翡翠の姫君と銀の猫 1
「こき使って悪かったの。疲れたじゃろう」
カジェーラは彼の前に、白い陶器に入ったお茶を置いた。
暗いガーネットのような、落ち着いた美しい色のお茶だった。
甘さを含んだ清々しい香りが、あたりに漂う。
椅子にゆったりと腰を下ろしていた彼は、軽く会釈をした。
「おかげで大広間は、以前よりも美しゅうなった。鏡のかけらは微塵もない。当分掃除する必要もないじゃろう」
「お役に立てて光栄です」
彼が言った。
「やはり男が二人いると、片付くのが早いのう」
「そうですね。しかし、ほとんど彼がやってくれたようなものですよ。私はやはり、年ですので……」
彼――デュプリー公爵が、向かいの席に座ったカジェーラに微笑んだ。
デュプリーは、カジェーラが入れたお茶の色を目でも楽しみながら、それをゆっくりと味わう。
熱いお茶は、疲れた体の隅々にまで、心地よく染み渡って行くようだった。
こんなに細々と気持ちよく体を動かしたのは何年振りだろう。デュプリーは思う。
「ナディル王女に会えなくて、残念じゃったのう。まあ、王女たちがここに来たのは、何ヶ月も前のことじゃがの」
カジェーラが言った。
「いえ。きっとまた近いうちにお会いできると思っておりますよ。それにナディルさまのことは、それほど心配してはおりません。ご無事でお元気にしておられると伺ったところですしね」
「ならば、よいがの」
「しかし、賞金稼ぎをしていらっしゃったとは驚きました」
「あの姫もまた、多少なりと猫族の血を受け継いでおるからの。人の出来ぬことがいろいろと出来るのであろうな。しかし、あの姫がひとりで外に放り出されても生きていけるように仕込んだのは、そなたなのであろう? それこそ賞金稼ぎであろうが、傭兵であろうが」
カジェーラが訊ねる。
「お見通しでしたか。確かにそういう時がくるのではないかという予感を持って、姫君を強くお育て申し上げましたが」
デュプリー公爵は、屈託なく笑った。
「そういえば、『翡翠のナディル』がオーデルク公子の側室の申し込みを断ったとか。そんな噂を最近賞金稼ぎたちから聞きましたよ」
「ほう。やはりあの公子、能天気なようでいて、思いの外やり手なのじゃな。それとも、周りの者の機転なのかの。アーヴァーンのナディル王女がオーデルク公子の正妃の申し込みを断ったのでは、何かと支障があるからのう。両国の友好にも関わるやもしれぬ。翡翠のナディルならば、彼女の武勇伝じゃ。しかし、するとあの姫、そういう結論を出したのじゃな。確かに心配はいらぬかもしれぬの。私も安堵した」
「私が心配なのは、あなたですよ、カジェーラさま」
デュプリー公爵が心持ち真剣な表情をして、カジェーラを見つめる。
「私が? 何でじゃ?」
「あなたはこのような寂しいところで、たったおひとりで暮らしておられる」
「年寄りの気楽なひとり暮らしじゃ。寂しいと思ったことはないぞ。そのようなやわな感情は、鏡の中に捨ててきた。百年以上も前にな」
「カジェーラさま。もしよろしければ、私の城においでになりませんか?」
デュプリー公爵が、少しためらってから言った。
「そなたの城に?」
カジェーラは、首をかしげる。
「私の祖先……祖父の祖母だったと思いますが、ファルグレット侯爵家から嫁いできたといいます。あなたとは血が繋がった親戚なのですよ。ですから、あなたのことがとても気になるのです」
デュプリー公爵が言った。
「ほう。そなたがのう。そういえば、私の叔母の一人は、当時のデュプリー公爵に嫁いでおったの。子供の頃、結婚式に出席した記憶があるぞ。では、そなたとは遠いいとこ同士になるのかの」
それからカジェーラは、声をひそめて呟いた。
「ならばそなたも、人前で王家のルビーには触らぬことじゃな……」
「は?」
デュプリー公爵が聞き返す。
「いや、こちらの話じゃ」
カジェーラは、いたずらな少女のように肩をすくめた。
「ぜひ私の城をご実家だとお思いになって、ご自由に滞在していただければ、と思うのですよ」
デュプリー公爵が続ける。
「じゃが、私はアーヴァーンには入れぬ。出奔したファルグレット侯爵がアーヴァーンに戻らぬ限りはな。ナディル王女にもそう言われたぞ」
「ファルグレット侯爵家の姫君としては、でしょう。私の大切な友人としては、いつでも入れますよ」
「王女もそう言っておったわ。さすが王女の師匠じゃの」
カジェーラは、くくっと笑った。
「じゃが、私はここで暮らしていく。ここが気にっておるのでのう。オーデルクの公子殿も遊びにくると言っておったしの。何ならそなたも遊びに来るか?」
「おお、喜んで。私は、近いうちに引退致します。独り身ゆえ、自分の城にいても時間を持て余すだけ。ならば、ここでカジェーラさまといろいろお話をしたいと存じます」
「いろいろ忙しくなるのう。そろそろやっと大公さまのおそばに行けると安堵しておったのじゃがの。大公さまには、私があちらに参るのをもう少し待っていただかねばならぬかのう」
「そうですとも。長い間お待ち願ったのですから、この際もう少しそうしていただいてもよろしいかと」
二人は、穏やかに笑い合う。
カジェーラは、二杯目のお茶をそれぞれの器に注いだ。
ポットを持つカジェーラの指には金の猫が抱くルビーの指輪はなく、その代わりに大粒のオパールが嵌められた銀の飾りが、細い手首に通されていた。
オパールの腕輪はカジェーラが動くたびに、落ち着いた七色の輝きを放つ。
「ところで、彼は? 姿が見えないようですが」
デュプリーが訊ねる。
「先ほど発った。あわただしいことじゃの。鏡を片付ける間に、私から聞かされた話で十分と見える。もうこの城に用はないのじゃろう。まあ、若い者はいつも眩しいくらいに元気であわただしい。そうして未来をその手に掴み取って行くのじゃろうな」
カジェーラは答えて、花の香りの熱いお茶を口に含んだ。