過去の幻 ―ユーフェミア― 2
ある夜更け、ナディルは目を覚ました。
相変わらず、眠りが浅い。
エリュースが出て行って以来、深く眠ることがないような気がした。
眠っても、悲しい夢を見て、目覚めてしまう。
そういう時は、必ず枕が濡れていた。
(行かないで……)
誰かが、近くで囁いたような気がした。
誰だろう。
若い女性……少女の声だ。
「誰……?」
突然ナディルの目の前に、庭園の景色が広がった。
そこは離宮の庭園だったが、今とは違う季節の花々が咲いている。
空は灰色で、風景全体も、灰色の薄いベールのようなもので包まれていた。
ナディルはその単調な色彩の中に、たったひとりで佇んでいた。
「ここは? ベッドで寝ていたはずなのに?」
ナディルが疑問に思う間もなく、一人の少女がナディルの前を駆けていく。
長い黒髪の少女だった。
彼女が着ているのは、寝間着らしき衣装。そして、彼女は裸足だった。
白い足が、裾が乱れるにも構わず、地面を勢いよく踏みしめる。
ふわふわとしたその衣装のせいで、少女は羽根を付けた妖精のように見えた。
やがて少女の前に、一人の人物が現れた。
その人物は、少女に気づいて振り返る。
銀色の髪、トパーズの目の、背の高い若者だった。
「エリュース!?」
ナディルは思わす叫んだが、彼はエリュースではなかった。
髪と目の色は同じだが、顔立ちや雰囲気は違う。
体格や身長も似ていたが、微妙に、けれども一目で違うとわかるくらいに異なっていた。
彼がエリュースとは別人であることに、ナディルは、ほっと安堵する。
「侯爵……。行かないで、侯爵!」
少女が若者に向かって叫んだ。
「私を……私を置いて行くの?」
「私たちはもう、ここにはいられません。長老たちがそう決めました」
若者が答える。
「あなたは、それに従うというの?」
「従わねばなりません。これは、我が一族の総意なのです」
若者が悲しげに、けれども、はっきりと言った。
彼のそばには、フード付きのマントをまとった、年若い少女とおぼしき人物が立っていた。
その人物は、黒髪の少女にお辞儀をする。
彼女と親しい間柄らしかった。年齢も彼女に近いようだ。
「なぜ? 私たち、婚約するはずだよね? 彼女だって、お隣の国の大公に……。なぜなの? 変な噂を聞いたけど、そのせい?」
「噂は本当です。ルビーが光ってしまったのです。私が誤って触れたばかりに……。それを大勢の人に目撃されてしまいました」
若者が、ためらいがちに言った。
「では、侯爵。ルビーがあなたを選んだのです。あなたが次の国王ということになる。なればいい。私の夫として。そして、私のそばにずっといるといい」
若者は、彼女の言葉に首を振る。
「次の国王はあなたです、王太子殿下。それは揺るぎなきこと。他の誰によっても侵されてはならぬことです。私はあなたのおそばにはいられません。お許しを」
彼女が、何かを叫んだ。
ナディルには聞き取れなかったが、それがその若者の名前のようだった。
「どうか、私のことはお忘れください。私たちは、遠くよりあなたの幸せを祈っております」
若者は向きを変え、マントの少女の肩を抱く。
二人は、その場から掻き消えた。
空気を一瞬だけ、陽炎のように揺らめかせて。
黒髪の少女は、ふらふらと庭園に倒れこんだ。
狂ったように地面を掻きむしり、何度も叫び声をあげ、やがて静かに嗚咽する。
(これは、夢……? 昔、ここで起こったこと?)
ナディルは立ち尽くしたまま、泣いている少女を見下ろした。
彼女もまた、恋人に去られたのだ。
ナディルと同じように、銀の髪、黄水晶の目の恋人に。
だが、彼女がナディルと違うのは、正直に自分の気持ちを彼に伝えたことだった。
<行かないで。私を置いていくの? 私のそばにずっといるといい……>
それは、ナディルがエリュースに言いたかった言葉。けれども、しまいこんで口に出来なかった言葉だ。
ナディルは、彼女が彼に対して、はっきりと自分の思いを告げたことが羨ましかった。
同時に彼の心が、それでも動かなかったことが悲しくもあった。
自分がエリュースにたとえ言えていたとしても、同じ結果になったのかもしれない。
そう思うとさらに悲しくなり、心が痛んだ。
「あなたを追いかけて行けたら、どんなにいいだろう……。でも、私にはそれは許されません。私はここにとどまり、自分の不運を恨んで、ただ嘆き悲しむことしか出来ない……」
しばらく地面に突っ伏していた少女は呟き、ゆっくりと起き上がった。
そして、突っ立っているナディルを振り返る。
ナディルによく似た顔立ちの少女だった。歳もナディルと同じ頃くらいだろうか。
涙で濡れた目は、森の木々の緑。透明なエメラルドの目だった。
もっと成長した姿の彼女を、ナディルは見たことがあった。
頭に冠を付け、正装をした彼女は、泣き顔などではなく、凛々しく気品に満ちた穏やかな表情で、いつも前を通るナディルを見つめていた。廊下に飾られている、歴代の国王の肖像画の中から。
