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暗殺者 1

 離宮の尖塔に、薄いレースで包まれたような月がかかる頃。

 パサリという乾いた小さな音を聞いたような気がして、ガガは目を覚ました。

 壁にくっついていた何かとても軽いものが、床に落ちたような――。


 もちろん、竜であるガガの耳にかすかに聞こえた音なので、人間がわかるような音ではない。

 ガガも、それが本当に聞こえたのかどうか確証はなかった。

 夢だったかもしれない。あるいは空耳。


 ガガがふと頭を上げると、月の光の中にナディルが立っているのが見えた。

 白い寝間着をまとい、流れるような長い黒髪で背中を覆った姫君。

 けれども、ナディルは微動だにせず、息をひそめるようにして、淡い光を浴びている。

 いつもの穏やかで奥ゆかしいナディルではなく、剣の稽古をしているときのような、ぴんと張り詰めた緊張感と落ち着いた闘争心を持ったナディルだった。


「げ。こんな時間に戦闘体勢? ナディル、何やってんの? 寝ぼけてる?」


 ガガが起き上がろうとすると、ナディルがぴしりと言う。


「動かないで!」


「へっ?」


 ナディルは、ガガに近いある場所を鋭い目の動きで示した。

 ガガがそのあたりを見ると、毛布のくぼみに何か黒い塊が張り付いていた。

 塊からは、醜い毛で覆われた枯れ枝のようなものがいくつも放射状に伸びている。

 それは、その塊の手足だった。


「うわ、蜘蛛だっ!」


 ガガが叫ぶ。


「でかい。こんな大きな蜘蛛が入り込んでくるなんてっ!」


「勝手に入って来たんじゃないと思うんだよね」


 ナディルが呟く。


「え?」


「この蜘蛛、アーヴァーンにはいない蜘蛛だ。子供の頃、蔵書室にあった本で見たことがある。もっと遠い南の国にしかいない蜘蛛だよ。しかも毒を持ってる」


「毒っ!?」


 ガガは、蜘蛛を睨んだ。

 蜘蛛は少し胴体を浮き上がらせる。

 それは、ガガを威嚇しているような姿勢にも見えた。


「……毒蜘蛛か。自分で入って来たんじゃないとしたら、あと方法は一つしかないよね。とにかく、運のいいことに事が始まる前に見つけたわけだから、遠慮なく潰しちまえばいいんじゃないの?」


 ガガは、尻尾をひらりと蜘蛛のほうに動かそうとした。

 けれども、ナディルの鋭い声が飛ぶ。


「動かないでってば! 飛び掛かられるよ! 普通の毒蜘蛛じゃない。巨大な竜だって、鱗の間から噛まれたら一瞬で倒されてしまう。それくらいの毒を持ってるんだ」


「ひっ!」


 ガガの体はたちまち固まり、金色の置物と化した。


「まったく、そんな大層なものを送り込んでこなくてもいいのにね。私を殺したいんだったら、もっと簡単なものでも十分なのに。アーヴァーンでも、夜になるとよくその辺を飛んでいる毒蛾とか。食べるものに毒きのこなんかを仕込んだっていいわけだし。森の中にたくさん生えてるから取り放題だ」


