幻の崩壊 3
「そんなこともあったかのう。はるか昔のことじゃ」
カジェーラは、ふっと薄い微笑みを浮かべたが、フィリアス公子は真面目な顔をしたまま続けた。
「いえ。あなたはようく覚えておいでのはず。でなければ、花嫁衣裳をあんなに大切そうに飾っておかれるはずもありますまい?」
カジェーラの表情がたちまち変化した。
微笑みは完全に消え去り、眉間には不機嫌そうな皺が寄る。
「見たのか。やっかいなものを」
「あれはオーデルクの大公妃になる女性の花嫁衣裳です。あの衣装は翡翠の冠が載せられて、初めて完璧なものとなる」
フィリアスが言った。
「冠まで持ってくるわけにはいかなかったからのう。じゃが、妙なところであの冠に出会えるとは思ってもみなかった。ひそやかに盗品として売りに出されておったぞ」
「それをあなたが買い戻して下さったのですね」
「黒真珠の首飾りとエメラルドの指輪五つと交換したのじゃ。安い買い物であったな。そういう物品であることが、運のよいことに盗賊どもには伝わっていなかったと見える。私が買わねばどうなっていたと思う? 今でも冠は行方不明じゃ。そなたの正妃となる姫君は、冠なしでそなたに嫁ぐはめになる。実に情けないことじゃのう」
「カジェーラ殿。あなたには感謝してもしきれません。あの美しい衣装は、あなたがお召しになるはずだった花嫁衣裳。あれに添えられるはずだった翡翠の冠は、あなたにとってはただ悲しい記憶が残る品。それをわざわざ大切な宝石と交換して、闇に流れていくのを阻止してくださった」
「さすがに無視は出来なかったのでな。買ったはいいが、見て楽しむこともできなかったがの」
フィリアス公子は、丁寧にカジェーラに向かってお辞儀をした。
「フィリアス公子。いったいどういうこと? この魔女の婆さんが、オーデルクの大公妃だって?」
ガガがフィリアスに訊ねる。
「それは聞き捨てならぬことです。我々にもお話しいただきたい」
フィリアスの臣下が、カジェーラを睨みながら、不満そうに言った。
フィリアスは、ガガに向かって鏡のかけらをかざした。
ガガは翼を羽ばたかせてそれをひったくるように受け取り、再びナディルの肩に舞い戻る。
ナディルは、それを覗き込んだ。
鏡の破片は、ナディルが先ほどその中に見たものとは全く違うものを映していた。
「あなたは、おそらく四代前のオーデルク大公の元婚約者。何事もなければ、あなたはあの衣装を身にまとい、翡翠の冠を戴いて、オーデルクの大公妃になるはずだった。そして大公家には猫族の血が入り、アーヴァーンの王家とも、親戚としての絆が固められるはずでした。けれども、そうはならなかった。あなたの一族とアーヴァーン王家の何らかの事情で」
フィリアスが言った。
「ファルグレット侯爵家は、一族ごと姿を消してしまいました。もちろん、大公家への輿入れが決まっていた侯爵の妹君も一緒に」
鏡から顔を上げて、ナディルは呟く。
あの夢――。
ナディルが離宮にいた時に見た、夢の中のマントの少女。
ファルグレット侯爵に寄り添っていた彼女は、大公家へ嫁ぐはずだった。
だから、ユーフェミアは言ったのだ。
<なぜ? 私たち、婚約するはずだよね? 彼女だって、お隣の国の大公に……>
お隣の国の大公に嫁ぐはずなのに……。
ユーフェミアは唇に上がらせることなく途中で飲み込んでしまったが、あのあとに続くのはその言葉。
彼女――ユーフェミアの幼馴染であり、侯爵家の姫君であるカジェーラは、大公に嫁ぐことはなかった。
そしてまたユーフェミアも、思い合っていた侯爵と結婚することはなかった。
アーヴァーンのルビーがファルグレット侯爵に反応して光ってしまい、侯爵一族が姿を隠してしまったからだ。
「その美しいお姫さまは、ある日、銀の猫と一緒にどこか遠い所に行ってしまいました。そして、二度と戻ることはありませんでした」
