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過去の幻 ―ユーフェミア― 1

 エリュースが出て行った後、ナディルは、再び一日中建物の中で過ごすようになった。

 開いた窓の外には、あまりにも眩い景色が広がっていた。

 彼がいないというのに、庭園は彼がいたときと同じように美しい。

 彼がいたときに咲いていた花々は、今でも生き生きと光を浴びて、頭を持ち上げている。


 なぜこんなに明るいのだろう。きれいなのだろう。

 彼の姿は、この景色の中に見つけることは出来ないというのに。

 気がつくと、頬が濡れている。

 けれどもナディルは、涙が頬を伝うに任せた。


 昼は、まだましだった。

 光がナディルを慰め、色彩が気持ちを紛らわせてくれた。

 だが、安らぎと深い眠りを与えてくれるはずの夜は、永遠にやってきそうもなかった。

 夜になってあたりが暗くなると、闇が体の奥にまで浸透し、ナディルは身動きさえ出来なくなる。

 感情が高ぶり、涙がとめどもなく流れ出す。

 ナディルは、まるで体の一部を失ったかのような、とてつもない喪失感に襲われた。

 ナディルの頭の中で、エリュースが言った言葉のすべてが蘇り、彼の笑顔が、あたたかい手の感触が、幻のようにナディルに付きまとう。


 この思いは、どこに行くのだろう。

 行き場のない心。

 彼に受け入れられず、伝わりもしないこの心は……。

 そのうち、時間の中に溶け去ってしまうのか。知らぬうちに昇華してしまうのか。

 それはいつのことだろう。

 そんな気の遠くなるような時間の彼方まで、いったい自分は耐えられるのだろうか。

 いつかエリュースのことを過去の出来事として認め、心静かによい思い出として受け止められる日が来るのだろうか。



「ナディル王女さま」


 ナディルが窓際に座ってぼんやりと庭を見つめていると、侍女の一人が部屋に入ってきた。

 彼女はナディルの様子を気にかけながらも、伝えるべき言葉を口にする。


「お妃さまが、お見えになりました」


「おや。珍しいこともあるもんだ」


 椅子の肘掛の上で寝そべっていたガガが、皮肉たっぷりという感じで呟いた。


「お会いします。お通ししてください」


 ナディルが答えると、侍女は安堵した表情をして、部屋から出て行った。


「会うの?」


 ガガが、頭を起こす。


「せっかく来てくださったんですもの。会わなきゃね。王女の礼儀として。それから、もちろん『娘』としてもね」


「ろくな用事じゃないと思うよ」


「でも、会うよ。今の私には、怖いことも心配することも、何もないんだもの」


 ナディルは、微笑んだ。



 間もなく、一人の女性が姿を現した。

 舞踏会で、アーヴァーン国王の隣にいた女性。国王の二番目の妃、ナディルの腹違いの兄弟たちの母親だった。

 背が高く、均整の取れた体。艶のある髪。手入れのされた肌には張りが満ち、年齢を感じさせない美しさがある。

 妃の後ろには侍女たち、そして数人の貴族たちも従っていた。

 貴族たちは、王位継承者として、ナディルよりも彼女の子供たちを支持する人々だ。

 妃が離宮を訪れるという話を聞きつけて、慌ててお供を申し出たのかもしれない。


「いらせられませ」


 ナディルは、丁寧に腰をかがめて挨拶をした。

 ガガが不満そうに、鼻を鳴らす。


「元気がありませんね、ナディル。かわいがっていた猫がいなくなってしまったとか」


 彼女が言った。

 上品なドレスに身を包み、垢抜けた宝飾品を付けた妃は、ナディルの前で妙に緊張しているように見えた。

 城にいるときもナディルは、彼女とは滅多に話したことはなかった。

 向こうが避けていることが何となく感じ取れたので、特に自分からそういう機会を作ることもなかったし、また周囲の人々が気を使って、二人が出来るだけ会わぬように取り計らっていたせいもある。


「きょうは、何か?」


 ナディルは、妃に訊ねた。

 エリュースを『かわいがっていた猫』と表現されたことに、ナディルは思わず軽く唇を噛みしめたが、穏やかな王女の仮面の下に、この場には余計な感情を上手に隠してしまう。


 妃は侍女たちに命じて、テーブルの上に、真珠の飾りが施された緑色の箱を乗せさせた。

 そして、箱を開ける。

 平たい箱の中には、肖像画が何枚も重ねられていた。


「それは……?」


「あなたの花婿候補たちですよ」


 妃は、微笑んだ。


「あなたもそろそろ、結婚相手を選んでもよい年頃ですからね」


 彼女は肖像画を次々と取り出しては、テーブルの上に積み重ねた。


「どのお方も皆、アーヴァーンの王女に釣り合う方々ばかり。隣国の公子さまなど、いかがかしら。年といい容姿といい家柄といい、一番あなたに似合いそうですよ。隣国なら、いつでも気軽にお父様に会いに帰って来られますし。公子さまは、この間の舞踏会にはおいでになっておられませんでしたけれどね。もちろん招待状は差し上げたのですが、何やらどうしても抜けられない大切な用事がおありだとかで……」


