虜囚たち 2
それは、息が詰まるような暗い石積みの壁だった。
湿った土の匂いが鼻孔の奥に入り込み、ひんやりとした空気がナディルの体を包む。
ナディルとカジェーラは、石の壁で囲まれた狭い廊下に立っていた。
カジェーラが魔法でそうしたのか、すぐに橙色の明かりが幾つも並んで灯り、ちろちろと揺れ始める。
真正面に、四角の光が見えた。
闇の中でそれは、昼間の空を正方形に切り取ったように浮かび上がっていた。
「こちらじゃ」
カジェーラはナディルの手を引いて、四角形の平たい光へと導く。
その四角の光が窓であることに、ナディルは間もなく気づいた。
窓に嵌められた装飾が、向こう側の光を通して影絵のように浮かび上がっている。
それは、猫と戯れる少女の装飾だった。
「ごらん」
カジェーラの伸ばされた手が新たな影となって、表面の装飾に重ねられる。
ナディルは、その窓を覗いた。そして声を上げる。
「これは……」
窓の下は、光に包まれた広間だった。
美しい彫刻が施された柱、高い天井。
天井からは、何千本もの蝋燭が灯った豪華なシャンデリアが吊り下げられている。
広間には、たくさんの人々がいた。
少しずつ間隔を開けて立ち、同じ方角を向いて。
まるで集会でも開いているかのようだった。
けれども、そこに大勢の人々がいるという気配は全くなかった。
息遣いが感じられることはなく、話し声も聞こえない。
そこにあるのは、総毛立つような静けさ。
何者かが邪心を持って作り上げたような静寂。
それは異様な光景だった。
人々は、まるで一瞬のうちに動きを止められてしまったかのよう突っ立っていた。それとも、体の表はそのままに、内部だけが石に変えられてしまったのか。
ある者は手を伸ばし、ある者は自分の肩を抱いていた。
その多くの目は閉じられ、開けている者も、うつろなガラスのような眼球をぼんやりと一点に注いでいるだけだ。
人々の中には、オーデルクの衣装を着た若者が数多くいた。顔を覆い、手を広げ、あるいは剣を高く掲げて。
彼らもまた、微動だにしなかった。
広間で動くのは、シャンデリアの蝋燭の光に合わせて静かに揺れる、人々の淡い影だけだった。
「ここは、昔は舞踏会が開かれた部屋らしいのじゃがな。今では静かなものじゃ」
カジェーラが呟いた。
「カジェーラ。あの人たちに魔法を?」
少女と猫の装飾に指を絡め、ナディルはカジェーラを振り返る。
カジェーラの目は、闇の中では、小さな二つの月のようだった。
猫の時のエリュースの目がそれに重なり、ナディルは軽い眩暈を感じた。
「私は何もしておらぬ。あれじゃ」
カジェーラが、窓の向こうを指差す。
広間の奥に、銀色の卵型の板のようなものが据え付けられていた。
その中の空間にも、広間が続いているのが見える。
柱、シャンデリア、身動きしない人々の姿――。
板を隔てて、広間の光景を寸分たがわず映し取った空間だった。
それは背の高い、大きな鏡だった。
縁に花の飾りがごてごてと施され、翼を広げた鳥の彫刻が、その上に何羽も乗せられている。
「あれは……鏡……?」
「そうじゃ 魔法の鏡じゃな」
カジェーラはナディルの隣に並んで、広間を見下ろした。
「私はこの城に来たとき、あの鏡も一緒に持ってきた。あれは猫族が作ったという言い伝えのある鏡での。魔力を持っておる。私の母の形見であり、アーヴァーンの城を去るとき、私が唯一望んで持ち出せたものじゃ。一族の女性たちは、昔からあれを普通の鏡として使っておった。私も子供の頃からあれを使い、あれの前で化粧をして自分の身を飾った。なぜなら、鏡はその魔力をずっと封じ込められていたからじゃ。けれども、悲しみに打ちひしがれていた私を哀れに思った私の兄が、鏡の魔力を解き放った。あの鏡は覗いた者の心を感じ取る。そして、その者が求めるものを映し出す力を持っているのじゃ」
「心を感じ取って、求めるものを映す……?」
「それは穏やかな言い方じゃな。つまりあの鏡はな、覗いた者の心の傷につけこんで、虜にしてしまう。そういうことじゃ」
「虜に? じゃあ、あの人たちは……」
ナディルは、動かぬ人々を眺めた。
