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ある決心 ―思い出のために― 2

 その朝――。

 ナディルは朝の身支度を整え、ガガと共に中庭に向かった。

 空と同じ色のドレスに、雲と同じ色の白い半透明のショール。飾りには銀色のものを選んだ。

 空もドレスも、目に染み込むくらいに鮮やかな青色だった。 


 庭にはいつもと同じように日の光が降り注いでいた。

 色鮮やかな花たちが揺れる小さな広間には、いつもと同じように朝食が乗せられたテーブルが用意され、いつもと同じようにエリュースが待っていた。

 ただエリュースの衣装だけが、いつもとは違っていた。

 彼は、既に旅の衣装をまとっている。

 黒いマントに黒いブーツ。胸には、澄んだ音をたてる金の鈴。

 出会ったときと同じものだった。

 それは、賞金稼ぎの本来の彼の姿。貴族の衣装などよりも、はるかに彼によく似合う。

 自由にさまざまな土地を渡り歩く銀猫には、それが最もふさわしい。


 エリュースの姿を見つけたナディルは、ほっと胸を撫で下ろした。

 もし彼が、自分の知らぬうちに黙って旅立っていたら……。

 そう思うと胸が締めつけられるようだった。

 ナディルが近づくと、エリュースは立ち上がる。


「おはよう、エリュース」


 ナディルは、いつもと同じように彼に声をかけた。

 彼は、にっこりと微笑んだ。それも、いつもの彼の表情。

 けれども、朝の挨拶は、これで最後になる。

 もうここで、このトパーズ色の目も銀の髪も、そして彼の笑顔も、永遠に見ることはない。

 朝までずっと彼に抱きしめられていたのは……あれは夢だったのかもしれない。

 彼を恋しく思う自分が勝手に作り上げた、悲しい夢……。

 ナディルは、ふと思った。


 テーブルの上の朝食は、ナディルとガガの分だけが用意されていた。

 エリュースは、既に早くに済ませたらしい。

 ナディルはそのことに言い知れぬ寂しさを感じた。


「では、私は参ります。ナディル。いえ、ナディル王女。心よりあなたに感謝し、お礼を申し上げます」


 エリュースは、型どおりのお礼の言葉を短く述べた。そして、ナディルをじっと見つめる。

 ナディルの番だった。

 エリュースは待っている。ナディルの別れの挨拶。終わりの言葉を。

 ガガが、心配そうにナディルを眺めた。


 ナディルは、自分の手を握りしめる。

 唇が震えた。

 手が、全身が、凍ったように冷たい。

 声が出ない。

 だが、言わねばならないのだ。


「エリュース……」


 ナディルは、もう呼ぶことはないであろう彼の名を呼んだ。


「ありがとう、エリュース。私のほうも感謝しなければなりません。とても楽しかったです。あなたがここに来てくれて、本当によかった……」


「私も楽しかったです。夢のような日々でした」


 エリュースが微笑んだ。

 ナディルは、突然沸き上ってきた疑問をそのまま彼に投げかける。

 彼と過ごす時間を引き延ばしたかった。たとえわずかでも。


「聞かせてください。もし私が、自分で自分を守れるような人間なら……あなたのそばにいても平気な、たとえ荒野でも枯れないで生きていける花ならば、あなたは私を連れて行ってくださったのでしょうか」


 エリュースは、一瞬沈黙したあと答えた。


「あるいは……そうしたのかもしれません」


 ナディルの中で、何かが音をたてたような気がした。

 修復しようとしていた何かが。

 これは、何なんだろう。


 エリュースはナディルの頬に軽く手を触れ、ゆっくりとその手を離した。

 彼のあたたかい体温が、遠くなる。


「幸せに、ナディル……」


 彼が呟く。


 幸せに? 

 幸せに? 幸せにって?

 違う!


 心が叫ぶ。


 違う。違う……!!


 ナディルの中で何かが砕けた。


 彼が、ゆっくりとお辞儀をした。

 ナディルが今までに見たどの貴族よりも、丁寧で優雅で美しいお辞儀だった。


 エリュースのマントが、背を向ける彼に従って、ふわりと舞う。

 金の鈴が、チリーンと鳴った。

 ナディルは立ち尽くしたまま、遠ざかる銀の髪と黒いマントを眺めた。

 鮮やかな色で溢れる花々の間を、夜の闇と月の光の固まりが渡って行くようだった。


 いつか遠い昔に、こういう光景を見たことがなかっただろうか。

 当事者として、体験したことがなかっただろうか。

 そのときも自分は、去っていく恋人をただ佇んで見送ることしか出来なかったのではなかっただろうか。

 奇妙な既視感めいたものが、影のようにナディルの中を通り過ぎる。

 ナディルは記憶をたどろうとしたが、何も見つけられなかった。

 もっとも、そんなことはあるはずもないのだ。

 自分が誰かにこれほどまでに恋をしたのは、初めてなのだから。

 

 これは終わりではない。終わらない。

 自分は、彼の姿をまたどこかで見るだろう。

 いつかまた彼と話し、彼のぬくもりをきっと近くで感じるだろう。


 それは単にナディルの願いであり、望みでもあったのかもしれなかった。

 恋しい人を失って行く惨めな自分に対する、一時的な慰めであったのかもしれない。

 けれどもナディルは、その時、強くそう思ったのだった。



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