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過去の幻 ―ユーフェミア― 3

「ナディルさま。久々に、お手合わせ願えますか?」


 その朝。

 一月ごとの御機嫌伺いに来ていたデュプリー公爵が、ナディルに申し出た。


「そうしなよ、ナディル。気分転換になるよ」


 ガガにもそう言われて、ナディルは剣を取る。

 剣の冷たい銀色のきらめきは、束の間、ナディルを取り巻く様々なことを忘れさせた。

 自分の名前や身分、過去、今いる場所などさえも、頭から消え去ってしまう。

 もちろん、昨夜の夢も。エリュースのことも。

 剣を振るい相手の動きを読み、体を動かすことが、ナディルのすべてになる。

 けれども、剣を置くと世界は再び姿を現し、行き場のない心を閉じ込めているということを、否が応でも思い出すのだった。


「デュプリー。私の剣は、どうですか?」


 庭の階段に腰をかけ、汗を拭いているデュプリー公爵に、ナディルは訊ねた。


「それはもう、姫さまの腕前は、かなりのものでございますよ」


 デュプリー公爵は答えた。


「暗殺されちゃ大変だってんで、さんざん鍛えこんだからねー」

 と、ガガが横から口を挟む。


 デュプリーは鋭い眼差しで、ガガをキッと睨んだ。


「実践でも通用するかしら。たとえば、その辺の町に突然放り出されても」


「もちろんですとも。明日から、一流の傭兵にでも賞金稼ぎにでもなれるくらいですよ」


「じゃあ、少しは自信を持っていいわけね」


 ナディルは風に髪をなびかせながら、空の彼方に翡翠色の目を漂わせた。


「姫さま。あの銀の髪の若者のことですが……」


 デュプリー公爵が、唐突に言った。


「え?」


 修復しようとしている傷に、突然無遠慮に触れられたような気分になって、ナディルは彼に顔を向ける。


「エリュースのことだろ、爺さん」


 ガガが、ナディルの代わりに言った。


「そういう名前でしたか。舞踏会で姫さまと踊っていたのも、彼ですね」


 ナディルは、頷いた。

 彼と踊ったのは確かだ。

 けれども、それはもう過去の出来事になりつつある。二度と戻らない時間。淡く楽しい思い出にしてしまわねばならぬ出来事なのだ。


「彼は満月の夜になると猫に変身すると、召使いたちが申しておりましたが……」


「猫族の血を引いているらしいからね。先祖返りさ」


 ガガが答える。


「昔、アーヴァーンの王宮にも、そういう方がいたとか。その方は侯爵家の方でしたが、ある日、一族ごと消えてしまいました。その一族もまた、猫族の血を濃く引いていたのです」


「お父さまが舞踏会で、エリュースと間違えた方でしょう。一族ごと消えてしまったのは、その侯爵が王家のルビーを光らせてしまったからなのでは?」


 ナディルが言うと、デュプリー公爵は驚いたようだった。

 再び彼に睨まれたガガは、ぶんぶんと首を振る。


「ぼくが話したんじゃないからねっ!」


「本当の理由はわかりません。陰謀に巻き込まれたからだとか、魔女が彼らをどこかに連れ去ったとか、さまざまな噂が立ちました。姫さまが今おっしゃられたような噂も、確かにあったようです」


「でも、たぶんルビーが原因だ。ルビーがその侯爵を、国王の後継者として選んでしまったから」


 ナディルは呟く。


「だから身の危険を感じて、一族ごとどこかに隠れちまったってわけだね。後継者争いに巻き込まれて殺されちゃ、たまんないもんね」


「ううん。そうじゃないよ。国王の後継者には王太子が決まっていたの。それで彼は自ら身をひいた。一族でそうすることを決めてね。争いを避けたかったのかもしれないけど、王太子のことが、彼らが消えてしまった本当の理由なんだと思う」


 ナディルは、やんわりとガガの言葉を訂正する。


「姫さま、なぜそうだと……?」


 デュプリーが訝しげに訊ねた。


「夢を見たの。その王太子さまと侯爵の夢」


「夢……ですか。アーヴァーンの王家には猫族の血が多少は混じっていますから、姫さまがそういう夢見の力をお持ちでも、何ら不思議ではありませぬが……」


 あの夢。

 銀の髪の若者を引きとめようとしていた、黒髪とエメラルドの目の少女の夢。

 あれは彼女の子孫たちが受け継いできた、隠された記憶なのだ。彼女から子供へ、そして孫へ、ひ孫へと――。

 それをナディルが見たのは、デュプリーが言うように、猫族の血による不思議な力のせいもあるのかもしれない。


「その王太子は女性だった。たぶん私のご先祖。廊下に絵が飾ってあるから、何代か前の女王さまだ。名前は、ユーフェミア。つまりその人は、無事に国王になったのでしょう?」