フィリアスが、ゆっくりと暗誦するように口にする。
「それは結婚式の少し前のことでした。どこを探しても、お姫さまも猫も見つかりませんでした。オーデルクに伝わるお話です。『お姫さま』とは、カジェーラ、あなたのことだったのですね。そして、『銀の猫』というのは、月の光で猫に変身したというあなたの兄上の侯爵、もしくは、猫族の血を引くあなたの一族のことでしょう」
「そうじゃな。オーデルクの人々は、勝手な姫君のことを伝説としてでも覚えておいてくれたということじゃ。嬉しいかぎりじゃな」
カジェーラが、小さな溜め息をつく。
それから彼女は、フィリアス公子をその黄色い透明な目で、真っ直ぐ見つめた。
「そなたが花畑を横切ってくるのを初めて見たとき、オーデルクの大公の血に連なる者であることが一目でわかった。やはりあの方に似ておるからのう。ナディル王女の素性までは、その時はわからんかったがの」
「フィリアスにあの鳥の化け物が見えなかったのは、そういう理由? 大公に似ていたから、エコヒイキして、見えなくしたとか……」
ガガが訊ねると、カジェーラは首を振った。
「公子に花畑の番人たちが見えなかったのは、鏡が公子に反応しなかったのと同じ理由じゃ。けがれなき心を持つ者には、番人たちは手を出さぬ」
「じゃあ、ナディルもぼくも、けがれてるってわけかよ」
「言い換えれば、世間知らずの無害なお子様には、あの番人たちは用がないということじゃな」
「それは随分なおっしゃりようですね」
フィリアスが、大げさに肩をすくめて見せる。
「要するに、やっぱりフィリアス公子はガキってことさ」
ガガが、さらに付け加えた。
「ともかく私は、そなたがここまで来てくれたことが嬉しくもあり、冠を返せることに安堵した。だから、そなたたちを歓迎したのじゃ。張り切って料理まで作ってしもうた。オーデルクの料理は、あの方に作って差し上げるために習得したものじゃ。花嫁修業じゃな。召し上がっていただいたことは、結局なかったがの」
「代わりに私がいただきましたよ。実に美味でした。堪能いたしました」
フィリアスが言うと、カジェーラの頬が薄く染まる。
「あの方には召し上がっていただけなかったが、あの方によく似た子孫には提供できたということじゃな」
「それは少し間違っていますよ。私は、あなたの元婚約者の大公と血は繋がってはいますが、直系の子孫ではないのです」
フィリアスの言葉にカジェーラが眉を寄せた。
「なんじゃと? そなたはあの方の子孫ではないのか?」
「あなたの元婚約者は、私の曽祖父の兄君です。あなたがいなくなってしまった後、体を壊し、大公を弟である私の曽祖父に譲って、都から遠い城に退きました。妃を娶ることもなく、生涯ひとりで静かに暮らしたといいます。消えてしまった姫君の面影を抱きしめながら。彼が亡くなった後その城には、姫君の肖像画や姫君に贈れなかった装飾品などが、たくさん残されていたとか」
「お姫さまを失った花婿は嘆き悲しみ、床に臥してしまいました……」
ガガがフィリアスの言葉を思い出して、小さく呟いた。
カジェーラは、目を伏せて黙り込む。
何かに耐えるように彼女の唇はきつく結ばれ、その手は固く握りしめられていた。
やがてカジェーラは、自嘲気味に言った。
「私は、あの方は他の姫君と結婚されて、子孫も成されたのだと……。ならば、あの方をここへさらってくればよかったかのう。せめて亡くなる前のわずかな期間でも、私がそばにいて差し上げればよかったか……」
「でも、あなたはご存じなかったのですよね。大公がそうしたことすら、おわかりにならなかった。なぜなら、ずっと鏡の魔力に囚われていたからです。あなたの悲しみは、鏡の餌食になるくらいに深かったのですから」
フィリアスが言った。
ナディルは、鏡のかけらを再び眺める。