「そうじゃ。心を鏡に捉えられてしまった囚人たち、ということになろうかの」
「そんな……。じゃあ、あれは、人々に災いをもたらす、呪われた鏡では……」
「そうとも言えぬぞ。彼らは間違いなく幸福じゃからな。死に別れた親族と会っている者もおろう。結ばれなかった恋人と再び愛を語っている者もおろう。捨て去った夢を叶えた者もおろう。それぞれの人生の中で、己が望む瞬間を永遠に味わうことが出来るのじゃ」
「でも、でも……それは現実のものではありません。鏡が見せる夢。幻ではないですか!」
ナディルは、声を荒げた。
「夢でも幻でも、必要な者には必要なのじゃ。特に心弱き者にはな。私もかつて、あの鏡を覗いていた。幸せじゃった。あの中には、私が求めるものが現れたからのう。その中に、いつまでもいつまでも、永遠に浸っていたかった」
「あなたは、では、あの鏡の呪縛から逃れられたということなのですね?」
ナディルが訊ねると、カジェーラは微笑んで頷く。
「五十年ほどかかったかのう。鏡が見せるものが幻であることにようやく気づき、嫌気がさして自らあの前から離れるまでな。その間私は、兄の一族にとっては『魔法の鏡を覗いている哀れな姫君』で通っていたようじゃ。皆、そっとしておいてくれた。鏡に関わるのが怖かったからでもあろうな。あの者たちは、何十年かかるかのう。やはり五十年くらいかの」
「カジェーラ。あの人たちは人間です。あなたのように長命ではないし、若さを保つことも出来ません。時間が流れると老いて死んでしまいます。五十年だなんて、むごすぎます。それに彼らには、帰りをずっと待っている人たちがいます。彼らが帰ってくると信じて、毎日せつない思いで過ごしている、あの人たちの数倍以上の人たちがいるんです。どうか彼らを解放してください」
「ナディル王女。猫族の血を受け継ぐ魔女や魔法使いも、やがては時の流れと共に消えて行く定めのものじゃ。ただ魔法が使えるというだけで、人間と何も変わりはせぬ」
カジェーラが、真面目な顔をして言った。
「ま、気の毒とは思うが。解放しようとしてあの鏡を覗けば、私もまた鏡の囚人となってしまうかもしれぬからの。百年前は鏡から逃れられたとはいえ、今私の心がどう反応するのか、私にも見当はつかぬ。また五十年かかってしまうかもしれん」
「あなたがそれほどまでに鏡の中に求めたもの。それはいったい……?」
カジェーラは、ナディルの翡翠色の目を一瞥して、視線をそらせた。
「誰しも心に傷の一つや二つ、持っておろう。年若いそなたもな。この年になれば傷が多すぎるというものじゃ。あるいは忘却という年寄り特有の長所において、鏡を覗いても、私は全く何の問題もなく鏡を破壊できるのやもしれぬ。じゃが、私はそのことに私の力を使いたくはないのじゃ。他の大仕事が控えておるのでな。私も老いた身ゆえ、やることは選ばねばならぬ。鏡のことに力を使い果たしてしまうと、何も出来ぬまま逝くしかないからの」
「大仕事というのは?」
「そなたには関係のないことじゃ。……と言いたいところじゃが、関係ありそうじゃの。私はそのことで、いずれそなたと戦うはめになるかもしれぬ。が、まあ、今は関係のないことじゃ。気にするでない。それより、おお、そうじゃ」
カジェーラが、にっと笑う。
「エリュースは、あの鏡を覗いておったぞ。この前来たときにな。思い出した。その時にはまだこういうお客たちは、ここにはおらんかったからのう。残念じゃな。あやつだったら、解放できたかもしれぬのにな」
「エリュースが?」
ナディルは、思わずカジェーラの黄水晶の目を見つめた。
「では、彼は鏡を覗いても無事だったのですね? 鏡の呪縛からは、すぐに逃れられたと……」
「そうじゃ。じゃが、あやつはあの鏡に慣れておる。子供の頃から鏡を覗いては遊んでおった。いたいけな子供には、心の傷などまだないからの。しかし、成長した今でも、心の傷は一切ないのかのう」
「……あの人たちを解放するためには、あの鏡を破壊すればいいわけですね?」
ナディルは、カジェーラに訊ねた。
心の傷――。
そういうものがないからこそ、エリュースは鏡に呪縛されなかったのではないのか?
