薬湯と竜の指輪 1
薬草が入った熱い湯にナディルは体を横たえ、目を閉じた。
よい香りを含んだ湯気を吸い、湯の中に体をゆらゆらと浸していると、気持ちが落ち着く。
旅の疲れが湯の中に溶け出していきそうだ。
湯浴みは久し振りだった。しかも薬草入りの湯にお目にかかるのは。
いつも泊まる宿には粗末なベッドしかなく、体は水で拭くくらいだった。
川や滝のそばを通るときは、ガガを見張りに立たせて、思う存分体を洗う。
もう慣れたとはいえ、やはり水は冷たく、芯まで冷えきった体を火のそばであたためなければならなかった。
熱いお湯は、アーヴァーンの離宮を思い出す。
もしかしたら、目を開ければあの場所に戻っていて、侍女たちの姿が周りにあるかもしれない。
彼女たちの笑い声が響き、陽気な冗談が飛び交っているのが聞こえるかもしれない。
そんな錯覚さえ、ふと抱かせる。
湯浴みが済んだら、カジェーラにあの鈴のことを訊かなければ。鈴というより、エリュースのことを。
彼女は、お茶の用意をしてくれているはずだった。
フィリアスは、もちろん冠と臣下たちのことを訊ねるだろうが、自分は別のことを話題にせねばならない。
どんな答えが返ってくるのだろう。
なぜ彼女があの鈴を持っているのか。
鈴を持っていたエリュースは、今どこにいるのか。どうしているのか。
エリュースもフィリアスの臣下たちと同じように、この城のどこかにいるのだとしたら……。
「そなたに、どこかで会わなかったかのう?」
聞き覚えのある愛らしい声が、近くから聞こえた。
ナディルは目を開ける。
カジェーラが浴槽のすぐそばに立って、ナディルを見下ろしていた。
真紅の髪がナディルの肩に触れるくらいの至近距離で波打ち、トパーズ色の透明な目がナディルを捉えている。
チリン、と彼女が付けている鈴が鳴った。
「わーっ!」
ナディルは、思わず声を上げる。
お湯がばしゃばしゃと派手な音をたて、大量に床にこぼれた。
「な、何かっ?」
「女同士なのじゃから、そんなに騒ぐこともないじゃろ」
カジェーラが、少し気を悪くしたように呟く。
「い、いきなり現れたら、驚きます!」
「さっきから、ここにいるのじゃがの。そなたが気づかなかっただけで」
カジェーラは、あどけない少女の仕草で小首をかしげた。
正体を知らなければ、そして彼女が喋りさえしなければ、誰からも何の疑いも持たれぬそのままの外見で通るに違いない。
「ナディル、どうかしたっ!?」
ガガが翼をぱたぱたと羽ばたかせ、慌てて飛んでくる。
カジェーラがナディルのそばに立っているのを目にした途端、ガガはまた飛び上がった。
「ひっ! 何でここにいるんだよ、この婆さんっ!」
「それは、誰のことかの?」
カジェーラに鋭く一瞥され、ガガは落下しそうになったが、かろうじてふらふらと浮上する。
「最初、馬でこちらに向かっている姿を見たときは、華奢な少年かと思ったが……。やはり女であったな」
「別に男装しているつもりはありません。最も動きやすく、仕事がしやすい服装をしているだけです」
ナディルは、カジェーラに言った。
「そうだよ。見りゃわかるだろ。あんな格好をしてても相当な美少女だって」
ガガが、補足する。
「ふむ……」
カジェーラは、ナディルの濡れた黒髪と翡翠色の目、そして、ほんのりと薄紅に染まった肩の線を眺めた。
その二つの黄色の目が、何かを思い出そうとするかのように細められる。
気の遠くなるくらいの沢山の過去の残像の中から、たった一つの何かを探しているかのように。
その表情、その目が、エリュースに似ているような気がして、ナディルはどきりとした。
(エリュースの……鈴……)
ナディルは、カジェーラが付けている鈴を見つめた。
カジェーラは濃い緑のドレスに着替え、肩にふわりとした半透明のショールをかけていた。
金色の鈴は細い鎖に付け直されて、彼女の真っ白い胸元に、唯一の装飾品として控えめに輝いている。
やはりエリュースの鈴に間違いない。その色も形も。そして音色も。
自分が見間違うはずがない。
なぜこの鈴を彼女が身に付けているのか。
「……長い黒髪、白い肌の美しい少女」
カジェーラが、呟いた。
「え?」
ナディルは、彼女の顔を見上げる。
「花に囲まれた少女じゃった。目を閉じていたので、瞳の色はわからぬが。そう。棺じゃ。その少女は、棺の中に納まっておった。たくさんの花に覆われて」
「な、何を……」
ガガの口から、炎がこぼれた。
「棺の中に横たわる、長い黒髪の姫君。あれは、そなたではなかったかのう」
「棺だって? 何を寝ぼけたこと言ってんだ、この魔女!」
ガガが、ごおおと炎を噴き上げる。
白い湯気の中に、青と赤の炎が勢いよく踊った。
「私の城で、竜にそういうことはされたくないの。火事になったらどうしてくれる?」
カジェーラが眉を寄せ、ぎろりとガガを睨む。
「ガガ、おやめなさい。失礼だよ」
ナディルに言われて、ガガは炎を引っ込めた。
「失礼なのは、どっちなんだよ」
「それは……予言ですか?」
ナディルは、カジェーラに訊ねる。
棺に横たわる、長い黒髪の少女。
それが自分のことを、自分の未来を示すなら……。
(私は死んでしまうということなの……?)
