翡翠の姫君と銀の猫 2
『砂漠に眠る緑の羽根生え猫』は、いつ訪れても旅人たちを同じように迎える、心地の良い宿だった。
庭にひしめき合うように茂る常緑樹、その緑を薄めて塗ったような外壁、ほのかに漂う薬草の香り。
今宵も宿の主人はむっつりとカウンターに座り、その周囲のテーブルには客たちが陣取る。
客たちは思い思いに食事や酒を注文し、静かにそれぞれの時間を過ごしていた。
『翡翠のナディル』は頭に生きた竜を乗せ、いつもと同じように、宿の主人の前に金貨を積み上げる。この宿を利用するのは、四度目くらいだった。
「翡翠のナディルさんというのは、あなたですか?」
相変わらずでっぷりと太った主人が、訊ねた。
「何か?」
いきなり名前を言われて、ナディルは眉を寄せる。
ここに泊まるときは、名前を明かす必要は、もちろんなかった。
主人に自分の名前を口にされるのは、初めてのことだ。
ガガもびっくりしたのか、背ビレがぴんと起き上がった。
透明なヒレが広がって、ナディルの生きた兜は、さらに豪華さを増す。
「あなたを探しておられる方が……。ほら、あの方です」
主人は、ガガの様子を気にかけながら、ナディルの背後を指差した。
ナディルより先に、ガガが主人の指差した方向を素早く振り返る。
その透明なルビーの目が、大きく見開かれた。
「ナディル、あの人……」
「え?」
ナディルは、振り向いた。
数ヶ月前フィリアスが座っていた席に、若者がひとり、フィリアスよりは行儀悪く腰掛けていた。
彼は頬杖をついて、気だるそうにナディルに手を振っている。
栗色の髪と、夏の空を思わせる明るい青の目。
「レオン……!!」
「この間、ゼノアの町で一緒に話してた人だよね」
ガガが呟く。
「確か賞金稼ぎ仲間だっけ。なーんだ、緊張して損した」
ガガの背ビレは、たちまち力を失って寝てしまった。
ナディルは、レオンの隣に座った。
テーブルの上には、豪華な料理と高級な酒が、所狭しと並べられている。
「翡翠のナディル。いや、ナディル王女さま。指輪は確かに渡したよ。デュプリー公爵に」
酔いで顔を赤くしたレオンが言った。
「ありがとう。ご苦労様でした。報酬はもらえた?」
「うん。たっぷり」
レオンは、片目をつぶって見せる。
「あの爺さん、気前がいいな。好きだよ。おかげで今夜もこんなに贅沢が出来ている」
それからレオンは、少し真面目な顔をする。
「ところで、ナディル。『化け猫エリュース』って知ってる?」
「……」
ナディルの体は、一瞬のうちに凍りついたようになる。
オーデルクを出て以来、エリュースの消息は聞かなかった。
彼の名を誰かの口から聞くのは、あれ以来初めてだ。
しかも再会したレオンから、いきなりその名が出るとは――。
「エリュース……。賞金稼ぎだよね。私たちと一緒の生業だ」
ナディルは、しばらく言葉を選ぶのに迷い、結局そう言った。
レオンは何を話そうとしているのか?
エリュースに関する何を……?
