歓迎 1
「着きましたよ。二人とも、もう目を開けても大丈夫です。何てきれいな庭なんでしょうね」
鼻歌がやみ、楽しげなフィリアスの声が聞こえた。
ナディルは、目を開ける。
城の門は、大きく開かれていた。
まるで来るものを拒まず、それどころか、待ちわびていたかのように。
三角錐や円筒形、そして様々な動物の形に刈り込まれた木々、花の模様の彫刻が施されたいくつものアーチ、小さな石の階段。
それらを飾るように、庭一面に咲き乱れているのは、霞のように見える白い花々。
花畑に飛んでいた蝶たちが、この庭にも、ふわふわと漂うように舞っている。
ナディルとフィリアスの馬は、門の前に並んで佇んでいた。
ナディルが、ちらっと後ろを振り返ると、あの鳥のような不気味な物体の群れは、きれいに消え去っていた。
美しい空が広がり、白い雲だけが平和に流れて行く。
それはおそらく、フィリアスがナディルの馬を引きながらずっと見ていたであろう、ここの本来の景色だ。
「どうぞお入りって言われているような……」
ナディルの頭にしがみついたガガが、呟いた。
「歓迎されていない、というわけではなさそうですね。いや、大歓迎かもしれませんよ」
フィリアスが、明るく言う。
「行きましょう、翡翠のナディル」
二頭の馬は、門を抜けた。
庭をゆっくりと通り、城へと向かう。
何事も起こらなかった。
風の吹かない穏やかな庭が奥まで広がり、動くものはといえば、ナディルたちの一行と花の上を飛びかう蝶たちだけ。
城の玄関扉もまた、開け放たれていた。
ナディルとフィリアスは馬を降り、注意深く扉をくぐる。
城の中は白で統一され、光り輝くようだった。
明り取りが至る所に設けられ、光がふんだんに届くようになっている。
白い空間を和ませるように、あちらこちらに置かれているのは、薄紅色の花の束。
蝋燭の火が背の高い燭台の上で、控えめに燃えていた。
ガガはナディルの頭から離れ、周囲を自由に飛び回って、独自に探索を始める。
「静かですね。誰も出てこない」
ナディルは、あたりを見回しながら呟いた。
「留守でしょうか、カジェーラは」
フィリアスが心配そうに言う。
「ナディル、公子、こっちへ来て!」
ガガの声が遠くからした。
ナディルとフィリアスは、ガガが先程消えた奥の間へと走る。
「見てごらん」
ガガは空中で羽ばたきながら、部屋の中央を指し示した。
長方形の大きなテーブルと椅子が、そこには置かれていた。
テーブルの上には食器がきちんと並べられ、焼きたてのパンが籠に盛られている。
銀製の大きな深皿には、色鮮やかな野菜が入ったスープ。その隣には、食欲をそそるような焼き目が付き、香草がまぶされた鳥肉。
他にも、野菜と肉を焼いて彩りよく並べたもの、かわいらしい形をしたお菓子、小粋な形に切られた果物など、数多くの料理の皿が、テーブルに置かれていた。
その半分近くは、ナディルが知っている料理だった。
ナディルが離宮で食べていた料理もある。
「ほう。これは、オーデルクの郷土料理ではないですか」
ナディルが止める間もなく、フィリアスは料理の皿の一つから一片つまみ上げ、口の中に放り込む。
「うん。うまい。懐かしいな。カジェーラは、オーデルク出身なのかな」
「こちらは、アーヴァーンの料理ですよ」
ナディルは、きれいに盛られている野菜の料理を指差した。ナディルの好きな料理で、離宮でもよく出てきたものだ。
「じゃあ、カジェーラは、オーデルクとアーヴァーンで料理を習得した、とかかな?」
フィリアス公子が、のんびりと言った。そして、今度はどれをつまみ食いしようかと品定めを始める。
「公子さま。オーデルクの料理があるということは、カジェーラがあなたの正体を知っているということなのでは?」
ナディルは、冷静にフィリアスに言った。
そしてもちろんカジェーラは、ナディルの正体も知っていることになる。
ここに並んでいる料理は、オーデルクとアーヴァーンの料理。
宮廷料理のような豪華なものではないが、貴族の娘たちが結婚前にたしなみとして習得するような、こじんまりとして家庭的な、けれどもそれなりに華やかさのある料理だった。
カジェーラは二人の素性を見破り、それでわざわざこのような料理を出してきたのだろうか?