けれども、ナディルは今そんな姿はしていない。
長い黒髪も白い肌も、離宮にいた頃――二年前までの姿だ。
「いや。私がどこかで見た光景じゃ。とすると過去じゃな。そんなに昔ではない。ごく最近じゃ。私があまり覚えていないということは、そういうことになろうな。年寄りは昔のことはよく覚えておるものじゃが、最近起こったことは、とんと記憶が飛んでしまうからのう。全く歳は取りたくないものじゃな」
カジェーラが屈託なく、明るく言った。
「なんだ。じゃ、ナディルじゃないってことじゃん」
ガガが、ほっとしたように呟く。
「いや。そなたじゃったよ。ほぼ間違いなかろう」
カジェーラが言ったので、ガガは再び炎を吐きそうになった。
「ぼくは、ナディルが小さいときからずっと一緒にいるけど、そんな、棺に入るようなことはなかったぞ。断言できる!」
「まあ、耄碌した年寄りの言うことじゃからな。まともに取り合わぬことじゃな」
カジェーラがにやりと笑ったので、ガガはまた飛び上がる。
その時ナディルは、自分のすぐそばで上品に重ねられたカジェーラの手に、金色の指輪が嵌められていることに気が付いた。
指輪にはルビーが輝いている。
大粒の真紅のルビー。ガガの目の色。
ナディルが持っているものとよく似たルビーだ。色合いも大きさも、磨かれ方も。
ルビーは、金の猫が抱えていた。
尾の長い、可愛らしい猫だった。
(アーヴァーンの王家の指輪……?)
ナディルは、その指輪を凝視する。
もしそうだとしたら?
なぜ彼女がそういうものを持っている?
フィリアス公子は、カジェーラは宝石を集めていると言った。
だとすると、どこかから手に入れてきたのだろうか。
この指輪だけではなく、もしかしたらエリュースの鈴も。
どこか別の場所で手に入れ、持ち帰ったのだとしたら?
