月光 1
「やっぱり、ここには来ていないね」
漆黒の髪の少女――賞金稼ぎ仲間からは『翡翠のナディル』と呼ばれてはいるが、西の小国アーヴァーンの第一王女であるナディル・リア・ジフル姫は、ぐったりとベッドに転がった。
彼女の頭の上に乗っていた金の竜は、いつもそうするように床を歩き回り、部屋の中を点検し始める。
落ち着いた茶色を基調とした部屋は丁寧に掃除され、微かに薬草のよい香りが漂っていた。
「来てたって言うもんか、あの親父。ここの信用にかかわるもの」
竜が、鼻をひくつかせながら言う。
「でも、『砂漠に眠る緑の羽根生え猫』なんて、何となく彼に合いそうな名前じゃない? ここの色も……」
「あまりおいしそうな名前じゃないな。ってか、わけわかんない名前だ。知的で感性のありそうな名前をこれ見よがしに付けようとして、着地失敗……みたいなさ。あの親父の趣味かな。確かにここの外観は、ナディルの目と似たような緑色で塗ってあるけど。でも、結局行き先がわかってよかったじゃない」
「そうだね……。ゼノアの北か。すごい広範囲だ」
ナディルは起き上がり、窓を開けた。
魔が時の青い空間は既に消え失せ、闇があたりを支配し始めている。
薄い銀色の月の光が、ナディルの体を包み込んだ。
「月がきれいだよ、ガガ。満月には遠いけど」
金の鱗の竜ガガは、主人を上目遣いで眺めた。それから溜め息をついてベッドに上がり、優雅な仕草で体を丸める。
「月なんか見てると、まただんだん感傷的になるよ。食事して、風呂入って、寝ちゃいなよ、ナディル」
ガガは言って、あくびをする。
たとえ何を言ったとしても、気休めにしかならない。
ガガは、そのことをよく知っている。
彼の主人は、月を見ては涙を流し、ベッドの中でも時々泣いている。
ガガに涙を見つけられると、「目にごみが入っただけだよ」とか「翡翠のナディルが泣くわけないでしょ」などと無理やり笑顔を作ってごまかして見せるが、それは痛々しいほどだった。
その涙は誰にも止められはしない。彼女が探し求めるエリュースが見つからない限り、あるいは、彼女自身が自分の思いを断ち切らぬ限り。
ナディルは、澄んだ空に浮かぶ、黄色いガラスのような月を見上げた。
灰色の雲が時折月を横切り、縁を金色に染めて風に運ばれて行く。
彼もこの月を、この光景をどこかで見ているのだろうか。
草の上に横たわりながら。それとも、大海原の真ん中で。もしかしたら、同じように、どこかの窓から。
彼と初めて出会ったのも、月の光の下だった。
あれは満月の森の中。闇に光る、不思議な鏡の目。銀色の猫の、月をそのまま映して小さくしたかのような、きれいな二つの並んだ目……。
なぜこの思いは伝わらないのだろう。
雲はあんなに自由に天を流れて行くのに、なぜ自分の心は彼のもとへ行き着けないのだろう。
ナディルは、何百回ともなく唇に上らせて呪文のようになった言葉を、声に出さずに呟いた。
あなたは、今、どこにいるの?
何を思っているの?
私のことを少しくらいは思ってくれてる?
もしかして、そばには誰かいる?
私のこと……忘れてないよね……?