「そ。かなりの腕のね。なぜか『化け猫』なんて呼ばれてるけど、相当の美形だよ」
ナディルと深い関わりがあったとは露知らず、レオンは能天気に続けた。
「彼が、何か?」
ナディルは、首筋に接するガガの尻尾を一際冷たく感じた。
耳と頬が熱い。
レオンに訝しがられてはならないというのに。
「アーヴァーンのナディル王女は、オーデルクのフィリアス公子と行動を共にした後、また行方不明だ。それで、今度は国王が賞金稼ぎたちに泣きついたってわけ。国王、つまり、むろんあんたのお父上だね。相当あんたのことを心配してるみたいだよ。で、選ばれたのが化け猫エリュース。デュプリー公爵が指名したんだ。内密のことだよ。ぼくは、デュプリー公爵から聞いた。あれから彼は、ときどき仕事をくれるんだ」
何気なく、世間話でもしているかのように動くレオンの唇が、ナディルには妙にゆっくりと見えた。
「なんてこった……」
ガガが呟く。
「エリュースは……引き受けたの?」
ナディルは、レオンの空色の目を覗き込む。
眩しいくらいに明るい色だった。
「いや、断ったよ」
レオンの答えに、ガガが溜め息をついた。
「でしょうね。彼は当然、断るよ」
ナディルは、ふっと微笑んだ。
何を期待していたのだろう。
レオンが口にした答えは、当たり前のことではないか。
ナディルは、ひそやかに自嘲する。
「ちょっと違うかな。報酬と……それから、一族の再興だっけ。国王はその二つを提示した。あの人、実はアーヴァーンの侯爵家の人らしいよ。ナディル、知ってるんじゃないの?」
ちらりとナディルの顔を見て、レオンは続ける。
「でもエリュースは、そういうものはいらないって辞退したんだ。賞金稼ぎとしてではなく、そんでもって侯爵としてではなく、自分のためにナディル王女を探すってね。彼は、そう言ったらしい」
「えっ」
ガガが、ナディルの頭の上で、金で出来た彫像のように固まった。
「私を探すって……? エリュースが、そう?」
ナディルは、かすれそうになる声を絞り出す。
「自分のためってどういうことだろ? デュプリー公爵に聞いたけど、教えてくれなかったよ。にやにや笑うばかりでさ。ナディルとエリュースって、どういう間柄?」
レオンが訊ねる。
「自分の幸せのために、だろ。そういうことさ」
ガガが言った。
「そんなはずない。だって……だって、エリュースが鏡の中に映したのは……」
ナディルは、うつむいた。
彼が鏡に映したのは、自分が死んだ姿だ。
棺の中で花に覆われ、息絶えたナディル王女。
それは彼の望み。願い。
自分はもう、彼の心の中ではそういう存在だという意味――。
「きっと誤解だよ、ナディル。エリュースはナディルのことを思ってる。間違いないよ!」
ガガが叫ぶように言った。
「へ?」
いきなり話についていけなくなったレオンが、ナディルとガガを交互に何度も見比べる。
「彼は気が付いたんだよ、自分の気持ちに。呆れるくらいに遅いけどね。そして、やーっと行動に移したわけなんだ」
「そう……なの? だけど、そんな……」
「そうに決まってるさ。でなきゃ、エリュースは自分のために探すなんて言わないし、デュプリーの爺さんがにやついたりするもんか。あの人、人前では滅多に笑わないんだぜ」
「でも……でも……」
「そうだってば。永年のぼくの経験でも間違いないね。間違ってたら、アーヴァーン王家のルビーになってやってもいいよ」
ガガが胸を張った。
「そんなことって……」
どこかでけたたましい笑い声が起こる。
苦しげで、けれども爽快で、とても明るい笑い声だった。
その声を自分が出していることに気が付いて、ナディルはさらにあきれ、可笑しくなった。
二年間の悲しみも涙も眠れない夜も、すべて飴のように溶け、笑いに変換されて途切れなくこみ上げてくる。
ずっと胸に抱き続けた思い。それは、ちょっとやそっとでは出し尽くされるものではなかった。
ナディルは、周囲の客たちの注目を集めるくらいに、大声で笑い続けた。
「あのー……」
レオンが助けを求めるように、ナディルの頭の上のガガを見る。
ガガは肩をすくめた。
ガガ自身も、ナディルがこんなふうに笑うところは見たことがなかった。
ナディルとは長い付き合いだったが、初めてかもしれない。
「ナディル、何か悪いもの食った?」
レオンが心配そうに言う。
「ごめんなさい。でも、止まらなくて……。ね、レオン。ナディル王女が翡翠のナディルだってこと、エリュースは知ってるの?」
ナディルは、レオンに訊ねた。
「知らないと思うよ。少なくとも、ごく最近までは。この間、賞金稼ぎたちの間であんたのことが話題になってさ。その場にエリュースもいて、『翡翠のナディル』とぜひ一度お手合わせ願いたいものだね、とか何とか、のんびりと言ってたよ。でも今頃、とうに気づいてるかもしれない。『化け猫エリュース』が本気を出して調べりゃ、簡単にわかるだろうしね。そういえば、この前デュプリー侯爵とエリュースが、一緒にどこかに出かけたらしい。あんた絡みのことだと思う。ナディル、気をつけないとアーヴァーンに連れ戻されるよ。帰りたくないんでしょう? 誰かを探してるんだっけ?」
レオンが、再び真面目な顔をして言った。
「そうだね。ようく気をつけるよ。ありがとう、レオン。あなたとここで会えて、本当によかった」
幾分収まってきた笑いを押さえつけながら、ナディルはレオンに答える。
ナディルの目には、いつの間にか、あたたかい滴がこぼれるくらいに溜まっていた。