ナディルを見上げた少女は、ナディルに何かを問いかけているように思えた。
ナディルは、冷たい両手を握り締める。
けれども少女は、すぐに視線をナディルの背後に移した。
ナディルがはっと気づいたときには、ナディルの体を通り抜けて、一人の若者が少女に近づいていた。
若者に通り抜けられたとき、ナディルには何の感触も感覚もなかった。
これはやっぱり夢なのだ。過去にこの庭園であったことの夢。
ナディルは改めて理解する。
「姫さま。どうされたのですか? そのようなご様子で」
貴族らしいその若者は、少女に寄り添った。そして自分の上着を脱ぎ、少女の肩にかける。
「侯爵が……行ってしまったの。私を置いて……」
少女はしゃくり上げながら、やっと呟いた。
この若者の出現で、かろうじて止まっていた涙が、再び溢れ出したようだった。
「ご自分から身を引かれたのでしょう。姫さまのことを大切にお思いだから、そうされたのですよ」
若者は、やさしくそう言った。
「大切だって思うのなら、私のそばにいるべきだわ」
若者は微笑み、少女の汚れた足から、丁寧に土を払った。
少女は、涙を溜めたままのエメラルドの目で、若者の横顔をじっと見上げる。
その視線に気づいて、彼は再び微笑んだ。
「私は、姫さまのおそばにずっといますよ。たとえ何があろうと」
「ありがとう。でも、私がそばにいて欲しいのは侯爵なの。ごめんなさい……」
「お待ち致します、ずっと。姫さまが、私にそばにいて欲しいとお思いになるまで」
若者は、にっこりと笑った。
ふと気が付くと、ナディルはベッドの上に座っていた。
別の季節の灰色の庭園も、黒髪の少女とやさしい若者の姿も、欠片さえ見つけることは出来なかった。
元通りのナディルの部屋だ。
「ナディル? どうしたの?」
足元で丸くなっていたガガが、むくりと顔を上げる。
「夢を見たの。私の先祖の夢……」
「先祖お!?」
ガガが、あんぐりと口を開ける。
「私のおじいさまのおばあさま……。ううん、ひいおじいさまのおばあさまくらいなのかもしれないけれど。廊下の国王の肖像画の中の一人だ」
「ってことは、昔の女王さまの誰か? 女王さまの絵って、何枚かあるよね」
「うん。たぶんね。王太子って呼ばれてたから、きっと女王さまになったんだと思う。ね、ガガ。ちょっと廊下まで付き合ってくれる?」
ナディルは、ベッドから床に降りた。そして、上着を羽織る。
「まさか、廊下の絵を見に行くんじゃ……」
「当然でしょ?」
「やめようよ、こんな時間に。絵のせいで、昼間でも妙な雰囲気の廊下なのにさ」
「喋って火を噴く竜のあなたが、何を言ってるの。人間の絵なんて怖くないでしょ。ただの絵なんだから。布と木と絵の具で出来ているんだよ」
「何か情念がこもっているようで、苦手なんだよな。人間の念って、ある意味、竜なんか比べ物にならないくらい怖いものだと思うんだ」
「たとえそうだとしても、全員私のご先祖たちなんだから。静かに見守ってくれてはいても、子孫に変なことなんてしないよ」
「そりゃあ、そうなのかもしれないけどさあ……」
ナディルは、ぶつぶつ文句を言っているガガを肩に乗せ、明かりを持って部屋を出る。
薄暗い廊下には、闇に溶け込むようにして、たくさんの絵が並べられていた。
きらびやかな衣装をまとった絵の中の人々は、わだかまる闇と影のせいで、昼間とは違った別の雰囲気を持っているように見えた。
ナディルは、絵の中に描かれている先祖たちの視線をかわしながら、廊下を奥へと進む。
探している絵は、すぐに見つかった。
黒い髪を形よく結い、冠をかぶった、若く美しい女王。
その森の緑の透明な目は真っ直ぐ前を向き、口元には気品のある微笑みが浮かんでいる。
まとった白いドレスには宝石が散りばめられ、笏を手にする彼女は、女王としての威厳に満ちていた。
間違いなく彼女だ。
恋人に去られて泣きじゃくっていた、まだあどけなさを残す少女は、絵の中では大人の女性へと見事に変貌を遂げていた。
絵の下には小さな金属の板が貼られていて、そこには彼女の名前が刻まれている。
<ユーフェミア>
ナディルはその名前を声に出さずに、何度か繰り返して呟いてみた。
それから明かりをかざして彼女を見上げ、たくさんの質問を投げかける。
あなたはその後、どうやって心を静めたのだろう。
恋人に去られ、引き裂かれ傷ついた心を、どうやって?
銀の髪の恋人のことは、忘れられたの? 彼のことを思い出にしてしまえたの?
あなたを心配して追いかけてきた、あのやさしそうな男の人……。
いつか、あの人にそばにいて欲しいと思えるようになって、あの人と結婚したの?
生涯、あの人だけを愛したの?
あなたはあの人の子供を生み、あの人も私の先祖の一人になったの?
やがて、私のひいおじいさまやおじいさま、お父さまも生まれて、受け継がれるあなたの血の、枝の先の最後が私なの?
彼女は、答えなかった。
ただ橙色の温かい光に照らされ、穏やかな落ち着いた表情で、ナディルを見つめ返すだけだった。