ガガの記憶 1
「ナディルが! ナディルがーっ!!!」
カジェーラに尻尾をつかまれたガガが、じたばたと動き回って叫んだ。
「やはり、鏡に捕まってしまったようじゃの」
カジェーラが、冷ややか過ぎるくらいの落ち着いた声で言う。
「それほどまでにエリュースのことを思っておったのか。重症の恋わずらいだったのじゃな」
ガガは振り返り、キッとカジェーラを睨んだ。
「エリュースを追いかけて家出をしてきたくらいなんだよ、ナディルは! そのエリュースが現れたら、一溜まりもないだろう!」
「現れるも何も、あれはあの姫が作り出した幻影じゃ。そのうち幻影だと悟って、解放されるじゃろ。あの姫は意思が強そうじゃからの」
カジェーラが、のんびりと言った。
「そのうち? いつだよ?」
「そうじゃのう。五十年はいかんじゃろ。二十年くらいかの?」
「二十年!? 冗談だろ」
ガガは羽根を広げ、さらに暴れる。
「離せよ、この魔女っ!!」
「どうするつもりじゃ?」
カジェーラが、黄色の目を細めてガガを見下ろした。
「あの鏡、叩き割ってやる。そうすれば、みんな鏡から開放される。ナディルも!」
「そなたには無理じゃ。おそらく鏡のほうが、そなたより一枚上じゃ」
「やってみなきゃわからないだろう。叩き割れなければ、煤で真っ黒にして、何も映らないようにしてやるっ!」
「やめておけ。竜に魔法が絡むと、ろくなことがない。それより、あのままにしておいてやったらどうじゃ? 鏡に囚われた者は、目覚めれば、否応無しにつらい現実が待っておるのじゃ。愛するものが存在しない事実を突きつけられ、自分が自分の望むものに成り得ないということを思い知る。たとえ幻やまやかしであろうとも、鏡を覗いていれば望みはかなえられる。本人がそう願えば永久にな」
「夢はいつか覚めるものなんだ。たとえつらくても、現実を受け入れなきゃならない。それが人間の定めなんだよ」
ガガはカジェーラに照準を定め、ぱかりと口を開けた。
そして、思いつめたような、幾分不気味な声で呟く。
「離せよ。火あぶりになりたくなきゃ」
「私を脅すのか。あきれたやつじゃ。ならば、ほれ、行くがいい」
カジェーラは溜め息をつき、ガガの尻尾を握っていた手を離した。
自由になったガガは羽根をバタバタと羽ばたかせ、動かぬ人々の林の間を通り抜ける。
鏡の真正面に出たガガは、鏡を見ないように気をつけながら、やはり動かぬナディルの肩の上に飛び乗った。
「ナディル、今助けるからね!」
大きく開かれたガガの口の中に、ふわりと赤い火の玉が浮かぶ。
けれども、それがもっと大きく育って口から放たれ、鏡に投げつけられることはなかった。
火の玉は消滅してしまったのだ。そのままガガの口の中で燃え尽きて。
鏡から目をそらしていたガガの視界に、何かが現れた。
一人の幼い少年だった。
金色の巻き毛に、晴れた日の海を思い出させるような、明るい青い目。
富裕層であることが明らかな、上質の服を着ている。
宙に浮かんだその少年は、ガガをじっと見た。
ガガの口から、悲鳴のような声が漏れる。
「忘れたの? 忘れてないよね、ぼくのこと」
少年が、悲しそうにガガがに言った。
ガガは、ルビーの目を大きく見開く。
少年を見ていたはずのその真紅の目は、いつのまにか鏡に向けられ、その中に映るものをまともに覗いていた。
鏡を隔てて、その向こうに佇む少年の姿を――。
「捕まりおった、あの竜……」
カジェーラが呟いた。
「だから言うたのじゃ。やっかいなことを」
「どうなるのですか?」
フィリアスが、カジェーラに訊ねる。
「下手をすると、この城と花畑がまるごと吹き飛ぶであろうよ。小さくとも竜じゃからな。それくらいの力は持っておろう」
「えっ……」
フィリアスが絶句した。
(セリアン。セリアン……)
誰かが、かれの名前を呼んでいた。
誰だろう。
聞き覚えのある、懐かしい声。
呼ばれると安心し、切なくもなる声。
ああ、これは父さんだ。
泣き声も聞こえる。
絶叫するような、激しい泣き声。
あれは、母さんだ。
母さんが泣いてる? 何で泣いているんだろう。
かれは両親を探そうとしたが、何も見えなかった。
かれは闇の中に浮かんでいた。
手を動かそうとしたが、動かなかった。
まるで金属の塊に変化してしまったかのように、体はとても重かった。
ただ、周囲の声だけが、妙に大きくはっきりと聞こえていた。
どうしたんだっけ、ぼくは。
そうだ。落ちたんだ。登っていた木から。
子猫が木から下りられなくなっていたから、助けようとした。
でも、枝が折れたんだ。
ものすごい音がして――。
子猫は、無事だったのかな。
とてもかわいい子猫だった。木の上で、不安そうに震えていた。
「この子はもう、助かりません」
両親以外の誰かの声がした。
聞いたことのない声だ。