自分は彼の心を悩ませるほどの存在にさえなれていないということではないのか……?
溢れそうになる感情と、その中から生まれ出ようとする疑問を、ナディルは無理やり押さえ込む。
「いや。そこまでする必要はない。鏡に布をかぶせればいいのじゃ。そうすればたちまち魔法は解け、あの者たちは自分を取り戻すじゃろうて」
「では、簡単なことです。たとえば、目を閉じて鏡のところまで行くとか、後ろ向きで行くとか。そうすれば鏡を見なくてもすみます。そして、そのまま布をかぶせれば……」
「あの鏡は、何しろ魔法の鏡じゃからの。目を閉じていようが、後ろ向きになっていようが、近づけば魔法は心に忍び込む。抗うことは出来はせぬ。気が付けば……気が付くことが出来ればじゃが、鏡の中をまともに覗くはめになっておるじゃろう」
「でも。彼は……エリュースは大丈夫だったのでしょう?」
「そうじゃの。あやつは特別かもしれぬが、鏡に付け入られぬほどの強い心の持ち主ならば出来るじゃろうな」
「カジェーラ。あの鏡を覆えるくらいの布を用意していただけませんか? それから、私をこの下に降ろしてください」
ナディルは、カジェーラに言った。
「そなたが行って、あの者たちを解放するというのか?」
ナディルは、頷く。
カジェーラは、黄色の透明な目で、探るようにナディルを眺めた。
「じゃが、あの鏡は心の弱みをえぐってくるぞ。そなた、心に傷は持っておらぬのか?」
傷などという程度ではない。
引き裂かれたものを繋ぎ合わせてかろうじて形を保ち、ごまかしながら持続させてきたような心。今でも壊れそうに疼く心だ。
ナディルは、自分の肩を両手で抱いた。
けれども、あれからもう二年もたっている。
時間の流れによって、ある程度は修復できているはずだ。
いや、修復されていなければならない。
エリュースは、鏡を覗いて無事だった。
彼は鏡の中には何も見なかった。
見たのかもしれないが、それに心を惑わされ、囚われることはなかった。
それが答えなのかもしれない。自分がこの二年間、ずっと探していた答えなのかも――。
ならば、自分もそうしよう。鏡に挑もう。
でなければ、彼を超えることは出来ない。
この二年間、さまざまなことを切り抜けてきたのだ。
今度だってそうして見せる。
『翡翠のナディル』は、請け負った仕事は最後までやり遂げなければならない。
カジェーラは、空中から金糸と銀糸で刺繍がされた黒い布を取り出し、ナディルに渡した。
闇夜の空間に咲き乱れる花々を表したような、綺麗な布だった。
「では、行くがいい。ナディル王女。いや、翡翠のナディル」
ナディルの姿は、たちまちカジェーラの前から掻き消えた。
「ナディル!?」
ガガの声が、広間に響く。
広間の扉が開き、ガガがその隙間から飛び込んで来た。
扉がさらに広がり、続いてフィリアスが、ガガがを追いかけるようにして入って来る。
ガガとフィリアスは、緑色の宝石で作られた冠を戴いた長い髪のナディルが、ドレスの裾を引きずり、鏡に向かってゆっくりと歩いて行くのを見た。
しっかりと抱きしめた黒い布の刺繍が、ナディルの腕の中できらきらと輝く。
「ナディル、あんな格好して、いったい何を……」
「あの姫君が、ナディルですって?」
フィリアスが、信じられないという表情をして呟く。
その大きく見開かれたアメジストの目は、前方を横切って行くナディルの姿を呆然と見つめた。そしてその視線は最後に、ナディルが頭に乗せている翡翠の冠に注がれる。
「あの冠は、オーデルクの……」
「そうじゃ。そなたの家の冠じゃの。そして、あれが『翡翠のナディル』の本来の姿じゃな」
フィリアスとガガのそばに、カジェーラがふわりと姿を現す。
ガガは「ひっ」と叫んで、遠くに飛びのいた。
「美しい冠じゃ。翡翠のナディルには、よう似合う」
