オーデルク大公城 2
オーデルクの大公の城は、丘の上にあった。
白い石を積み上げて造られた城は、周囲の豊かな緑に引き立てられ、より美しい清楚な白に見える。
それを一目見て呟いたガガの形容は、『おいしそうな平たい白いお菓子』だった。
その白いお菓子は、青い空と白い雲の下で、丘を覆うように広がっていた。
「おかえりなさいませ」
「ご無事で何よりです」
宮殿の人々がフィリアスに挨拶をし、フィリアスの隣を歩くナディルにも笑顔で頭を下げる。
少年のような旅の衣装、頭に乗せているのはルビーの瞳の金の竜。
そんな出で立ちのナディルに、人々は驚きも警戒もしなかった。
既にナディルの素性が伝えられているのかもしれない。もちろん、公子の結婚相手になる予定であるところの、隣の国の王女として。
「おかえりなさいませ、公子さま」
磨かれた広い廊下の両脇に、若い娘たちが列を作って並び、頭を垂れる。
娘たちは、それぞれ鮮やかな衣装を身にまとい、宝石や花をふんだんに使って髪や胸を飾っていた。
いずれも美しい娘たちだった。貴族の娘たちか、あるいは大公家の親戚筋の姫君たちだろうか。
ナディルは、自分に注がれるたくさんの視線を感じ取った。
最前列の娘が進み出て、お辞儀をする。
焦げ茶色の長い髪を形よく結った、一際美しい娘だ。
濃い紫色のドレスが落ち着いた色味とはいえ、華やかだった。髪に飾った白い薔薇が、甘い香りを漂わせる。
彼女はナディルよりも、そしてフィリアスよりも、明らかに年上だった。
木漏れ日を通した葉の色のような薄い緑の目が、知的でやさしげだ。
「いらせられませ、アーヴァーンのナディル・リア・ジフル王女殿下」
歌うように彼女は言った。
そして、ナディルの服装にも頭に乗ったガガにも物怖じすることなく、上品に微笑む。
「ただいま、ウィーカ。皆、息災だったかい?」
フィリアスがにこやかに訊ねる。
ウィーカと呼ばれたその娘は、深く頷いた。
「だろうね。きみに任せておけば、間違いないからね」
ウィーカは、女官長か何かなのだろうか。
ナディルの疑問に答えるように、フィリアスがナディルのほうを向く。
「彼女は、私の乳母の娘なのですよ。私は生まれたときから、何かと世話になっているのです」
「そうなのですか」
「結婚したのは、私が十三の時です。彼女は二十歳を過ぎていましたがね。ひとりくらい、そういう年代の者がいてもいいと周囲も言うので……」
フィリアスが、さらににこやかに言った。
「へ? 何だと? けっ……こん……っ!?」
ガガが、ナディルの頭から足を踏み外して、転げ落ちそうになる。
かろうじてナディルの肩にしがみついて体勢を立て直したガガは、フィリアスに訊ねた。
「公子さま、確か今『結婚』って……そうおっしゃったように聞こえたのですが?」
「はい。言いましたよ?」と、フィリアス。
「フィリアス公子。もしや、この女性の方々って……」
ナディルは、廊下の奥までずらりと並んだ姫君たちを、思わず眺め渡した。
「私の妻たちですよ。ちなみに、ウィーカは最初の妻です」
フィリアスが、事もなげに答えた。
「つ、妻たちって……まさか、その、全員!?」
ガガが、信じられないといった風に叫ぶ。
「ええ。今のところ二十五人います。もちろん皆、側室ですよ。正妃はまだ娶っていませんからね」
フィリアスが、明るく言った。
「忘れていた。オーデルクが一夫多妻制だったってこと」
ナディルは、溜め息まじりに呟く。
「えーっ。えーっ! そ、それにしても、二十五人はひどいんじゃないの」
それからガガは声を潜め、ひとりごとを言うように、ぼそぼそと呟いた。
「二十五人って……。よく体が持つよ。一晩に一人でも、一ヶ月近く待たさなきゃなんないわけだし。それか、一晩にまとめて二人とかだったりす……」
至近距離でナディルに睨まれ、ガガは黙った。