落ち着いた、大人の男性の声だった。
「そんな、先生……」
「どうか、どうか……」
父の声と母の声がした。やはり、二人とも泣いているようだった。
「まだ……まだ六つなんですよ、この子は。何でこんな歳で死ななきゃならないのです?」
「残念ですが……。私にはご子息を治してさしあげることは出来ません」
医者らしきその声の人物が言った。
「でも、先生。先生は、猫族の方なのでしょう?」
「猫族なら、魔法が使えますよね?」
すがるような両親の声。
そうだ。猫族のお医者。
岬の館に住んでいる、あの人だ。
かれは思い出す。
何度か、庭で薬草を摘んでいるのを見かけたことがあった。
その人物は、白い髪に黄色の目をしていた。
ぼさぼさの髪の中に隠れてはいたが、耳は尖っていて、人間よりはもっと上の位置にあった。猫のように。
館で何か魔法の研究をしていて、たまに町の医者が匙を投げるような重病人が出ると、人々から請われて出かけ、治していた。
彼は猫族で、天の彼方に去った同族がいつか迎えに来るのを待っているのだと。
そういう話もかれは聞いていた。
だから、彼のことをよその人に話してはいけないよ。
話したら、彼は悪い人たちに連れて行かれてしまうからね。
悪い人たちは、彼が持っている魔法の力を利用しようとしているんだ。
そして、彼が連れて行かれるということは、町からは大切なお医者さまがいなくなるということでもあるんだよ。
町の人たちは、みんな困ってしまうんだ。彼のことは内緒だよ。
大人たちは、子供たちにそう言い聞かせていた。
すると、両親は彼を呼んだのだ。
そんなに酷い怪我だったのだのかな。
全然痛くないし、平気なのに?
ただ、少し体が重いだけで……。
「猫族でも、治せないものがあるのですよ」
彼が、諭すように言った。
「でも、先生は治されたのでしょう。同じような症状の娘を」
父が食い下がる。
「その娘も事故に遭い、町のどの医者からも助からないと宣言された。けれども、先生は助けたのです。噂で聞きました。娘は生まれ変わり、以前よりもはるかに美しい別人となって、ある貴族に見初められ、結婚したと」
「確かにその通りですが……。私は後悔していますよ。果たしてそれでよかったのかと」
猫族の医者が、ためらいがちに言う。
「それは、先生がその娘を治すために使ったのが、死体を繋ぎ合わせて作った体だったからなのでしょう?」
母が呟いた。
猫族の医者が、びくりと緊張するのをかれは感じた。
「いえ、誰も責めてはいませんよ。その娘は助かり、美しい体を得て幸せになった。結婚式は盛大で、王族も呼ばれたとか。先生が後悔することなどあるものですか。皆、感謝していますとも」
「では、先生。セリアンもその方法で治せますよね? たとえ死体を繋ぎ合わせた体だとしても、別人になったとしても、我々は構いません。この子が助かってくれるなら。ただ生きてくれてさえいれば、それでいいんです」
「確かに新しい体があれば、ご子息は助かるかもしれません。けれども、現在は無理です。そうしようにも、ご子息を移せるような体がありません。ここにあったものは、その娘のために使ってしまいましたしね。今は、あのようなものしかありません」
猫族の医者が何かを指し示す。
「あれは……」
両親が息を呑むのがわかった。
奇妙で重苦しい沈黙が続く。
いったい何?
父さんと母さんは、何を見ているのだろう?
かれも見たかったが、相変わらずかれの周りは果てがない闇の空間が広がり、そのままそこに漂っているしかなかった。
「私が最近作ったものです。種族としてはかなり巨大なものですが、小型化に成功しました。しかし、あれは……」
「あれでも構いません。どうか!」
母が叫んだ。
「気が確かとは思えない。あなたのご子息があれになるのですよ。あなたはあれの世話をし、抱きしめなければならないのです。そして、あれを一生愛さなければならないのですよ? そんなことが……」
「出来ますとも。たとえ外見がどうであれ、私の息子なのです。私がお腹を痛めて生んだ我が子なのですよ。愛さないわけがありません。愛せますとも!」
「私からもお願いいたします。どうか……。もちろん、お礼は差し上げます。先生が必要な薬草でも鉱物でも、すべてご用意致しましょう。先生がずっとあの館に住んでいただけるよう、取り計らいますとも。私もセリアンを失いたくはないのです。たとえどんな姿になっても、私たちの子供です。そのことに間違いはありません。お願いします、先生!」
父も言う。
猫族の医者は、ふうっと悲しげな溜め息をついた。
あれって何?
ぼくをどうするの?
いやだ。
ぼくはぼくのままでいる!
猫族の医者が近づいてくる気配を彼は感じた。
やめて。来ないで。
ぼくにさわらないで!!
闇の中にかろうじて繋ぎとめていたかれの意識が、すっと遠くなった。