大公妃の冠 2
「なぜ、そなたにそのようなことを話さねばならぬのじゃ?」
カジェーラが、ナディルに言った。
その透明な黄色の目は凍ったような光を帯び、ナディルをじっと見据える。
それまでの、どこかのんびりしたような穏やかな雰囲気は、完全に消え去っていた。
警戒と不快、そして苛立ちが、隠されることなくナディルに伝わってくる。
まずい。彼女を怒らせてしまったら……。
もし何か魔法でも使われてしまったら……。
ナディルは不安になり、躊躇する。
いや、大丈夫なはず。
まず素性、そして立場を明確にしなければならない。
もし自分が思っている通りなら、彼女の態度も変わるはずだ。
もしかすると、最初にそれらを明かしてしまったフィリアスは、賢明だったのかもしれない。
本人はもちろん、特に深く考えずにしたことなのだろうが。
彼は能天気に見えるが、抑えるべきところは抑えているのかもしれない。
ナディルは、フィリアスを少し尊敬した。
「私は……あなたが付けておられる鈴の持ち主を追いかけてきました」
ナディルは言った。
かすれそうになる声を平静を装って搾り出す。
「……エリュースか」
カジェーラが、ほうっと短い溜め息を交えて呟く。
ナディルは、胸に当てていた手をぎゅっと握りしめた。
しっかりしなければ。
このことを訊くために、自分はここに来たのではないか。
逃げ出しそうになる意識を無理やり心に縛りつけ、ナディルは自分を奮い立たせた。
「やはり、ご存知なのですね」
「誤解のないように言っておくがの。これはエリュースが私に預けたものじゃ。あやつから取り上げたものではないからな」
預けた……。
では、エリュースはカジェーラと知り合いということなのか。
それより、預けたということは、彼はここにはいないということを示すのでは?
彼は鈴を彼女に預けて、この城を去った……。
ナディルは、鈴を指し示すカジェーラの指を見つめた。
白く細い指に輝くのは、猫がルビーを抱えている金の指輪。
ナディルの尋常ならざる視線に気づいて、カジェーラの警戒心が再び高まったようだった。
「私はその指輪と同じものを持っています。私の指輪は猫ではなく、ガガのような金の竜です」
「金の竜とな。それはぜひ見たいものじゃな」
カジェーラは、ナディルに手を差し出した。
ナディルは、首を振る。
「残念ながら、今は持っていません。今頃は指輪をたずさえた者と共に、アーヴァーンに戻っているでしょう」
「アーヴァーン……か。娘。そなたの本当の名は?」
カジェーラが訊ねた。
「ナディル・リア・ジフル。アーヴァーンの第一王女です」
「ほう。アーヴァーンの姫君とな」
カジェーラの目が細められた。
どういう感情がその奥にはあるのか、ナディルには推測すら出来なかった。
自分の望む結果は得られなかったのだろうか。
ナディルの胸を一筋の黒い雲のような不安がよぎって行く。
「それはそれは。もし本物の姫君なら、このような辺鄙なところにようこそ、じゃな」
カジェーラが、歌うような調子で言った。
「それを証明するものはありません。信じていただくほかには」
ナディルが言うと、カジェーラは、ふっと微笑んだ。
少女が子猫に笑いかけるような、愛らしい微笑みだった。
「証明せずとも、私にはわかるがの」
「あ……?」
気が付くと、離れたところにいたはずのカジェーラは、ナディルのすぐそばにいた。
魔法を使ったらしい。
カジェーラはナディルの肩に手を回し、耳に口を寄せる。
「っとお会い出来ましたね、王太子殿下。お久しゅうございます」
カジェーラは頬をほんのりと染め、ナディルを見つめる。輝くような笑顔だった。口調もそれまでとは違っている。
「私は……王太子ではありません」
ナディルが呟くと、カジェーラは頷いた。
「そなたの体の中に存在する、ある方に話しかけただけじゃ。そなたの中に流れている血をたどれば行き着くであろう、ある方に……」
「ユーフェミアですね。アーヴァーンの女王だった人。私の直系の先祖の一人です」
離宮の廊下のあの絵の下に貼られていた小さな金属の板――。
それに書かれていた名前を言うと、カジェーラは嬉しそうに再び大きく頷いた。そして、ナディルの髪を指に絡めて軽く引っ張る。
「やはり似ておるのう。髪の質などそっくりじゃ。長くないのが残念じゃの」
「カジェーラ。あなたは、ファルグレット侯爵の身内の方なのではないのですか? 侯爵と一緒にユーフェミアの前から姿を消してしまった姫君。かつてアーヴァーンにいた、王家にとって大切な一族の姫君なのでは……」
ナディルが言うと、カジェーラは寂しそうに微笑んだ。
それからナディルから少し身を引き、丁寧に腰をかがめてお辞儀をした。
アーヴァーンのどの貴族の娘のお辞儀よりも丁寧で礼儀正しく、そして優雅で心がこもったものだった。