「何でわかったんだろう。しかし、私にちなんでこういう料理を作ってくれたということは、とにかく歓迎はされているということですよね。せっかくだから、いただきましょう。お腹がさっきからうるさいのですよ。オーデルクの料理なんて久し振りだな。とても嬉しいです」
フィリアス公子は、既にさっさとテーブルにつき、ナイフを握りしめていた。
「公子さまのように、素直に座っていただく気にはなれないんですけど」
ナディルは、料理を食べ始めたフィリアス公子に冷たく言った。
「別に毒などは入っていないようですよ。魔法で作られたものでもありません。美味です。ガガくんはどうですか? 一緒にいただきましょう」
「そりゃあ、これだけおいしそうな料理を見せられちゃ、食べたくないわけはないけどさ。何でアーヴァーンとオーデルクの料理なんだよ?」
ガガも、ナディルと同じことを考えたらしかった。
カジェーラは、ナディルとフィリアスの正体を見抜いていると。
ルビー色の目を瞬かせ、不安そうにガガはナディルを見る。
「あいにく私は、オーデルクとアーヴァーンの料理しか作れぬからのう」
その時、妖しいくらいに可愛らしい声がした。
蝋燭の火が、風も吹かないのに踊るように揺らめく。
ナディルとガガは、声がしたほうを振り返った。
フィリアス公子も料理を食べるのをやめて、声の主のほうへ顔を向ける。
階段に少女が立っていた。
足元にまで届く長い髪は、血の色を思わせる真紅。
肌は髪の色を際立たせるような、透けるような白。
そしてナディルたちを見下ろす目は、二粒の大きなトパーズ。それはエリュースと同じ色の目だった。
少女は、レースが美しい白いドレスに銀の帯を締め、真珠の飾りの付いた薄いベールをまとっていた。
外見の歳はナディルと同じくらい、あるいはもう少し年下かもしれない。
ゆっくりと、少女は階段を降りた。
少女の動きに合わせて、澄んだ鈴の音が響く。
ナディルは、彼女のベールを留め付けている飾りの先に、金色の鈴が下がっていることに気づいた。
それは、ナディルがよく知っている鈴だった。
あれは……エリュースの鈴。
彼がいつも胸元に下げていた鈴だ。
この音色、あの輝き。間違いはない。
やはり彼は、ここに来たのだ。
だが、なぜこの少女が彼の鈴を身に付けている?
ナディルは、冷たくなっていく自分の手を握りしめた。
少女は、客人たちに微笑んだ。
あどけない顔がほころぶ。
「私はカジェーラ。そなたたちが探していた魔女じゃ」
少女が言った。
言い回しはともかく、同年代のどの少女よりも美しく、愛らしい声だった。
けれども、ナディルたちに注がれる不思議な黄色の目は、エリュースよりもはるかに歳を重ねていた。
「カジェーラ? あなたがですか?」
フィリアスが、椅子から立ち上がる。
「驚きました。こんなにお若い姿をしておられるとは……」
「皺くちゃの腰の曲がった老婆で、鍋をかきまぜていなくて、残念じゃったな」
カジェーラは、ちろっとガガを見る。
ガガは、びくんと飛び上がった。
「もしかして、性格ものすごく悪いんじゃないの」
ガガは、カジェーラに聞こえないように呟いた。
「よう来なさったの。食事の用意をしておいた。もう召し上がっておられるようじゃが。湯浴みの準備も出来ておるから、ゆっくりなさるとよかろうて」
「ご親切なお心遣い、痛み入ります。ありがとうございます」
ナディルは、丁寧にアーヴァーン式のお辞儀をする。
カジェーラの瞳の奥に、何か遠い記憶に触れたような、淡い光のようなものが走った。
けれどもそれは、一瞬のうちに消えてしまう。
「カジェーラ殿。私は、オーデルクの公子フィリアスと申します。それから、翡翠のナディルと竜のガガ」
フィリアスが言った。
彼もまた、オーデルク式に、優雅に礼をする。