「少ないですか? 私の父は、私と同じ年くらいの頃には、六十人以上はいたらしいですが」
フィリアスが言う。
「まあ、子供がたくさん生まれては争いの元にもなるので、そこは何かと苦労したらしいのですがね」
「かなり苦労してそうだよな」
ガガは、再びナディルに睨まれる。
「側室は誰でもなれます。けれども、正妃となるといろいろと条件がある。ナディル、あなたはその条件にすべて当てはまります。正式に縁談があったくらいなのですからね。身分、美貌、知性、教養、年齢、強さ。おまけにあなたは、外の世界にも詳しい。あなたはこの女性たちの頂点に立つことになるのですよ」
と、フィリアス。
「ナディルさまが正妃さまになられるのなら、私共もこれほど嬉しいことはございません」
ウィーカが言った。
同時に後ろに並んだ側室たちが、全員微笑んで頷く。
「私は、あなたが王女でなくても結婚を申し込むつもりでした」
フィリアスが言った。
「あなたのような女性は、妻たちの中にはいません。皆おとなしく、一日中城の中に閉じこもって楽器を弾いたり、刺繍をしたり、ドレスや宝石の話に夢中になったり……。けれども、あなたは違っていた。剣の使い手で、名の通った賞金稼ぎで、たった一人の男に激しい恋をしておられた。あなたが私を思ってくださればどんなにいいか。エリュースを思うように。ずっとそう思っていました」
「『翡翠のナディル』を側室にってかあ?」
「そうです。でもそれは、アーヴァーンの王女を正妃に娶るよりも、うんと自慢できることかもしれませんよ?」
ガガの質問にフィリアスが、相変わらずにっこりと笑いながら答えた。
「ま、確かにそうだろうけどさ」
その時、小さな影が側室たちの間をちょこちょこと走ってきた。
転びそうになりながらも側室たちに順番に手を差し出され、その影は、ナディルたちのいるところまでたどりつく。
子供だった。
まだ三歳にもなっていない男の子だ。
フィリアスそっくりの金の巻き毛が背中に波打ち、小さいながらも、一目で貴族以上の子弟のものだとわかる服を着ていた。ぱっちりとした大きな目が愛らしい。
「うわ、公子さまをそのまま人形にしたみたいなガキンチョ……」
ガガが言いかけた途端、その子供が叫んだ。
「お父さま!」
そして、その小さな幼児は、フィリアスに突進して飛びつく。
フィリアスは、嬉しそうに彼を抱きしめた。
「おお。少し見ない間に随分大きくなりましたね。やはり子供は成長が早い」
「お父……さまって」
ガガが、あんぐりと口を開ける。
「あなたとウィーカさんの子供ですね? 目の色がウィーカさんと同じだ」
ナディルは、落ち着いた口調でフィリアスに言った。
「二歳になります。生まれたのは、そうだ、アーヴァーンでの舞踏会の日でした。あのとき、あなたが久しぶりに舞踏会に出られると聞いて、楽しみにしていたのを覚えています。でも、ウィーカが産気づいたので、舞踏会のほうはお断りしてしまいましたけれどね。やはり初めての子供なので、私事を優先しました」
「お妃が言ってた、お隣の公子さまの欠席理由って……そういうことだったわけか」
ガガが呟く。
「フィリアス公子さまったら、中身はガキのくせに、やることだけはしっかりやって……ナディル……?」
ナディルは、うつむいていた。
肩が小刻みに震えている。
心配になったガガが覗き込むと、ナディルの顔には苦しげな微笑みのようなものが張り付いていた。
笑いたいのを無理やり必死で我慢しているような顔だった。
「ナディル、笑ってるの……? 泣いてるのかと思ったよ?」
ナディルは顔を上げた。
「『翡翠のナディル』は泣かないよ。今は笑いたい気分。自分の愚かさや甘さ、迷いや弱さなんかをね。はっきりとわかったよ。たとえどこに行こうとも、何をしようとも、そして、誰といようとも、『戦い』は必ずくっついてくる。つまり、現実は厳しいってことだ」
ナディルは、笑いを噛み殺しながら言った。