 ナディルが、溜め息をついて言った。


「じゃ、やっぱり、お妃が?」


 ガガが置物の竜になったまま、ナディルを見上げる。


「わからない。彼女にそんな度胸があるのかな。側近の誰かかもしれない。次の国王のそばで、権力を握って富を得たい誰かとか」


「このこと、王様に言おうよ。デュプリー公爵でもいい。黙ってたらだめだよ、ナディル」


「それより、今はこれを何とかしなくちゃね」


 ナディルは、そろそろと片手を上げる。

 その手には、銀色の細長いものが握られていた。


 いきなり向きを変え、蜘蛛が壁にふわりと飛びつく。

 まるで、そういうおぞましい形をした小さな濃い闇が、壁を這い上がったようだった。

 蜘蛛は、するすると恐ろしい速さで移動し始める。


「うわあああっ!」


 ガガが声をあげた途端、ナディルの手から銀色のものが投げられた。

 それは月の光を反射しながらベッドを素早く横切り、蜘蛛を簡単に貫いた。


 ガガは、壁に留めつけられた蜘蛛をこわごわと眺める。

 蜘蛛を留めつけているのは、ナディルの髪飾りだった。

 たくさんの美しい花があしらわれたピンの先が、蜘蛛の胴体の真ん中に刺さっていた。

 赤い血が一筋の線となって、蜘蛛から滴り落ちる。

 月の光が作る影が加えられ、動かなくなった蜘蛛の足は、倍以上の本数に見えた。


「お見事! さすがナディル!」


 ガガが嬉しそうに叫ぶ。


「日ごろの稽古の成果だ。デュプリーに感謝しよう。ここまで仕込んでくれたことを」


 ナディルは、呟いた。

 それからナディルは寝間着の裾を引きずって床を横切り、部屋の扉を開ける。


「ちょっと着替えてくる。用意をしなきゃ」


「用意? 何の?」


「殺されずに済む用意」


 ナディルの姿が部屋から消えた。

 ちらりと見えた横顔は、まだ残っている緊張のせいか、あるいは月の光のせいなのか、尋常ではないくらいに青白く見えた。

 

「着替えとなると、やっぱりついていけないからなあ。でも、何で殺されずに済む用意が着替えなんだろ」


 残されたガガは、ぽつりと呟く。

 ナディルとは四六時中一緒にいるが、入浴や着替えのときは、さすがに遠慮していた。ナディルのほうはあまりこだわらないようだったが、それくらいの良識は持ち合わせているのだ。


「しかし、気持ち悪いな」


 ガガは再び、動かなくなった蜘蛛をいつでも逃げ出せる体勢で見つめた。


 やがて扉が静かに開き、ナディルが帰って来る。

 着替えの終わったナディルを何気なく眺めたガガは、驚いて飛び上がった。


「ナディルっ!? その格好は!?」


 ナディルが身につけている服は、王女の服ではなかった。

 それは旅人の衣装。アーヴァーンの町でもよく見かける服装だった。

 旅の途中にある少年たちが着ているもの。

 丈夫な上質の生地で作られた灰緑の上下の服、風雨や強い日差しから確実に守ってくれそうな灰色のマント。黒の皮のブーツ。腰に下げられているのは細身の剣。

 その服装は、ナディルには似合わないはずだった。長い髪をした、王女のナディルには。

 けれども、今ガガの前に立ったナディルには、よく似合っていた。

 それはナディルの髪が少年のように、首筋のところで短く切られていたからだ。


「そ、その髪はっ! あんなに大切にしていた、あのきれいな長い髪は!?」


 ガガは、叫んだ。

 ナディルの短い髪の先には、無理やり引きちぎられたような痛々しさが満ちていた。

 

「邪魔だから切ったよ。この格好に合わないでしょ。この服はね、ずいぶん前から用意していたの。デュプリーのすすめでね。いつ何が起こってもいいようにって」


 ナディルは、微笑む。


 髪を切ったナディルには、確かに痛々しさのようなものは感じられるが、凛とした涼やかな気配が全身を惜しみなく包んでいた。

 表情もこわばってはいるものの、前よりもすっきりと穏やかに思えるのは、ガガの錯覚なのだろうか。


「邪魔? 王宮に帰るのに?」


 ガガが訊ねると、ナディルは首を振る。


「王宮には帰らない。これ、王宮に帰るための衣装じゃないでしょ?」


 ナディルはマントを広げ、くるりと回って見せた。


「そ、それは、見ればわかるけど。旅の衣装……だよね。まさか……」


「そう。ここから出て行くよ。決めたの」


 ナディルは静かに、そして噛みしめるように呟く。


「出て行く! 出て行くって! 王宮に帰らないで、んでもって王女の身分を捨てて、家出するってことっ!?」


 ガガは、翼をばさばさと震わせた。


「そういうことになるね」


 ナディルは、ごく軽く答える。


「そ、そんな……。やっと王宮に帰れるという時に?」


「ここにいても王宮にいても、何も変わらない。王宮にいられないからここにいたのに……。ここにいる理由も、もうなくなってしまった。私がいないほうがいいと思ってる人たちが存在するってこと。その人たちがそういう行動を積極的に起こしたってこと。もうそれで十分だ。ここにももう、いられない。この城にいる他の人たちも巻き込んでしまう」