「そうです。ルビーは後に、その方を選んだようです。宮殿にいるすべての人々の期待通りに。アーヴァーンでは、男性であれ女性であれ、王位につけます。王太子が女性であることも珍しくはないのです」


「最初から、その王太子を選べばよかったのに」


 ガガが呟いた。


 本当にそうだ。

 もしそうなら、侯爵は彼女の元を去ったりしなかっただろう。

 二人は何の問題もなく婚約し、結婚し、彼女は女王になり、あの侯爵は女王の夫として彼女を支えただろう。

 二人は子供にも恵まれ、末永く幸せに暮らしただろう。

 ナディルは思う。

 けれども、もしそうなっていたら――。

 自分も父も祖父も、そして曽祖父も。

 皆、生まれないことになってしまうのだ。


「とにかく、まあ、王位継承はうまい具合に進んだわけだね。その侯爵一族が消えてくれたおかげで」


 ガガが、ナディルの考えが伝わったかのように、臆面もなく皮肉っぽい口調で言った。


 もちろん侯爵は、そのことをわかっていたのだろう。

 知っていたからこそ、一族ごと身を隠してしまった。


「ナディルも、王太子にさっさとなっちゃえばいいんだよ」


 ガガが呟いた。


「この竜の言う通りでございますよ。でも、姫さまは王宮に戻られるのですし、それも近いうちかと」


「どうだか」


 ガガが、ふんと鼻を鳴らす。

 

「なぜルビーは光ったの? その侯爵は、王家の人間でもないのに?」


 ナディルは、デュプリーに訊ねた。


「その侯爵のお母上は、当時のアーヴァーン国王の妹君だったのです。侯爵家に嫁いだその姫君は、王家の直系の方でした。お子様たちをお生みになってから、若くして亡くなられたそうですが。その方も、母君は正妃さまでした。ルビーが選ぶ範囲内ですよ。ちなみに、姫さまがおっしゃられた王太子さま、つまりユーフェミアさまの母君も、正妃さまです。ですから、もちろんルビーはその後、ユーフェミアさまを選んだのでしょう。他にご兄弟もなく、国王の継承者はユーフェミアさま、ただお一人だけでしたから」


「デュプリー。エリュースはもしかして、その一族と何か関係があると思う?」


「その侯爵も、輝くような銀の髪と黄色の目をしていたということですからね。ゆかりのものであるという可能性は否定できませんが。引き止めて訊ねればよかったですね」


「舞踏会で王様に呼ばれたとき、エリュース、妙に固まっていたよね。何か関係があるのかも」

 と、ガガ。


「国王にいきなり声をかけられたら、普通は固まるよ。人違いであっても。エリュースはああいうところは初めてだっただろうし」


「もし侯爵家ゆかりのものなら、アーヴァーン王家の指輪を持っているかもしれません」


 デュプリーが言った。


「アーヴァーン王家の指輪?」


 ナディルは、思わず自分の指を見下ろす。

 そこには、美しい細工の指輪が嵌められていた。ガガそっくりの金の竜が、大粒のルビーを大切そうに抱きしめている。


「そう。姫さまの指輪と同じ、ルビーの指輪ですよ。侯爵家には王家の姫君が嫁いでいるので、指輪が残っているはず。もちろん、ルビーを持つ動物は竜ではないでしょうけれどね」