カジェーラが、夢見るように、うっとりとして呟いた。
「私はあの冠をあの姫にやった。冠が欲しければ、あの姫と交渉するのじゃな。私は知らぬ」
「では、この広間には、私が捜し求めていたものが、すべて揃っているというわけですね」
家臣たちの姿に気づいたフィリアスが、言った。
それから彼は、たった今浮かべた安堵したような表情をたちまち引き締め、鋭くカジェーラに質問する。
「カジェーラ殿。もしや、彼らに魔法をかけたのですか?」
「魔法をかけたのは、あの鏡じゃ。私は何もしておらん。同じ質問に何度同じことを答えねばならぬのじゃ。そなたの臣下たちは、勝手にこの広間に入り込み、勝手にあれに捕まりおった」
カジェーラは、広間の奥に据え付けられた大きな鏡をめんどうくさそうに目の動きで示した。
「鏡? 鏡だって? 何だよ、あれ。この人たちをこんなふうにしたのがあの鏡なら、呪いの鏡だ! ナディル! そっち行っちゃだめだあっ!!」
「これっ!」
ナディルのところに飛んで行こうとするガガの尻尾を、カジェーラは素早くつかんだ。
意外と強いカジェーラの力で、ガガは床にびたんとたたきつけられる。
「あの姫は、これから鏡の魔法を封じ込めるところなのじゃ。邪魔するでない。ここでおとなしく見守っておれ」
「封じ込めるとは? ナディルが持っているあの布でですか?」
フィリアスがカジェーラに訊ねた。
「あの布をかぶせれば、鏡の呪縛は遮られ、ここにいる人々はすべて自由になろう。まあ、最も手っ取り早いのは、鏡を粉々に壊すことなのじゃが、あの鏡はそういう殺意を敏感に感じ取るからのう。布をかぶせるほうが簡単じゃ。砕け散った鏡のかけらを掃除する必要もなくなるしの。しかし、あの姫に出来るのかのう。強がってはおったが、相当心に傷を負っていると見たぞ。あの鏡は、人の心の弱みにつけこんで虜にするからのう。誘惑に打ち勝てるかの」
「勝てるわけない。無謀だよ、ナディル。傷どころじゃないじゃないか……」
ガガは不安げに、鏡に近づいて行くナディルを眺めた。
ナディルは、林のように立ち尽くす人々の間を抜けて、鏡に向かった。
その表面に姿が映らぬよう、慎重に近づいて行く。
ナディルがすぐ傍を通っても、人々は動かなかった。
閉じられた目。開いてはいても、うつろな人形のようなガラスの目。
鏡に捕らえられ、彼らは何を見ているのか。心の中では、何が起こっているのか。
鏡が瞬きをしたように、ナディルには思えた。そして、鏡がナディルに気づき、少しナディルに向けて角度を変えたような――。
ナディルは布を握りしめ、鏡から目をそらして進んだ。
床には絨毯が敷かれている。藍色の地に真紅の花模様が鮮やかだった。
ナディルは視線を床に落とし、絨毯に描かれた模様を目でたどりながら鏡に近づく。
やがてナディルは、鏡の前に立った。
だいじょうだ。何も起こりはしない。
ここまで簡単に来られたではないか。
鏡には、ナディルが映っていた。
ドレスに身を包み、オーデルクの翡翠の冠を戴いた、可憐で美しい姫君。
もちろんナディルは、まともにそれを見ることは避けたが、自分が映っていることはわかる。
映るのは当然。これは鏡なのだ。
魔法の鏡でなくとも、鏡は前に立った者の姿を否応なくそのまま映す。
別のものが映らず、普通に自分の姿が映っているらしいことに、ナディルは幾分安堵する。
ナディルは、布を広げた。
この鏡には、眠っていてもらわねばならない。
魔法を封じ、鏡に囚われた人々を解放するのだ。
と、鏡の表面が、風に撫でられた湖のように、ゆるやかに波打った。
(ごらん)
誰かが囁いた。
幼い子供の声だ。
(ごらん)
今度は大人の男性の声。そしてそれは、すぐに女性の声に変わる。
(ごらん、ごらん……)
