大公妃の冠 1
「……ったく。何でぼくが、公子さまのお守りなんかしなきゃなんないんだよ」
廊下を低く飛びながら、ガガはぶつぶつと呟いた。
光の届かない廊下は薄暗く、明かりも灯されてはいない。
カジェーラは、この城にひとりで暮らしている。
使わない場所には明かりを灯す必要もないのだろう。
あるいは、当然魔法を使って城内を移動するだろうから、そういった物さえいらないのかもしれなかった。
ガガは鼻をひくつかせながら、微かに感じる公子の匂いをたどっていく。
石で出来た床には、たくさんの細かいものが散らばっていた。
何かが粉砕されたかけらのようだ。
おびただしい数のそれらが、床を埋め尽くすようにして広がっている。
「そういえば、何だろ、これ」
ガガは興味を引かれて、床に降りてみた。
まるで大き目の形の悪いビーズをぶちまけたようだった。
足の裏から、その冷たい感触が伝わってくる。やはり硬い石のかけらのようだ。
「何でこんなに散らかしてんだ。掃除しろよな、あの婆さん」
<何じゃと?>というしゃがれ声がどこかから降ってくるような気がして、ガガは思わず首をすくめた。
それからガガは、石のかけらを爪の間にすくいあげ、口から炎を少しだけ出して眺めてみる。
「これ……。宝石だ……」
赤い透明な石が、炎の中に浮かび上がった。
揺れる光を受けて燃えるように輝く、宝石のかけら。
ガガの爪からこぼれ、きらめきながら床に落ちていく。
「ルビー……だよね。これ全部?」
ガガは、もっとたくさんの炎を噴き上げて、廊下を照らしてみた。
床に散らばっているのは、確かにすべてルビーだった。
廊下は柘榴の実を大量にばらまいたかのように、透明がかった赤に溢れている。
それは人間の血を連想させるような、ぞっとする色でもあった。
「集めた宝石を粉々にして、廊下にばらまくのが趣味なのかな、あの魔女」
ガガは再び翼を広げて舞い上がり、低空飛行を続ける。
「もしかしてオーデルクの翡翠の冠も、ばらばらにされてるんじゃ……」
その時ガガは、フィリアス公子の匂いを強く感じた。
廊下の突き当たりに部屋があり、その扉がわずかに開いている。
隙間からは、明るい光が漏れていた。
その付近にあるルビーは、扉から届く光に照らされ、健康的で鮮やかな赤に染まっている。
「公子さま見っけ! たぶん、あの中だ」
ガガは、扉の隙間から部屋の中に滑り込んだ。
けれども、扉のすぐ向こうに突っ立っていたフィリアスの背中に、いきなりどすんとぶつかってしまう。
「わああっ! 不覚……!」
ガガは、床に落下した。
叩き落とされた蝙蝠より無様だと内心情けなく思いながらも、ただちに気持ちを切り替えて起き上がる。
「公子さま、何でこんなところにっ……」
ガガは、そのまま言葉を飲み込んだ。
突っ立っているフィリアスの向こうにあった意外なものに、目が釘付けになる。
光は、そこから発せられていた。
「公子さま。これって……」
「ごらんなさい。何てきれいなんでしょうね。さっきから見惚れているのですよ」
フィリアスが、どこか夢を見ているような表情で呟いた。
そのアメジスト色の目は、そこにあるものに真っ直ぐに注がれていた。
ガガもまた、それを凝視する。
驚きと、素直な感嘆を込めた眼差しで。
そこにあったもの――。
それは光をまとって浮かんでいた。
銀色を帯びた、輝くような白。床に向かって広がる、長い裾。
豪華な刺繍が施された生地には真珠が散りばめられ、胸元にはルビーで出来た飾りが縫い付けられていた。
幾重にもなった薄い花びらのような透明なベールが、まるでそれを守っているように、上からかけられている。
ベールには、白い花の飾りが沢山付いていた。
それをまとう者の美しさを限りなく引き出し、その者が持つ気品と若さをこの上なく際立たせるもの――。
それは一枚のドレスだった。
貴重な芸術作品であるかのように、あるいはそれ自体が宝石であるかのように、光に囲まれ、大切に飾られているドレス――。
ガガはフィリアスの隣にゆっくりと移動して伸び上がり、そのドレスを眺めた。
ナディルが舞踏会で着た衣装よりも、はるかに上等な生地で作られ、そして清楚だった。
舞踏会とは全く別の用途に作られたドレスであるということが、一目でわかる。
「これ……。もしかして……」
「そう。花嫁衣裳ですね」
フィリアス公子が頷いた。
「しかも、オーデルクのね。古いもののようですが、かなり身分の高い女性が着る衣装ですよ」
「オーデルクの? 何でそんなのがここにあるんだろ?」
「カジェーラがどこかで手に入れたか……。あるいは別の理由か、ですね」
「別の理由?」
「カジェーラ自身の持ち物で、だからこそ、ここにこうやって飾ってあるか、です」
「カジェーラの? それ、どういう……」
「その美しいお姫さまは、ある日、銀の猫と一緒にどこかに行ってしまいました。そして、二度と戻ることはありませんでした」
フィリアスが、暗誦するように呟いた。
「それは……」
「オーデルクの伝説です」
「この間、ちらっと言ってたよね。昔、ナディルみたいなことをやって、消えてしまったお姫さまがいたってこと……」
「状況は少し違うかもしれませんよ。ナディルは、ご自分の意思で恋人の銀猫を追いかけて、消えてしまわれたようですが。その姫君がそうだったのかどうか……。銀猫は、お姫さまを無理やり連れて行ったのかもしれません」
「無理やり連れて……?」
フィリアスは、さらに暗誦を続ける。子供におとぎ話を聞かせるように、抑揚をつけてゆっくりと。
「それは結婚式の少し前のことでした。どこを探しても、お姫さまも猫も見つかりませんでした。お姫さまを失った花婿は嘆き悲しみ、床に臥してしまいました。……そして私は、その話は伝説ではなく、本当にあったことだと聞いています」