 デュプリーが言った。


「指輪は……持っていなかったよね、エリュースは」


 ガガが、考え込む。


「持っていなかった。鈴なら持っていたけどね」


 ナディルも同意する。


「代々、家に伝わる鈴だって言っていたよね。きれいな鈴だった。いい音鳴ってたし」と、ガガ。


「鈴……ですか?」


 デュプリーが首をかしげる。


「鈴のことは知りませんな」


「じゃあ、違うのかもしれない。たとえ彼が侯爵家ゆかりの人だったとしても、彼はもういないもの。関係ないよ」


 ナディルは呟いて、短い溜め息をついた。


「関係なくはありませんよ。猫族の血を引くあの侯爵家が消えて、アーヴァーンは貴重な宝を失ったようなものです。出来れば、もう一度あの一族に……」


「どちらにせよ、彼はもう、ここには戻ってきません。それは間違いのないことです」


 ナディルが強めの口調で言うと、デュプリーは口をつぐんでしまった。

 けれども、すぐに彼は、穏やかにナディルに微笑む。


「時間がきっと、姫さまの傷ついたお心を癒してくれますよ。もう少し辛抱なされば、きっと……」


 デュプリーは、ナディルとエリュースのことを侍女の誰かから伝え聞いたのかもしれない。

 すべてを知っているのに、そんな風に大人の論理と経験で諭すように話す彼が、ナディルは少し腹立たしかった。

 もちろん自分のことを心配してくれていることはよくわかっていたし、ありがたかったとはいえ。


「辛抱? どれだけこの心を抱えたまま、我慢しなければならないの? いったい、いつまで? 彼を思い出にしてしまえるまで? そんなの、気が遠くなる……」


 ナディルは、デュプリー公爵を見つめた。


「あなたは、昔、私のお母さまの恋人だったのでしょう? どうやってお母さまのことを忘れられたの? つらかったでしょうに。行き場のない心は、どうやって静めたの?」


「忘れてはいませんよ。お亡くなりになった今でも、私の心には王妃さまが住んでいらっしゃいます。それに、恋人というのは誤解ですよ。私の一方的な片思いでした。歳も離れていましたしね。姫さまのお父さまとのご結婚が決まったとき、本当に嬉しかったのです。申し分のないお相手でしたからね」


「でも、お父さまには側室がいたのに。お母さまはつらかったかもしれない……。だから、若死にしてしまったのではないの?」


 ナディルが呟くと、デュプリーは顔を曇らせる。


「アーヴァーンでは、一夫多妻が認められていますからね。最もそれを行っているのは王族くらいで、隣国のオーデルクほどではないですけれど。やはり、様々な軋轢や問題が生じますからね。王族に嫁がれる方は、それなりの覚悟が必要なのです。王妃さまもきっと、覚悟はしておられたはずですよ。そもそも、先に側室がいることをご承知で嫁がれたのですから。側室は臣下や外国との絆を深めるために、有効な制度でもあるのです」


「そう……。やっかいな制度だね」


 ナディルは、溜め息をつく。

 それからナディルは、思い詰めたように呟いた。


「私はあなたのように、相手の幸せを素直に祈れない。いい思い出に変化させて、心の中に住まわせることなんて出来そうにない。彼は、幸せになんて私に言ったけど、そんなの無理だ」


「もうしばらくすれば、そのつらいお心も楽におなりでしょう」


「出来れば、今すぐ楽になりたい」


 デュプリーは困ったような顔をしたが、その表情が何かを見つけたかのように、突然明るくなる。


「そうそう、忘れていました。姫君、これを差し上げましょう」


 デュプリーはそう言って話題を変え、薄緑の紐の束をナディルに差し出した。


「これは?」


「サラマンサのロープです。これで縛られた者は、たちまち眠ってしまうとか。護身用にお持ちください」


「ありがとう」


 ナディルは、ロープを受け取った。

 しなやかなそのロープは、草のよい香りがする。作られたばかりのようだ。

 使い方を練習しなければ。これでしばらく、気が紛れるかもしれない。

 ナディルは、ぼんやりと思った。


「やっぱり、お城に戻ったときの、対暗殺者用なんじゃないか。よくこんなの手に入れてきたね。まあ、デュプリーさんは喋る竜を手に入れるツテがあるくらいだから、朝飯前だろうけど」


 デュプリーは例のごとくガガをじろりと一瞥し、気を取り直したようにナディルに言う。


「姫さま、本当にようございました。姫さまが戻られるのが、とても待ち遠しいですよ。これからはずっと、姫さまを王宮でお見かけすることが出来るのです。何と喜ばしいことか。こんなに嬉しいことはございません」


 彼はナディルに向かって、深々と丁寧なお辞儀をした。


「では、私はこれにて……」


「あなたの助力に感謝します、デュプリー公爵。それから……感情をぶつけてごめんなさい」


「いえ。私でよろしければ、いつでも姫さまのおつらさを受け止めて差し上げますよ。これからも、ずっとです」


 デュプリーが、やさしく微笑んだ。ナディルの幼い頃から、常にそうして来てくれたように。


「ありがとう。気をつけてお城に帰ってくださいね」


 ナディルは笑ってデュプリーに言ったが、それがナディルから彼への別れの言葉になった。



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