だがそれは、ナディルの耳ではなく、頭の中で聞こえた。
鏡だ。
鏡が喋っている。
ナディルは、床の一点をただひたすら見つめた。
気分が悪い。
まるで、冷えた手で頭の中をかき混ぜられているような……。
「ナディル……」
その声に、ナディルはぴくりと顔を引きつらせる。
「ナディル」
声がもう一度、名前を呼ぶ。
聞き覚えのある、懐かしい声。
時がたとうと忘れもせぬ、忘れられもせぬ、あの声だ。
「やめて」
ナディルは、呟いた。
「彼は、ここにはいない。私の心を探って偽者を作り上げたって、騙されない」
リーン、と鈴の音が聞こえた。
そして、彼のマントの揺らめきが、鏡から目をそらしているはずの視界の端に、ちらと見えたような気がする。
エリュースの鈴は、カジェーラが持っている。
今ここで聞こえるはずはない。鏡が作った幻聴だ。それは言うまでもないこと。
けれども鈴の音は、本物よりもさらに本物らしく、ナディルの耳に心地よく響いた。
彼のマントがナディルのすぐそばで揺れ、彼の黒い皮のブーツが、ナディルの足元に確かに存在している。
初めて会ったとき、猪の罠から彼の足をはずした。あの時から鮮明な記憶として残る、彼のブーツが。
ナディルがもう少し頭を上げれば、きっとエリュースの胸が見えるに違いなかった。
そして、さらにそこには、エリュースの銀の髪が、トパーズ色の目が存在する。やさしく微笑みながら、ナディルを見下ろしている。
これはエリュースではない。
ナディルは、目を閉じた。
だが、彼の眼差しを感じる。
彼の息遣いも、確実に聞こえる。
二年間、ずっと思い続けた、そのままのエリュース。
ナディルは、目を開けた。
「ナディルーっ!」
ガガが叫んだ。
ガガとカジェーラ、そしてフィリアスは、鏡の表面が揺らめいた後、そこから幽霊のように、ふわりと人影が抜け出すのを目の当たりにした。
闇色のマントをまとったその美しい若者は、銀の髪と黄水晶の透明な目をしていた。
「エリュースだ!」
「そのようじゃ」
カジェーラが、ガガに同意する。
「あの姫君の心の傷は、やはりエリュースなのじゃな」
「あれが、エリュース……」
フィリアスが呟いた。
「でも、でも、エリュースじゃないよ! おかしいよ。ここにはいないんだろっ!」
ガガが叫ぶ。
「むろん、偽者じゃ。あの姫の頭の中を探って、鏡が出してきた幻影じゃよ」
「そんな……。ナディル!」
鏡の中から抜け出たエリュースは、ナディルのそばに立ち、ナディルをじっと見下ろした。
「ナディル! 鏡に騙されないで! 早く布をかけちまうんだっ!」
ナディルにはガガの声はよく聞こえたが、手は布をつかんだまま動かなかった。
「ナディル……」
懐かしい感触が、ナディルの肩を包んだ。
エリュースの手だった。
この二年間、ずっと憧れ続けた手。
その手で髪を撫でられ、抱きしめられたいと、気の遠くなるような回数を願い、憧れ続けた手。
そのあたたかさに、ナディルはうつむいたまま、顔を歪める。
銀の髪がナディルの視界の隅できらめき、鈴が澄んだ音をたてた。
香を焚いた香りが、ほのかに漂う。彼の香りだ。
ナディルは、手を伸ばした。
手が彼の胸に触れる。
それは、確かにそこに存在していた。ナディルの記憶のその通りに。
ナディルは、手を引っ込めた。
「あなたはエリュースじゃない」
ナディルは呟く。
「これは幻だ」
「幻ではありませんよ」
鏡から抜け出たその人物が言った。間違いなく彼の声だった。
二年ぶりに聞くその声は、さらに続けた。
「ナディル。私はずっと鏡の中で、あなたを待っていたのです」
「嘘だ。あなたはこの城を出て行ったはず。カジェーラからそう聞いた」
「出て行ったのは体だけです。心はここに」
エリュースが言った。
「あなたは私を置いて、行ってしまったのに。なぜ?」
