侵入 1
澄んだ藍錆色の天を欠けた月がゆっくりと巡り、星々もその銀の星座ごと位置を変える。
『砂漠に眠る緑の羽根生え猫』は、静寂に包まれていた。
次第に終わりを迎えつつある夜の沈黙の中、旅人たちは、約束された安息と心地よい眠りに身を浸す。
けれども、緑の建物の中を、そろそろと動く影が二つあった。
一つの影は、たたんだ大きな布の袋を抱え、もう一つは、両手に持ったロープをもてあそびながら、廊下を進む。
先程ナディルを値踏みするように眺めていた、二人組の男たちだった。
飴色の髪をした、眉の薄い背の高い男。そして、残り少なくなった髪をなごり惜しげに集めて束ねた、小太りの背の低い男。
彼らは薄笑いを口元に浮かべ、楽しくてならないという様子で頷き合った。それから、ナディルの部屋の前で立ち止まる。
鍵をかけていたはずの扉は、男たちが素早く手を動かすだけで、魔法をかけられたように簡単に開いた。
部屋には明かりが灯され、狭い空間は隅々まで、あたたかい橙色に染められている。平和で静かな客室だった。
中央のベッドから、軽い寝息が聞こえる。
侵入者のことなど何も知らずに眠り続ける、あの美しい少女のものだ。
二人組は細心の注意を払いながら、ベッドに近づいた。
ベッドの毛布の膨らみが、呼吸に合わせて微かに上下する。
よく眠っている。
だが、その眠りも、もう終わりだ。
自分の容姿も年齢も考えず、浅はかにもたったひとりで旅に出て、我々に出会ったのが身の不幸。運が悪いというものだ。
たとえ我々に出会わなくとも、この美少女は、早かれ遅かれ誰かに同じことをされる運命だったのだ。
男たちは布袋の口を広げ、手に持ったロープをぴんと張る。そして、今夜の獲物を覆っていた毛布をさっとはがした。
狙っていた獲物に布袋をかぶせ、ロープでくくりつける……はずだった二人組は、その行動を実際にすることは出来なかった。
毛布の下には少女の姿はなく、代わりに金の鱗の竜が、膨らみをもたせるために入れられた枕の上で、長々と体を伸ばしていたのだ。
「何すんだよ!」
竜は頭を上げ、不機嫌そうに振り返った。
それから背ビレを逆立てて、赤く燃える炎のような目で、ぎろりと二人組を睨みつける。
少女がベッドにいないこと、その場所に竜がいたこと、そしてその竜が喋ったことに驚く二人組の首筋に、背後から冷たい金属が押し当てられた。
「すみませんが、安眠妨害なんですけど? その前に、人のお部屋に勝手に入ってきちゃ駄目でしょう」
ナディルは、飴色の髪の男に細剣を突きつけ、小太りの男には左手で握った短剣をあてがって、眠そうに呟いた。
しかし、その翡翠の目は釣り上がり、狩りをする猫科の動物のように隙はない。
「う……」
飴色の髪の男は、布袋で隠した右手を、そろそろと腰の剣に伸ばした。
指の先が剣に届いた瞬間、男は素早く剣を引き抜き、振り向きざまにナディルに切りつける。
男の剣が、橙色の空間の中で、不気味に閃いた。
「このガキ!」
ナディルは表情一つ変えず、小太りの男の束ねた髪をぐいっと引っ張り、思いきり足を払った。さらにその肩を踏み台にして、飛び上がる。
ナディルめがけて振り下ろされたもう一人の男の剣は、もんどり打って倒れる相棒の頭をかすめ、弧を描いた。
小太りの男が床に尻餅をつくと、その真ん前に、ぱさりと彼の髪が落ちる。
「お、俺の大切な髪をっ!」
切り落とされた髪をつかんで、彼は悲鳴に近い声で叫んだ。
「そんなことより、さっさとそのアマを捕まえろ!」
飴色の髪の男は相棒に叫び、再びナディルに襲いかかった。
ナディルは身をかがめて銀のきらめきを避け、男が剣を振り切った瞬間、男の手をめがけて蹴りを入れた。
剣が宙を飛び、カラカラという音をたてて床に転がる。
「安眠妨害だって言ってるじゃないですか。騒いだら他の部屋の人にも迷惑ですよ」
ナディルは、今度は真正面から飴色の男の喉に剣をあてがった。剣の下から血が一筋流れ出す。
「動くともっとたくさん、首に赤い色が増えますが?」
「う……」
飴色の髪の男は短くうめいて、助けを求めるように相棒を見る。
だが、彼の親愛なる友人の頭には、金の鱗の竜がしっかりと張り付いていた。
「こちらへ。言うことをきかないと、その竜が火を噴く。そうなったら、頭が丸焼けになっただけじゃすまないと思いますよ」
ナディルが小太りの男に言うと、金の竜は、天井に向かって口を開いた。
ぼううっという濁音と共に、赤と黄色の派手な炎が噴き出される。
炎が収まると、次に竜は小太りの男の顔に向かって、ぱかりと口を開けた。
男は、硫黄の匂いが漂う竜の口に震え上がる。
竜は楽しんでいるように、ピンク色の舌をちろちろと動かして見せた。
「そうそう。いい子ね」
ナディルは、二人の背中を合わせ、反対向きに並ばせる。
それから、腰に下げていた薄緑のロープを取り、彼らに向かってふわりと投げた。
ロープはまるで生きているかのように、ひとりでにぐるぐると回り、二人組を締め付ける。
「私を無傷で捕まえようとして、手加減したのが悪かったね。顔に傷でも付けちゃ、値打ちが下がるって思ったのかな」