鏡の中には一組の男女がいたが、それは、エリュースと棺によこたわるナディルの姿ではなかった。
輝くような金の巻き毛とアメジスト色の目を持つ、フィリアスによく似た若者。
そしてその若者が抱きしめているのは、赤い髪の少女――カジェーラ。
二人は豪華な衣装を身につけていた。
若者は、金の糸で刺繍が施された、薄緑の礼服。
少女は真珠が散りばめられた白いドレスをまとい、幾重にもなった透明な花びらのようなベールを被っていた。その頭上に載せられているのは、彼女の赤い髪に映える翡翠の冠だった。
祝福されていたのに、行われなかった結婚式。結ばれなかった花婿と花嫁。
カジェーラが五十年間、鏡に囚われて眺めていたものだった。
「あの鏡は、寿命が短い人間には害をなすものじゃ。じゃが、私はあの鏡のおかげで立ち直れた。確かに時間はかかったがの。鏡のおかげで張り裂けるような感情はいつしか消え、遠い過去のものとなった。虚しさは味わったが、現実に目覚めた。そなたは木っ端微塵にしてくれたがの。あれは私にとっては、大切な愛すべきものだったのじゃぞ」
カジェーラはそう言って、フィリアスを睨む。
フィリアスは、にっこりと笑った。
「あなたの鏡を割ってしまったことは、私としても大変遺憾です。あなたは翡翠の冠も取り戻してくださった。それにあなたは、オーデルクの大公妃になるはずだった方です。ぜひあなたに報いたい。アーヴァーンの王家としては、あなたをどうすることもできないでしょうし」
フィリアスは、ちらっとナディルを見る。
ナディルは頷き、そして言った。
「ファルグレット侯爵一族は、出奔しました。侯爵自身がアーヴァーンに戻らぬ限り、アーヴァーン王家としては、カジェーラ殿に何も出来ないでしょう」
「それ、エリュースのこと……?」
ガガが遠慮がちに、ナディルにささやく。
ナディルは黙り込んで、ガガの質問を無視した。
「報いるとは? 私もナディル王女と一緒に、オーデルクに連れて行ってくれるということかの?」
カジェーラが訊ねると、フィリアスの臣下たちの間に、緊張した妙な空気が急降下する。
不安げに眉をしかめ、何か言いたげに口を開けたまま、彼らはフィリアスとカジェーラを見守った。
「もちろん、来てくださってかまいませんとも。オーデルクには、大公家付きの魔法使いは現在おりませんからね。ここくらいの広さもなく、花畑も付いていないかもしれませんが、屋敷も用意致しましょう」
フィリアスが明るく答える。
フィリアスの臣下たちは、慌てふためいた。
カジェーラは、ふふっと笑う。
「冗談じゃ。そなた、家来たちの顔を見たであろうが。絶句しおったぞ」
カジェーラに一瞥され、オーデルクの人々は慌てて目を伏せる。
「たとえ何代か前の大公の元婚約者であろうとも、そして冠を取り戻すのに協力したとしても、私は彼らにとっては恐ろしい魔女じゃ。私をオーデルクに連れて行くということは、揉め事の種を持ち込むのと同じことぞ」
「ですが、あなたには何かして差し上げたいのです。ぜひとも」
フィリアスが言う。
カジェーラは、やさしくはかなげな少女の顔で微笑んだ。
「その気持ちだけで十分じゃ。私に残された時間は短い。私はその時間を私の使いたいように使う。静かにひとりでここで過ごし……そして最後にやらねばならぬことがあるしの」
「やらねばならぬことって何だろ?」
ガガが、首をかしげた。
「では、カジェーラ殿。時々ここに遊びに来てもよろしいですか? 私はあの花畑がとても気に入ったのです。ぜひ寝転んで、一日のんびり過ごしたい。そしてもちろん、あなたの手料理もまたご馳走になりたいのです。幸いなことに、私はあなたの婚約者に似ているようですし。彼に出来なかったことを、ぜひ私に。それであなたの心が少しでも癒されるなら、とても嬉しいです」
フィリアスが、申し出る。
臣下たちの口が、再びあんぐりと開いた。