「いつも、あなたのことを思っていました。あなたの姿が心に焼き付いて、あれでよかったのだろうかと何度も自問しました。あなたを連れて離宮を出なかったことを後悔しています」
それは、ナディルが望んでいた彼の言葉だった。
彼が言うはずもない言葉。夢の中でさえ、聞くことの出来ぬもの。
エリュースは、ナディルの髪を撫でた。
そしてナディルを引き寄せる。
「エリュースじゃない。エリュースは、そんなこと絶対に言いはしない」
「だが、私は言いましょう。何度でも、あなたが望むだけ」
鏡が作り上げたエリュースは、ナディルを抱きしめた。
「私はもうどこにも行きません。あなたと一緒にいましょう。あなたのそばにずっといて、あなたが望むことをすべてかなえましょう」
ナディルは、確かめるように、エリュースの背中に手を伸ばした。
彼の広い背中。たくましい腕。そして銀の髪。彼の香り。
二年の間、ナディルが望んだものたち――。
切なく恋焦がれ、それのために数えきれぬほどの涙を流した。
それが今、この手の中にある。そして、もうどこにも行かぬと約束しているのだ。
それは、本物のエリュースが、決してナディルには与えぬであろうものだった。
手に入らぬものを追い求めるよりも、ここでこのまま、このエリュースの申し出を受け入れたほうが、幸せなのではないだろうか?
本物のエリュースは、鏡の中に何も見ることなく、行ってしまった。
彼の心に傷はなく、弱みもなかった。
自分を置いて行った後悔も、思い出も、ひとかけらだってありはしない。
ナディルは、ぼんやりと考えた。
ここにいれば、確実に心を癒され、安らかになる。
悪夢にうなされることもなくなり、心地よい眠りが約束されるだろう。
息の詰まる夜も、現実を思い知らされる眩い朝も、もう来ることはない。
少しだけ、彼の顔を見てみよう。一瞬だけ……。
ナディルは、彼の胸のあたたかさを感じながら、思った。
これが偽者なら、その目が自分の思っている通りの彼の目であるはずがない。
自分には、わかるはずだ。
きっと見抜いて、抗える。
ナディルは、顔を上げた。
そして、エリュースの目をまともに覗き込む。
それはやはり、ナディルが二年の間、大切に記憶に刻んでいたエリュースの目の色だった。
それを縁取る睫毛も。銀色の眉も。
ナディルが覚えていた通りのエリュース――。
けれども、ナディルの姿は彼の瞳には映っていなかった。
その眼差しは、確かにナディルにやさしく注がれているというのに。
(なぜ? エリュース、私を見ていないの?)
「見ていますよ。これからも、ずっと。永遠にあなたを……」
鏡が作り上げた虚像の目には、何も映ろうはずがない。それこそが、偽者である証拠。
けれども、ナディルの疑問は鏡の魔力で薄められ、心地のよい眠りの中に、たちまち吸収されて行く。
「ナディル。もうあなたを離しません……」
「エリュース……。エリュース……!」
エリュースの腕の中で、ナディルの心は満たされていた。
あれほどまでに恋焦がれ、求め続けていたもの。それが今、手に入ったのだ。
ナディルの目から、涙がこぼれる。
この二年間に流した涙とは違う涙だった。
もう、あんなにつらい、苦い涙は流さない。永遠に……。
私はここにいる。
エリュースと一緒に、ずっと、ここに……。
ずっとずっと、彼に見つめられ、抱きしめられて、眠る……。
ナディルの手から、鏡を覆うための黒い布が、ばさりと落ちた。
ナディルの両腕は、エリュースを抱きしめた状態のまま凍りつき、ナディルの翡翠の目からは、光が消える。
「ナディール!!」
ガガが、悲鳴に近い声で叫ぶ。
エリュースの姿は、消えていた。
両手を宙に掲げたナディルだけが、鏡の前に残されていた。
鏡は満足げに、その平らな銀色の表面をゆらりと波立たせた。