「あの、お妃さま。私は、まだ結婚なんて……。静養中の身ですし」


 ナディルが言うと、たちまち彼女は気分を害したように、ナディルを見据えた。


「あれだけ踊れれば十分でしょう。誰と結婚されても不都合はないと思いますよ。それとも……」


 彼女は、ふっと意地の悪い笑みを浮かべる。


「まさか、ずっと独り身で通すとおっしゃるのではありませんよね?」


 ガガがシャーッと声を上げ、口を半開きにする。

 背後の貴族たちが、身構えた。


「おお、こわい」


 彼女はそう言ったが、怖がっている様子もなく、ガガに笑いかけた。


「やはり動物を飼うなら、猫がよろしいようですね。ナディル、もう一つ嬉しいお話があるのですよ」


「嬉しい話?」


 ナディルは、眉を寄せる。


「国王陛下があなたに、お城に戻られるようにと」


 妃が言った。

 彼女は反応を窺うように、ナディルを見つめる。


「お父さまが……」


 ナディルは、眉を寄せたままの表情で、呟いた。


「元気なあなたに会われて、そう決心されたのでしょう。もうすぐお城の庭に、あなたが子供の頃お好きだったという金色の花が咲きます。その頃、戻られるとよろしいでしょう。そしてその頃には、あなたの花婿も決めていなくてはね。その肖像画をよく見て、考えておいてくださいましな」


 その後、妃は、真珠の飾りが付いた緑の箱を置いたまま、そそくさと立ち去った。

 お付きの人々も、ぞろぞろとナディルの部屋を後にする。

 すぐに部屋の中は、いつもの静けさに包まれた。


「ナディル。お城に帰れるんだよ。一応、よかったね、と言っといたほうがいいのかな」


 ガガが言った。


「そうだね……。ありがとう」


「でも、王様も能天気だよね。お城に帰ったら、ナディルの身が危なくなるかもしれないのに。久し振りに舞踏会でナディルに会って、そばに置いときたいって思ったのかな」


「お父さまは、私たちに仲良くしてもらいたいんだよ。皆で一緒に暮らしてほしいんだ」


「まあ、王様のご意向なら、お妃も逆らうわけにはいかないもんね。せっかくナディルをお城から遠いこの離宮に閉じ込めて、思う存分楽しく過ごしていただろうに、残念なこった。今度はナディルを結婚させることで追い出そうってのかな。ルビーに触る機会なんか作られないうちに、さっさとね。結婚したら、王女には王位継承権はなくなるもんね。ま、王女が生んだ子供にはあるわけだけどさ」


「年頃の娘に縁談をすすめるのは、母親として当然のことだよ」


 ナディルは肖像画を手に取り、適当に順番を入れ替えた。

 絵の中で、似たような角度で姿勢を正している貴公子たちは、何度並べ替えても全員同じ顔に見えた。

 同じ画家が同じ時期に、それぞれの城を回って、同じような要請の元、うんざりしながら同じように描いたのかもしれない。


「ナディル。何を優等生っぽいことを……。まさか、その中の誰かと結婚しちゃおうなんて、本気で……?」


 ガガはルビー色の目で、主人を見上げた。


「どうせ、いつかは誰かと結婚しなければならない。今そうすれば、つまらない争いに巻き込まれることもないし、命を狙われることもなくなる。お嫁に行った先では、大切にされるだろうしね。私がお城に帰れば、おとなしくしていた人たちも、動き出さなければならなくなる。それは、お互いのためにも避けなければ。エリュースは私に、幸せにって言った。幸せにならなきゃ」


「王女という身分の女性にとっては、それが一番幸せってことになるのかもしれない。ナディルがそれでいいってんなら、ぼくは何も言えないけどさ。でも、本気でそう思ってないでしょう? 自分に嘘をつこうとしているよ、ナディル」


「他に私に何が出来るというの? エリュースを忘れられるようなことを、他に何が?」


 ナディルは肖像画を箱に収め、蓋を閉める。


 けれども、緑の箱の中に収められた貴公子たちの肖像画は、それ以来ナディルの目に触れられることもなく、部屋の隅に置き去りにされた。

 そして、たまに暇をもてあましたガガが箱を開け、パズルのように並べて遊ぶ高級な玩具と成り果てたのだった。



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