 ナディルは眉を寄せ、蜘蛛を一瞥した。それは怖気をふるうような赤と黒の二色で、壁を不気味に汚していた。


「だけど、ここから出て行って、どうするの、ナディル? ナディルは王女さまなんだよ。ずっとそういう暮らしをしてきた。なのにいきなり市中へ出たりなんかして……」


「エリュースと同じことをする」


 ガガは、ナディルの答えに赤い目を見開いた。


「同じことって、まさか!」


「そう。賞金稼ぎ。出来ないかな、私に」


 ナディルは、にっこりと笑った。


「デュプリーは、私の剣の腕は確かだと言った。明日からでも、一流の傭兵にでも賞金稼ぎにでもなれるくらいだってね。外の暮らしについては、書物で読んで知ってる。召使いたち、そしてエリュースからも山ほど聞いた。補えないときも、切り抜ける術は持っていると自負する」


「そ、そりゃあ、毒蜘蛛の襲撃がわかるくらいだから、たいしたもんだとは思うけど……」


 ナディルは微笑を消し、真面目な表情になった。


「エリュースが行ってしまってから、ずっと考えていた。初めはただ悲しいだけだったけど、だんだん腹が立ってきたの」


「え……?」


「彼は、幸せにって言った。幸せに。私にとっての幸せって何だろう。王宮に帰っても、ここにいても、そしてどこかの国の王子と結婚しても、私は幸せじゃない。私が望むのは、彼だ。彼のそばにいること。彼が行く前からわかっていた。たとえどんな生活であっても、どんなに危険であっても、彼と一緒にいるということ。それが私の幸せなんだ」


 ガガは黙り込んだまま、ナディルを見上げる。


「エリュースは、私が誰かに守ってもらわなければ生きていけない姫君だと思ってる。私は彼が思うような、ひ弱な花じゃない。砂漠でも岩山でも、きっときれいに咲いて見せる。自分の身も自分で守れる。彼が間違っていたことを、私を連れて行かなかったことが間違いだったってことを、きっと証明する」


「証明って、ナディル……? エリュースを……追いかけるの?」


 ガガは、ナディルに訊ねた。


「賞金稼ぎをしながらね。彼を探して、見つけ出す。彼は、私の願いをかなえてはくれなかった。私が望んだ思い出をくれなかった。だから、単なる思い出として吹っ切ることも出来ない。私の心は行き場を失ってしまった。だから心をなだめ、静める行動が必要だ」


「それが、彼を追いかけること?」


 ナディルは頷く。


「この先、こんな心を抱えたまま生きていくなんて……。このまま他の誰かと結婚しなければならないなんて、真っ平だ」


「で……それからは……? エリュースを見つけた後は?」


「見つけた後? 私が自分で自分の身をちゃんと守れて、彼と同じことが出来るということを彼にわかってもらう。いつも冷静なあの彼の、驚く顔を見たらそれでいい。それで満足だ」


 違う。本当は、自分はそれ以上を望んでいる。

 彼が別れ際に言った「あるいはそうしたのかもしれません」という答えに、すがるような希望を繋いでいる。

 エリュース。あなたは、あんなことを言ってはいけなかったんだよ。

 「やはり、そうはしなかったでしょう」って言わなきゃいけなかったんだ。

 そうすれば私も、あなたをあきらめられたのに。

 私はあなたの中に、私に対する未練を見てしまった。

 あなたの言葉の中に。あなたの態度の中に。あなたのその黄色い透明な目の中に。

 私を拒むなら、とことん拒まなければいけなかったんだよ……。


「彼はまた、大人としてナディルを拒否するかもしれないよ。追いかけてきたことを怒るかもしれない」


 ガガが言う。


「それならそれで、あきらめがつくというもの。そのときは覚悟を決めて宮殿に帰り、戦いに臨むかな。殺されない自信はあるからね。それとも、どこか、誰も私を知らない静かなところを探して隠れ住むかも。それは、その時になってみなければわからない」