「ファルグレット侯爵は、私の兄。私は幼き頃より、ユーフェミアさまのおそば近くにお仕えさせていただきました。ユーフェミアさまにとって、どなたよりも気心が知れた友人であったと、恐れながら自負しております」
カジェーラが頭を下げたまま言った。
「じゃあ、あなたは侯爵の妹さん……。だから……だから、侯爵と一緒に行かざるを得なかったのですね」
ナディルの夢の中に現れた、銀の髪の若者とマントの少女。
銀の髪の若者はファルグレット侯爵であり、共にいた少女は、彼女――カジェーラだった。
あのマントには、赤い髪、黄色の目の少女が包まれていたのだ。
「私たち一族の選択は、間違っておりました。私は今でもそう思っております。逃げるのではなく、隠れるのではなく、堂々と国王さまに助言申し上げるべきでした。長老たちは、浅はかにも期待していたのです。宮廷を去っても、いずれは事は収まるだろうと。ユーフェミアさまが無事に即位されたら、自分たちは再び請われてアーヴァーンに戻れるであろうと。そして、兄とユーフェミアさまも無事に結婚し、兄はアーヴァーンの女王の夫に納まるであろうと……」
「でも、そうはならなかったのですね。アーヴァーン王家は、あなた方を探さなかった。そしてユーフェミアは別の男性と結婚してしまいました。彼女をずっと待っていてくれた、やさしい男性と……。彼もまた、私の先祖となりました」
「若い娘は、そんなに長い年月を待つことなど出来ようはずもありません。人間の娘が若くいられるのは、ほんのわずかな期間。その間に恋をし、伴侶を決めなければならぬのです。特に王家の方ともなれば、必ずその短い時期に結婚をして、子孫を設けなければならぬ定め」
「カジェーラ。もしやあなたにも決まった方が……?」
ナディルの質問には答えず、カジェーラは続けた。
「過ちを認めぬまま長老たちは亡くなり、残された一族もやがては散って、その存在も忘れ去られていきました。この指輪は、アーヴァーンの王家から嫁いだ私の先祖の持ち物。私の一族がアーヴァーン王家に連なることを示す指輪です。今さら私が持っていても、もう何の意味もありませんが」
カジェーラは指輪をいとおしげに撫で、それから立ち上がった。
「となると、やはり私の記憶は間違いではなかったようじゃの」
元の口調に戻り、彼女はナディルをしげしげと眺めた。
「棺の中に横たわる、長い黒髪の姫君。やはりあれはそなただったのじゃ」
「それはどういうことですか? 私はいずれそうなると?」
ナディルが訊ねると、カジェーラは、にやりと笑う。
「エリュースじゃよ。しかし、そなたは見ることは出来ぬのう」
エリュース……。
その名前を再び彼女の口から訊いて、ナディルの体は総毛立つようだった。
心臓が激しく、熱く脈打っている。気を失いそうになくらいに。
なのに冷たい液体のようなものが、肌をじわりと這い下りて行く。
「取りあえず、案内しようかの。あの公子と竜は、まだ戻ってこぬようじゃが、そのうち我々を探し当てるであろうし。先に行って待っておってもよいじゃろう」
「案内って……どこにですか? 見ることは出来ないって、何を? エリュースに関係のあることなのですか?」
「あの公子が行きたがっていたところじゃよ。そこに案内しよう」
「翡翠の冠のところですか?」
ナディルが訊ねると、カジェーラは、くくっと笑う。
「翡翠の冠は返してやる。そう言ったであろう。そなたたちがここまで来たその勇気と無謀さを称えてな。これもまた、私が持っていても無意味じゃ。というより、厄介者じゃ。見るたびにいやな気分になるからの」
カジェーラが手を宙にかかげると、その手のひらの上に、金と緑色の石で作られた、見事な冠が現れた。
上質の翡翠が惜しげもなくふんだんに使われ、その神秘的な輝きは、それぞれに命を閉じ込めたかのように瑞々しい。
特に中央にはめ込まれた翡翠は、氷河の透き通る緑を映したような大粒のもの。見る者を魅了し、その内部に引きずり込んでしまいそうな妖しい緑――。
それは、オーデルクの大公家の栄光と繁栄を示す宝冠だった。
「翡翠のナディル。その名の通り、これはそなたに似合いそうじゃの。ぜひ見たいものじゃ。これをその頭に戴き、その少年の衣装をこれにふさわしいものに着替えて、私に見せてくれぬかのう? そうすれば、さらにすんなりとこれを公子殿に返して差し上げてもよいぞ。エリュースのことも話してやろう。どうじゃな?」
もちろんナディルは、同意するしかなかった。
フィリアスに素性が知られてしまうことなど、もうどうでもよかった。エリュースのことがわかるのなら。
「では行こうかの、翡翠のナディル。いや、やはりアーヴァーンのナディル王女と呼ぶべきかの」
ナディルは、差し出されたカジェーラの手を取った。
その手はやわらかく、心細く思えるくらいに華奢なものだった。
けれどもその内部からは、すがりつきたくなるような安らかな温かさが、ゆったりと溢れて来る。
ナディルはその手を強く握った。