何を言い出すのだ、我らが公子は。
そういう無言のセリフが、全員の唇に張り付いている。
「勝手にするがよい。私の邪魔をしなければ、いつでも来てよいぞ。料理も作ってやろう」
カジェーラが答えると、フィリアスの顔が嬉しさで、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます! では、近いうちに参ります」
そんなことはさせませんぞ、と臣下たちは固く決意したようだが、フィリアスはきっと、事もなげにするりと立ち回って彼らを出し抜き、彼らが気がついたときには既に花畑で寝そべっていそうだった。
「公子さま、やっぱり無邪気で何も考えない、いたいけのないガキだよな。オトナだったら、普通そんなことを言い出す発想も勇気もあるもんか……」
ガガが呟く。
ナディルは淡く微笑んで、ガガの頭を撫でた。
「あ、ナディル。笑った……」
ガガは、ルビーの目でナディルの穏やかな顔を見上げた。
「カジェーラ。私はあなたの婚約者だった大公に、そんなに似ていますか?」
フィリアスはそう言って、さりげなくカジェーラの前に立つ。
カジェーラは、眩しそうに彼を見上げた。
「似ておるよ。その金の巻き毛は、私がかつて憧れた髪じゃった。その紫の目は、私が愛したあの方の、アメジストの目と同じじゃ」
「では……」
フィリアスは、満面の笑みのまま、行動する。
そこにいる一同は、目を疑った。
フィリアスは、いきなりカジェーラを強く抱きしめたのだ。
「な、何をする……!」
カジェーラが叫んだ。
だがその声は、フィリアスの胸で遮られ、くぐもって消されてしまう。
「あなたの元婚約者、私の曽祖父の兄が、あなたに言いたかったこと……。それを私が代わりに言いましょう。彼は言いたかったはずなのですから」
「なんじゃと?」
カジェーラが、フィリアスの胸に埋もれたまま言った。
けれども彼女は、突然そんなことをされても、特に嫌がりもせず、そのままフィリアスに抱きしめられていた。
「カジェーラ。我が麗しの姫君。私は、あなたのことをずっと思っていました。私が生涯を終えるその瞬間まで、あなたのことを考えていました。あなたを愛し、あなたを心配し、あなたの幸せを祈っておりました」
フィリアスが言った。
真剣に。力強く。
まるで大公の思いをはるかなる過去から呼び出し、その体に集めるように。
二人を見つめるナディルにもガガにも、その瞬間だけフィリアスは別人のように映った。
「嬉しゅうございます、大公さま。私も大公さまのことをずっとお慕いしておりました。鏡に囚われていたときも、解放された後も。ずっとずっと。今でもお慕いしております。この命の尽きる時まで……」
カジェーラが答える。
頬を染め、はっきりとした言葉をその薄紅の唇で紡ぐ彼女は、その時は老いを隠した魔女ではなく、侯爵家の若き姫君だった。
突然、目の前から消えてしまった婚約者。
大公の思いは、如何ばかりであっただろう。
一族と行動を共にした姫君のほうもまた――。
二人の中に当然存在したであろう疑問や非難、怒り、さらには言い訳や謝罪の言葉。
フィリアスとカジェーラは、そういうものは口にしなかった。
ただ短く互いに思いを述べた後、再び静かに抱き合った。ごく自然に、恋人同士のように。
割れて散らばった鏡が、二人の周囲で星の破片のように輝く。
「公子さまったら、やっぱり無邪気で深く考えていないよな。感情で判断して、いきなり行動するし」
ガガが、あきれたように呟く。
「それがフィリアス公子の素敵なところだよ。彼の判断は、何にせよ結局のところ、いつも間違っていないもの」
フィリアスが、やはり彼の気分で唐突に大公の役を終えるまで、ナディルもナディルの肩にとまったガガも、そしてオーデルクの人々も、まるで一枚の美しい絵に見入るかのように、二人を眺めたのだった。