ガガは、ルビーの目をナディルに注いだ。
彼の主人は、今にも月の光の中に溶けてしまいそうに思えた。
床に付くほどの長い髪、透けるような白い肌、そして宝石と高価な衣装に身を包んだナディル王女をガガは知ってはいるが、『翡翠のナディル』と呼ばれる今のナディルも、月の光の飾りだけで、十分それ以上に美しく、素敵に思えた。
ナディルがアーヴァーンの離宮を飛び出して、もうすぐ二年になる。
銀色の髪、トパーズの目の若者が彼女のもとを去ってからは、既に二年が過ぎた。
深窓のはかなげな姫君はその間に、仲間うちからも一目置かれる賞金稼ぎに変身していた。
この力が、ただひとりの人物を思いつめる心からだけ来ているのなら、人間とはとんでもない生き物だ、とガガは思う。
「ねえ、ナディル」
ガガは、遠慮がちに切り出した。
このままずっと、このお姫さまを感傷に浸らせておくのは、よくない。
「ん?」
ナディルは、無言で見下ろす月と目を合わせたまま、軽く返事をする。
「さっきの金髪のおにいさんだけど」
「エリュースのことを教えてくれた人?」
「そう。あの人、どこかで会わなかった?」
「……」
ナディルは月を見るのをやめ、窓を閉めた。
ガガは、内心ほっとする。
「初対面だと思うけど? 私には記憶はないよ」
「ぼくはあるんだ」
ナディルは、言葉を話す小さな竜の隣に座った。
「どこで?」
「彼本人に会うのは初めてだけどね。確か肖像画を見た。アーヴァーンの離宮で」
「肖像画?」
「ナディルの花婿候補の肖像画の束の中に、あの青年のがあったよ」
「……まさか」
ナディルは、笑った。
「だって、それだったら、どこかの国の王子さまか、身分の高い貴族の若さまってことになるじゃない。そんな人がたったひとりで、こーんな場末の旅の宿にいるなんて」
「アーヴァーンの王女さまが、まあ、竜の連れはいるとはいえ、たったひとりで、こーんな場末の宿にいるじゃないか」
「私は例外だよ」
「あの青年も例外かもしれないぞ」
ガガは、真紅の目でナディルを見上げた。
「もしかすると、あの人、ナディルのことを知っているかもしれない。舞踏会とかで会ってたりして」
「だとしたら、あまりお近づきになりたくないな。でも、私があのはかなげな、今にも壊れそうなナディル王女だなんて、誰も想像しないよ」
「そりゃま、そうだろうけど」
「……ねえ、ガガ」
「うん?」
「エリュースは『翡翠のナディル』のことを知っているかな」
ナディルは壁を見つめて呟いた。
「そりゃ、知ってるよ。結構有名だもの、この頃じゃ」
「でも、その正体が私だとは思わないでしょうね」
「同名だ、くらいにしか思ってないんじゃないの」
「やっぱり、そうなんだろうな」
「もしかしたらナディル王女かもしれないって、思ってもらいたい?」
「そんなことないけどね。でも、私は、やっぱりそれを期待しているのかもしれない。ううん、きっとしているんだよね……」
「……ナディル、やっぱりまだ続けるの?」
ガガは、訊ねた。
「何を?」
「この旅」
「……続けるよ、もちろん」
一瞬沈黙した後、ナディルは答える。
宿でくつろいでいる時にガガが出してくる恒例の質問と、当たり前となったナディルの答え。
このやり取りは、もう何十回目になるのだろう。
「そ」
確認が終わったガガは、半分目を閉じた。
「ま、帰っても、ナディルにとっては、今より悪い状況になるかもしれないもんね。夜ゆっくり眠れるだけ、今のほうがましってもんだ。じゃ、夕食が来るまで一眠りしようっと。来たら起こしてね」
すぐにガガは動かなくなり、きらびやかな金の竜の置物になる。
ナディルは、ベッドに体を横たえた。
部屋の中が暗い。
たとえ明かりをどれだけ灯したところで、夜の闇は外から染み透ってくる。
人の作った光を簡単に擦り抜け、肌の表面にさえ、ひたひたと触手を伸ばす。
少しでも気をゆるめると、自分の体が闇を受け入れ、同化してしまいそうな、そんな錯覚に陥る。
ナディルは息苦しくなり、深く空気を吸い込んだ。
夜は考えなくてもよいことまで考え、感情が研ぎ澄まされる。心がどこかで叫び声を上げて、痛み出す。
まるでたったひとり、果てしない砂漠に立ち往生しているようだった。
昔は、そう、二年前までは、静かでやさしく包み込んでくれるような夜が好きだったはずなのに。
そんな安らかな夜は、またいつか訪れるのだろうか。
ナディルは眉を寄せ、唇を噛む。
いつまで続くのだろう、この暗い夜は。息の詰まる、この悲しい夜は……。
その時、扉がたたかれた。
ナディルはけだるげに体を起こし、ガガのしっぽを引っ張る。
扉の向こう側から、料理の盆を捧げ持った給仕の少年が現れた。
おいしそうな匂いと、料理が持ち込むあたたかい空気。それらに加えて、明るく健康的にこぼれるのは、少年の笑顔。
「ありがとう。ご苦労様」
ナディルも、つられて笑顔で答える。
ナディルが必要以上に感じる夜の闇の存在が、少し薄くなった。