 ナディルは目を閉じ、天井を仰いだ。

 彼のそばにいたい。

 彼の手で髪を撫でられ、彼の口づけを受けていたい。

 生まれてから今まで、こんなに何かを欲しかったことはなかった。


 だが彼は、自分を欲しがってはいないのだ。

 そのことを思うと、気分がとてつもなく沈みこむ。

 あなたは、私がいなくても生きていける。

 私がいなくても、きれいな景色を見て感動し、何の屈託もなく友人たちと語り合い、あなたの必要とする人たちに微笑みかける。愛する人の髪を撫で、目を見つめる。

 私は、あなたの思い出の中に登場する人々の一人にしかならない。


 けれども、そんなことは許さない。

 私を置いて行ったことを、たとえ一瞬でもいい、あなたに後悔してほしい。

 でなければ、私の心は永遠に静まらないだろう。

 それはナディルの、王女としての自尊心であったのかもしれなかった。


「じゃあ、ぼくは止めない。だけど、やっぱりナディルにとって外の世界に出るということは、並大抵のことじゃないと思うよ。おまけにエリュースと同じ商売をするなんて……。当然、ぼくも一緒に行くからね」


 ガガが言った。


「ガガ……?」


 ナディルは驚いて、金色の竜を見下ろした。

 ガガはきちんと座って、ナディルを見つめていた。

 ルビーの瞳が部屋の明かりで燃えているように見える。


「王女として育ったナディルには世間常識が欠如しているだろうから、お供が必要だよ。ぼくは、だてに長生きしてないから、お供になってあげよう。それに、ナディルには飾る宝石がなくなっちゃうから、ぼくが飾りにもなってあげる。金ぴかの竜の飾りだよ。目のルビーと、口から吐く炎付き」


「ありがとう、ガガ!」


 ナディルはガガを抱きあげ、頬ずりをした。それから頭の上に乗せる。

 ガガはナディルの頭を包み込み、ナディルは金色の竜の形の兜をかぶった旅の少年のようになった。


「今度月が雲で隠れたら、この部屋を出るよ」


 ナディルが囁く。


「おう。夜の散歩で、もうさんざん慣れてるから、どうってことないさ」


 ガガが力強く、大きく頷いた。

 


 朝になり、離宮はいつもの営みを始めた。

 火が起こされ、朝食の料理の匂いが漂い始める。

 王女の好きな野菜のスープ、焼きたてのパン。外国から取り寄せた果物も、たくさん用意された。

 けれども、離宮の主であるナディル王女と飼い竜の姿は、どこを探しても見つけることは出来なかった。

 離宮は騒然とし、直ちにデュプリー公爵の屋敷に使者が走った。


 ナディルの部屋に入ったデュプリー公爵は、毒蜘蛛がナディルの髪留めで壁に串刺しにされているのを目にした。

 それから彼は、離宮の武器庫の片隅にナディルが切った髪を発見し、ナディルがそこに用意していた旅の衣装がなくなっていることも確認した。

 しかしデュプリー公爵は、何も言葉を口にすることなく、ただ険しい表情を顔に刻んだだけだった。

 彼は、ナディルの切り落とされた髪を丁寧に整えて束ね、ベッドのナディルがいつも寝ている位置にそっと置いた。そしてナディルの部屋を閉めきり、その扉にはいくつもの鍵をかけさせた。


 離宮はすぐに、何事もなかったかのように静けさを取り戻した。

 次の日も、料理は作られ、パンが焼かれ、果物が倉庫から出された。

 その次の日も。そのまた次の日も。

 ナディルがいた時のように。いつものように――。


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