ならば、この城にエリュースはいないことになる……。
カジェーラは、ナディルの視線に気づいて、さりげなく指輪を引っ込めた。
彼女の動きに合わせて、再び鈴がチリンと微かに鳴った。
「カジェーラ。その指輪……。それもあなたが集めたものですか?」
「これは、私が家族から受け継いだ唯一の宝石じゃ」
カジェーラは答えて、小さな溜め息をついた。
ナディルは、彼女の横顔をじっと見上げる。
「あなたのご家族……。今は……」
「私がこういう歳じゃからの。もうみんな逝ってしもうたよ。私も、間もなく彼らの所に逝かねばならぬ。いくら魔法を使って若く装ってはいても、やはり寿命は訪れる。全うすれば、土に還らねばならぬ」
魔法をまとった少女の裏側にあるのは、年老いた本当の彼女の姿。
ナディルにはもちろんそれは見えなかったが、気の遠くなるような寂しさ、そして悲しさが、滲み出すように透けているのをナディルは感じた。
何か……何かがわかりそうな気がした。
すべての答えが、その寂しげな横顔の中にあるような。そんな気がした。
カジェーラは、一瞬ナディルの翡翠色の目を見つめ返し、それから視線をするりと逸らせた。
「私がここに来たのは、着替えを持ってきてやったからじゃ」
カジェーラは、浴槽の近くのテーブルを指差した。そこには、きちんと畳まれた衣服が置かれていた。
「一応、そなたに合いそうな少年の服にしておいたが。姫君のドレスのほうがよかったかの」
「ありがとうございます。少年の服で結構です」
ドレスなどを着て、フィリアスに正体を暴露するようなことをするのも気が進まなかった。
それに最近そういうものは着ていないので、久しぶりに着ると裾を踏みつけないとも限らない。
「お茶の用意……してくださってるんですよね。急いで上がりますから……」
ナディルが言いかけると、カジェーラは首を振った。
「まだ上がらなくてもよいぞ。あの若者は、お茶を飲む気分でもないらしいからの。ゆっくりつかって、旅の疲れを落とすがよかろう」
「フィリアスのことですか? 彼が何か?」
「自分で家来を探すのだと、城の中をうろうろしておる。あとで案内してやると言ったのに、せっかちなことじゃ。妙なところに迷い込まなければよいのじゃが」
カジェーラは、いたずらっぽく顔をしかめて見せる。
「妙なところ?」
「何せ、魔女の城なのでな。危険なものがいっぱい置いてあるのじゃ。あやつもまた、家来のようにならないとも限らぬのう」
「ガガ!」
ナディルは、床に降りて、ちんまりと座っているガガを振り返る。
「フィリアスについていて! 心配だ」
「ぼくはナディルが心配だよ。ぼくがフィリアスのところに行ったら、ナディルはこの魔女と二人っきりになるじゃないか。何されるかわかんないよ」
「大丈夫だよ。この人は悪い人じゃないもの」
ナディルが言うとカジェーラは、驚いたように目を見開いた。
ガガは、本当かよと言いたげに、思いっきり首をかしげる。
「少なくとも、私はそう信じる」
「それもナディルの勘ってやつ? なら、ぼくも信用しなきゃいけなくなるけど」
「うん。信用してくれて大丈夫だと思う。だから、行って。彼のところへ。私たちは雇われたんだよ。彼を守らなくちゃいけない」
「……わかった。じゃ、気をつけて」
ガガは金色の翼を広げて、舞い上がった。
しばらくナディルとカジェーラを交互に見比べ、それから決心したように、くるりと向きを変えて扉に移動する。
ガガが行ってしまうとナディルは、勢いよく湯から上がった。
「おや。大胆じゃの」
カジェーラは、特に驚いた様子もなく、ナディルの体をしげしげと眺めた。
濡れた髪は艶やかな黒味をさらに増し、短く切られた髪の先から透明な雫がしたたり落ちる。
熱い湯に充分あたためられた薄紅の肌を通して、薬草の香りが匂い立った。
ナディルの体は、カジェーラの目に美しく映ったはずだった。
「先ほど騒いだのは、何じゃったのやら」
「だから、あなたが突然現れたからです」
ナディルはカジェーラの前を堂々と横切り、彼女が用意してくれた服を素早く身につける。
「裸体を他人に見せることは平気なのじゃな」
カジェーラが幾分あきれたように、しかし興味がある様子で訊ねた。
「同性の前では慣れてますから。異性に見られるのは、もちろん遠慮したいですけど」
「ほう?」
城にいた頃は、いつも侍女たちに囲まれていた。
だからナディルは、カジェーラに体を見られても特に抵抗はない。
それに、この人は、もしかしたら……。
ある疑問が、ぼんやりと膨れ上がってくる。
そう。あの指輪を見たときから――。
「カジェーラ。あなたにお聞きしたいことがあります」
服を着終わったナディルは、カジェーラに向き直る。
訊かなければならない、この人に。
そのために、私はここに来たのだ。
「なんじゃ?」
カジェーラは、トパーズ色の目で、ナディルを見つめた。
そのエリュースによく似た目を間近に見て、ナディルは確信する。
やはり、間違ってはいない。
ここに来てよかったのだ。
そして……思いも寄らぬことを彼女から聞けるかもしれない。
薬草の香りが、はやる気持ちと沸き上る緊張感を適度に静めてくれる。
ナディルは、大きく息を吸ってから続けた。
「あなたが付けておられるその鈴のことを教えていただけませんか? 鈴の持ち主のことも。それから、あなたの指に輝いているルビーの指輪……。その話も、もっと詳しくお訊きしたいのです」