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棺の中の姫君 2

 カジェーラは、鏡のかけらが散らばった大広間に佇み、うんざりしたように肩をすくめた。


「これを片付けねばならぬのか。年寄りにとっては、途方もないのう。しかし、いつまでもこのままにしておきたくもないからの」


 木製の台から剥がれ落ちて割れた鏡は、幾千、いやそれ以上もの破片となって広範囲に散乱し、天井のシャンデリアの光を反射して、壊れた星の集まりのように輝いていた。

 そのナイフよりも鋭い切っ先は、近づく者を容赦なく傷つけようと待ち構えているかのように、雑然と折り重なっている。


 魔法を使うと一瞬で事は済んでしまう。

 怪我をすることもなく、鏡の破片の小さな一粒すらも消えてしまって、広間は前よりも美しくなるに違いない。

 けれどもカジェーラは、食事や掃除などの家事一切は、魔法は使わず、すべて手作業で行っていた。

 今回も地道に自らの体を使い、すべて済ませてしまわねばならない。

 人間の主婦ならば、たとえめんどうであろうが、労力が必要であろうが、家事は自らの力のみで、ごく当たり前にこなしていくもの。こなさざるを得ないもの。

 侯爵家の姫君であったカジェーラも、長年の一人暮らしのうちに、普通の家庭の逞しい主婦に負けないくらいに家事は身に付いてしまっていた。

 あるいは、たとえ魔女として生きることを選んだとはいうものの、そのような雑事に魔力を使用してしまうほどに人間の平凡な暮らしからは離れたくないという、彼女なりのこだわりがあったのかもしれない。

 

「まあ、ナディル王女のおかげで、アーヴァーンのルビーは壊さずに済みそうじゃからな。その分、これからは何にでも自由に魔法を使ってよいわけじゃが。今回は例外として、魔法に頼ってしまおうかのう」


 カジェーラは、おもむろに鏡のかけらを一つ、つまみあげた。手作業で片付けられるかどうかを注意深く吟味するように。


 鏡の中には、彼女の透明な黄色の目が映っている。

 同じ目を持ち、同じ血を引く若者のことを、彼女は思い出した。

 あれは何ヶ月前のことだったのだろう。彼がここにやってきたのは。彼が鏡を覗き込み、その心の内側を映したのは。


「ふむ……」


 カジェーラは、鏡の中を眺めた。

 鏡の向こうには、花に埋もれた長い黒髪の姫君が映し出された。

 そして、それが映った鏡を覗き込んでいるのは、彼女と同じトパーズの目をした、その銀の髪の若者――。

 若者は、食い入るように鏡の中の姫君を見つめていた。

  

<この姫君は? そなたの思い人なのか?>


 カジェーラは、何ヶ月か前、その若者に自らが発した質問を思い出す。

 カジェーラ自身は鏡に取り込まれないよう、少し離れた位置に立って、若者が映し出したものを垣間見ていた。

 若者は、彼女の問いに黙ったまま頷いた。


<棺の中に入っておるようじゃが。亡くなったのか?>


<そうなのかもしれません。今はもう、この世の方ではないのかも……>


 若者――エリュースが答えた。


<この方は、陰謀に巻き込まれて殺されてしまったおそれがあります。噂を聞きました。この方がおられるはずの城に、この方の気配が全くないと。召使いたちは、何事もなかったかのように振舞っているようです。この方のために料理も作られますし、宝石やドレスも届けられているといいます。けれども、実は姫君はいないのだという。姫君の部屋の寝台には姫君は横になってはおられず、そこには姫君が残した黒髪が一房、代わりに置かれていると……>


 エリュースは、鏡にそっと手を置いた。

 手は鏡の中の姫君には届かず、滑らかで固いその表面で止められてしまう。


<ならばこの姫君は、どこかに連れ去られたか……あるいはそなたが言うように亡き者にされ、人知れずどこかの土の中に埋められてしまったかもしれぬかのう>


<私は、この方を置いてきてしまいました。どうしても、自分の中の迷いを断ち切ることが出来なかったのです。そして、あの方の真っ直ぐな思いも、お断りしてしまいました。もし私があの時、城からお連れすれば……この方は亡くならずにすんだかもしれない。私と一緒に旅をしなくとも、あなたに預かっていただくという方法もありました。ここならば、追っ手は来ますまい。あの方も、安心してこの城で平和に暮らせたはず。けれども、そういうことを考える余裕も、私にはありませんでした>