カジェーラは、ナディルがお辞儀をしたとき以上に、何かを感じたようだった。
彼女は人形のように、階段に突っ立っていた。
「あーあ。自分から正体をばらしちまったぞ」
ガガが、小さく呟いた。
「公子さまが、真剣に彼女と向き合いたいっていう証だよ。正体を隠していたら、こちらの心も通じないし、彼女も心を開いてくれはしない。交渉は決裂だ」
ナディルはガガに言った。
「でも、私の素性は、気づかれていないみたいだけど。アーヴァーンの料理は、彼女がたまたま作れるから作ったような感じだし」
明かしたほうがいいのだろうか。フィリアスがそうした以上は。
ナディルは悩む。
しかし、冠を探して彼女に会いに来たのは、フィリアス公子。
ナディルは単にお金で雇われたお付きであり、用心棒だ。
素性がそれほど問題になるとも思えない。
「オーデルクの公子さまか。次期大公じゃな。それはそれは。そのようなお方が、こんな無粋な城に来てくださるとは。光栄の至りじゃな」
カジェーラが言う。
彼女の頬が、ごく薄く染まっているように思えるのは気のせいだろうか。
ナディルは、嬉しそうに微笑むカジェーラを見上げた。
「門番たちは、無事に巻いてきたようじゃの」
「門番って……。空に浮かんだ、あの鳥みたいなもののことですか?」
ナディルは、思わずカジェーラに訊ねた。
「そうじゃ。かわいかったであろう?」
「かわいいだと? ブキミとしか形容のしようがないじゃ……」
ナディルに睨まれて、ガガは慌てて言葉を飲み込んだ。
「私にはそのようなものは見えませんでしたが」と、フィリアス。
「カジェーラ殿。やはり、それは魔法ですか」
「ほほう。見えなかったとな。ふむ……」
カジェーラは興味を引かれた様子で、フィリアスをしげしげと眺めた。
「ま、門番は必要じゃからの。この城を守るために。そして、この年寄りを守るためにな。よからぬやからが、城の宝石を目当てにやってくるからのう」
「カジェーラ殿」
フィリアスが、姿勢を正す。
そして彼は、真面目なアメジスト色の目を彼女に注いだ。
「オーデルクの若者たちが、この城に来たはずなのですが。翡翠の冠を求めて。ご存知ですね?」
「あの失礼な盗賊どものことか。そなたの臣下たちだったのか?」
カジェーラが眉を寄せる。
「盗賊?」
「あやつらは、来るやつ来るやつほぼ全員、挨拶をすることもなしに、いきなりこの城に忍び込み、さんざん城内を徘徊して、あちこち荒らしおったぞ。全く教育がなっておらんのう」
「それは……申し訳ないことをしました。私からお詫び申し上げます。どうかお許しを」
フィリアスは、再び丁寧に頭を下げる。
カジェーラは、はるか遠くにあるどこかの場所を見つめているような目で、彼をじっと見下ろした。
「彼らは、まだこの城の中にいるのでしょうか。オーデルクには戻ってはおりませんが」
フィリアスが訊ねる。
「おるよ」
カジェーラは、あっさりと認めた。
「どこですかっ。いったいこの城のどこに彼らを……」
フィリアスが、少し声の調子を荒げて言う。
「別に取って食っておりゃあせん。ちゃんと生きておる。安心するがよいぞ。監禁してもおらぬ。好きなように連れて帰るがいい。というより、目障りじゃから連れ帰ってくれれば助かるというものじゃ」
カジェーラが、ふっと溜め息を混じえて答えた。フィリアスは姿勢を正し、再び頭を垂れる。
「失礼致しました。では、遠慮なく連れ帰らせていただきます。ところで翡翠の冠は……」
「それもここにある。返してやってもよいぞ。そなたが正当な持ち主のようじゃからな。それより、料理が冷める。とっとと済ませて、湯浴みなどもしてくつろぐがよい。着替えも用意しておるからの。それからじゃ。ゆっくりと熱いお茶でも飲みながら、世間話でもしようではないか?」
カジェーラは、にっこりと魅力的に微笑んで、提案した。