ナディルは肩にガガを乗せ、腰に手を当てて、二人の侵入者を見下ろした。
「あなたたちの手配書、きょう通った町で見たよ。確か若い女の子をさらっては売り払うという、悪党二人組。そうだよね?」
「割といい値の懸賞金が付いていたから、これから当分、高級な宿に泊まれるね」
ガガが、嬉しそうに言った。
「よりにもよって、『翡翠のナディル』に手を出そうとしたのが、運のつきですね」
その時、そこにいる三人と一匹以外の声が、割って入った。
夕方言葉を交わした、あの金髪にアメジストの目の若者が、腕組みをして扉にもたれている。
ナディルは眉をしかめ、ガガは首を傾けて、その若者を眺めた。
「げっ、ヒスイのナディル……」
小太りの男が呟いた。飴色の髪の男は、けげんそうな顔をする。
「何であなたがここにいるんですか?」
ナディルは、若者に訊ねた。
「この二人があなたに何かしそうだったから、見張っていたのです」
「それは、どーも。ご苦労様なことで」
ガガが、めんどうくさそうに、一応お礼を述べる。
「ありがとう。でも、これくらいの事態を切り抜けられないようでは、とても女ひとりで旅は出来ません。こういうの初めてじゃありませんから」
ナディルの素っ気ない態度を気にする様子もなく、若者は人懐こい笑みを顔に広げた。
「まあ、『翡翠のナディル』がそう簡単に誘拐されるわけはないとは思いましたがね。あなたの立ち回りも見たかったし。いや、たいへん素敵でした。あんなに軽やかで素早く動ける方は、とても貴重です」
「当然だ」
ガガは言って、天井を向く。
「で、この人たちの処遇は?」
若者が、人さらい二人組を指差した。
「明日の朝、手配書を出していた町へ引き渡します。不幸な娘さんが増えないように」
ナディルは答える。
「また翡翠のナディルの名が上がりますね。でも、明日の朝まで彼らをどうするんですか? まだ夜も明けてはいませんが」
「廊下で転がっていてもらいます。私はまた寝なければならないので。朝までゆっくりね」
飴色の髪の人さらいが、ふんと小馬鹿にしたように、鼻を鳴らした。
「翡翠のナディルだか何だか知らないが、お嬢ちゃん。我々がこんなちゃちな草の蔓で編んだ紐で、いつまでもおとなしく縛られているとでも思っているのかい? お嬢ちゃんが目の覚める頃には、この紐だけを残して、我々悪党二人組のおじさんたちは、影も形もないよ。お嬢ちゃんの手の届かない安全なところで、のんびりと昼寝でもしてるだろうよ」
「甘いね、悪党のおじさん」
ナディルは、翡翠色の冷たく無表情な目で、彼を見下ろした。
「あなたたちを縛っているのは、サラマンサの草で編んだロープだよ。そのロープで縛られた者は、体がしびれて眠ってしまう。ほら、あなたのお友達は、もう夢の中だ」
「なにっ」
彼は振り向き、相棒が首をがくんと垂れ、すやすやと子供のように寝入っているのを発見する。
「目が覚めたときは、たぶん檻の中だ。安心してお眠りなさい。おやすみ、人さらいのおじさん」
ナディルは、口元だけをゆるめて、ふっと笑う。
「このガキ……!」
飴色の髪の人さらいは暴れようとしたが、やがてその顔からも肩からも力が抜け、相棒と同じようにがくりと頭を倒し、すぐに動かなくなった。
ナディルは、男二人をずるずると引きずって、廊下に放り出した。
「重いんだから、もう」
手伝おうとして拒否された若者は、腕組みをしたまま、紫色の目でナディルを眺める。
「サラマンサの草は手に入りにくく、高価なはず。それで作ったロープを持つことを許されるのは、王室付きの魔法使いや神官兵の長、位の高い近衛兵、それとも、武器を収集するのが趣味のよほどの大富豪。あなたは、いったい……」
「悪徳商人や、どこかの落ちぶれた元貴族だって持ってましたよ。そんなに珍しいものではないです」
ナディルは微笑んで答え、客を見送る主人のように、開いた扉のそばに立った。
「さ。あなたも出て行ってくれますか? 心配してくれてありがとう。でも、もう終わりましたから。私はこれから眠ります」
「翡翠のナディル。本当にこの二人、こうやって置いておくおつもりですか?」
若者は、信じられないという顔をして訊ねる。
「持って行く人もいないでしょう。ここのお客も働いている人たちも、こういうことには関わり合いにはなりたくないはずですしね。第一、このロープをはずせる人は、そうそういないもの」
ナディルは、若者を無理やり部屋の外に押し出した。
「おやすみなさい」
儀礼的にそう言い残して扉を閉め、鍵をかける。
まだ呆気に取られている若者の顔が、扉の向こうに消え去った。
「あ。やっと寝られる……」
ナディルは、ベッドに潜り込んだ。
「……ったく。ナディルは、いつもほったらかしなんだから」
ガガはぶつぶつ文句を言いながら、床に転がった剣を片付け、位置の変わった調度品をきちんと直した。それから、ナディルの足元に丸くなる。
その時にはナディルは、たたいてもひねっても起きないほどに、深い眠りへと落ちていた。