<そなたも、まだ若いからのう。己の行動を経験で律していくには、まだ早い年齢じゃ>


<私は、もう一度、この方の国に行ってみようと思います。そして、本当にこの方が亡くなってしまったのかどうか、確かめなければなりません>


<もし本当に亡くなっておられたら、そなたはますます後悔することになるぞ>


<それでも、それが真実ならば、受け入れなければならぬのです。自分がどれだけ悔い、心がどのように張り裂けるのか見当も付きませんが、それでも確かめなければなりません。そうしなければ、私は先に進むことが出来ないのです。私の時間はおそらく、あの城を出たときから止まってしまっているのですから>


「また、やってしもうたわ……」


 カジェーラは、覗き込んでいた鏡のかけらを輝く星々の中に投げ入れた。

 それは銀色の弧を描いて宙を飛び、再び尖った星々の群れの中に混じってしまう。


「やはり私のこの体は、そろそろ寿命なのかもしれぬな。こんな大切なことも、全く覚えてはおらん。たとえ魔女と呼ばれて魔法が使えようとも、その魔法で若い娘の外見を取り繕ってみようとも、老いには勝てぬ。穴だらけじゃ」


 彼女は、忌々しげに言った。


「ナディル王女。エリュースが鏡にそなたを映し出したのは、そなたが思っているような意味ではないぞ。棺の中に横たわる、長い黒髪の姫君のそなた。そなたはそれをエリュースの望みだと解釈したが、鏡が映し出したのは、エリュースの不安じゃ。恐れじゃ。子供の頃からあの鏡に慣れ親しんでいたエリュースは、己の心の負の部分を鏡に映し出したのじゃ。エリュースはそなたを思っておる。今でもな。そなたを残してアーヴァーンを出てしまったことを、この上もなく後悔している。この二年間、ずっとあやつの心はそのことでいっぱいだったじゃろう。そなたらは、思い合っておるのじゃよ」


 カジェーラは、彼女の細い指に嵌められた、アーヴァーン王家の指輪を見下ろした。

 金の猫が、大粒の見事なルビーをしっかりと抱えている。

 

「エリュース。いや、ファルグレット侯爵。アーヴァーンの王女と共に、アーヴァーンに帰るがよい。そなたの代で帰るのじゃ。それがそなたの幸せ、ナディル王女の幸せともなろう。アーヴァーン王家も、再び猫族の力を持つ魔法使いを得ることになる。先祖たちが犯した過ちをそなたは繰り返してはならぬ。消えた姫君は、銀の猫と一緒に再び城に帰るのじゃ。そなたらが結ばれることで、ユーフェミアさまと我が兄との叶わなかった恋は、やっと成就するじゃろう。迷い悩むのも若者の特権じゃが、あまりにも迷っていては、大切なものを逃してしまうぞ。後先を顧みずに突っ走るのも、若者の特権なのじゃ。しかし……間に合っているとよいのじゃがのう……」


 その時、カジェーラは何かを感じ、黄色い宝石のような目で、天井を突き抜けたはるか遠くを見渡した。


 花畑の上空に浮かぶ見張り番たちが、いつもとは違う何かを伝えてきた。

 馬が草を踏む音。

 その馬に跨って近づいて来る、人間の微かな息遣い。

 花畑を通って城に吹き込む風にも、その気配が濃く含まれている。

 その人物は、真っ直ぐ城を目指して馬を進めていた。


「おや、誰か来たようじゃの。掃除は先延ばしにして、食事を作らねばならぬかのう。いや、この時間ならば、手抜きをしてお茶でいいかの。そうじゃ、お茶の後で客人に、ここの掃除を手伝ってもらうことにすればいいではないか。全くよい時に来てくれたものじゃ」


 カジェーラは幼い少女のように、無邪気に微笑んだ。



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