊下には、ナディルが置きっぱなしにしておいたものはなかった。
掃除の行き届いた清潔な空間に、旅人たちの出立の緊張感が、朝の空気と共にかすかに漂っているだけだ。
あの人さらいの二人組の姿はおろか、サラマンサのロープの端くれさえ見当たらない。
「逃げたのかな。でも、変だな。彼らがロープを自分ではずせるわけないし。あれをはずせる人が、そのへんにごろごろいるとは思えない」
自分の判断は、間違っていたのだろうか。
いつも張り詰めるようにして抱いている自信が、ほんの少し揺らいだ。
「どうしたの、ナディル」
ガガが眠そうな目をしばたたかせて、ナディルのそばにパタパタと飛んでくる。
「あれま……」
ガガは廊下を眺め、溜め息をついた。
「あいつら……。やっぱり、部屋の中に入れておいたほうがよかったんじゃないの」
「冗談じゃない。あの人たちと同じ空気を吸いながら眠るなんて!」
ナディルは、思いきり顔をしかめて見せる。
「でも、これで懸賞金はパアで、当分安宿、もしくは野宿かな。あーあ」
ガガは、欠伸をしながら言った。
「仕方ないよ。もともと想定外の出来事だったもの」
その時、廊下に人影が現れた。
ナディルとガガは、緑の目と赤い目を、その人物に同時に向ける。
あの金髪、アメジストの目の若者だった。
ナディルにエリュースの情報を提供し、ナディルを心配しながらも立ち回りを見物していた、どこかおっとりとした、人のよさそうなあの美青年。
「やあ、おはよう、翡翠のナディル」
若者が笑って、軽く会釈する。
悪党二人組の姿が消えていることなど、気にも留めていない様子だった。
「また、こいつかよ」
ガガは、ぼそりと呟いた。
「竜くんも、おはよう」
若者は、ガガにも挨拶をする。
「ぼくには、ガガっていう名前がある」
ガガは、不満そうに言った。
「ガガ。素敵な名前だね」
若者は、無謀にもガガの頭を撫でようとしたが、ガガが口をぱかりと開けたので、思わず手を引っ込めた。
彼は気を取り直して、ナディルの目をじっと覗き込む。
「翡翠のナディル。本当にあなたの目は、翡翠のように……」
「で? 何か御用ですか?」
ナディルは、頭ひとつ分以上背の高いその若者のセリフを遮った。
この人、エリュースと同じくらいの背丈だ。同じ角度で見上げねばならない。
いつも胸に抱きしめている記憶のかけらが、ナディルに教えた。
「これを届けに来たのです」
金の髪の若者は、小さな皮袋を差し出した。
「はい、どうぞ、翡翠のナディル」
「え……?」
袋は、ナディルの右の手のひらに、ずしりとした重みと共に乗せられた。
その中に金貨が詰まっているのが、袋の口から見える。
「それから、これもね」
若者は、呆気に取られているナディルの左手を取り、赤く輝く宝石を握らせた。
「ルビーです。ガガくんにちなんで、これにしました」
「あのう……?」
「懸賞金ですよ、あの二人組の」
若者が、にっこりと屈託のない笑みを浮かべて、言った。
ナディルとガガは、顔を見合わせる。
「あの二人、あなたが?」
「そう。夜明け少し前に馬に乗せて、ベルタイトの町まで運びました。『翡翠のナディル』の使者としてね。懸賞金は、持ち運びに支障をきたさない程度は金貨にして、残りはルビーにしてもらいました。それから、これもお返ししなければね」
彼は、きちんと輪にしてまとめた薄緑のロープをナディルに差し出す。
それは、ナディルがあの二人組を縛ったサラマンサのロープだった。
それが自分のものであることをさっと確認したあと、ナディルは若者を見上げた。
「……では、あなたはこのロープを使えるわけですね。これの使い方を知っているのは、身分が非常に高い方の関係者か大金持ち。するとあなたは、そういう……?」
「あなたがロープをお持ちになっている理由は知りませんが、私の場合も、もしかしたら、あなたと似ているのかもしれませんね」
若者が言った。
「でも、まさか、ロープの使い方を知っているからって、親切心で早起きして、わざわざベルタイトまで、あのお尋ね者たちを運んで、おまけに懸賞金まで届けに戻ったわけじゃないでしょう?」
「あなたの手間を省いてさしあげたかったのですよ。あなたは逆戻りなどせずに、一刻も早くエリュースとやらの後を追いかけたいはずですし」
『エリュース』という名前が出た途端、ナディルの目が釣り上がる。
なぜこんな見も知らぬ人に、彼の名前を気安く口にされなければならないの。
翡翠色の目がそう告げているのが、ガガにはよくわかった。
ガガは喉の奥で、炎を噴き出す準備をひそかに始める。
「実は、あなたを雇いたいのです」
若者が、それまでの微笑みを直ちに消し、真面目な顔をして言った。
「それが一番の目的ですね」
「……」
ナディルは眉を寄せ、若者を眺めた。
笑みを消し去った若者には、ぴんと張り詰めたような緊張感が漂っている。
加えて、微笑みで分散されてつかみどころのなかった雰囲気が、輝くような気品と風格として作り直され、若者をしっかりと取り巻いた。
どこかの下級貴族の道楽息子や大金持ちの遊び人、などといったたぐいの人物ではなさそうだ。
「おはようございますっ!」
昨夕ナディルの食事を運んで来た給仕の少年が、両手に料理を盛り付けた大きな盆を抱えて、廊下を歩いて来る。その後ろには、彼よりも年下の別の少年が、これも大きな盆を持って続いていた。
「朝食をお持ちしましたっ!」
頬を紅潮させた少年が、昨夕よりも明るく声を上げた。
二人の盆には、数種類のみずみずしい果物、野菜を軽く炒めた料理や黄色が鮮やかな玉子料理、熱いお茶、香ばしく焼かれたパン、蜂蜜でまぶされた甘そうな菓子などが、見た目も美しく乗せられている。
「私、頼んでないよ。朝はいつも、自前のお砂糖入りのお茶だけだもの」
ナディルが言うと、少年は金髪の若者の方に会釈して、にこっと笑う。
「こちらの方からです」
「は……?」
若者は、子供のような無邪気な笑顔で、ナディルに頷いて見せた。
「朝はちゃんと食べないと元気が出ませんよ。ご一緒にどうですか? 朝食は三人分頼んでおきましたから。食事の後、私の話を聞いてください、翡翠のナディル。もちろん、ガガくんもね」
若者は、少年たちを勝手にナディルの部屋に招き入れる。
「ああ、そのテーブルの上に置いてくれたまえ。そうそう。うん、なかなかおいしそうだ」
彼は料理を盆から一切れつまみあげ、口に放り込んだ。そして満足そうに頷く。
「美味だ。さ、いただきましょうか、ナディル、ガガくん。あ、お茶はそこにね。椅子も整えてくれるかな」
「……信じられない」
ナディルは、少年たちに細かく指図する若者を眺めながら、小さく呟いた。
「向こうから、わざわざお近づきになってくるじゃないか」
ガガが、ちらっとナディルを見上げる。
「ほらほら、二人とも。早くいただかないと、冷めてしまいますよ」
若者が、朝の景色にふさわしい爽やかさで、にっこりと微笑んだ。
ナディルは、深い深い溜め息をついた。