ある決心 ―思い出のために― 1
魔力を持った鏡のようにも見える月が、窓の向こうをゆっくりと移動して行く。
ベッドに身を横たえたナディルは、月を眺めていた。見えない糸で視線を縫いつけられたように。
二つの翡翠の目は人形のように無表情に見開かれ、薄闇の中に白い肌が浮き上がる。
長い漆黒の髪は複雑な波の模様を描いて床へと流れ、わだかまる闇の中へと溶け込んでいた。
ナディルは、おもむろに起き上がる。
そして、冷えた床に足をそっと伸ばし、ベッドの脇に立った。
ナディルの足元で眠っていたガガは、主人の動きを感じて目を開けた。
闇を映したルビーの目が、鏡の前でゆっくりと髪を梳くナディルをぼんやりと眺める。
「……どうしたの? どこかへ行くの?」
ナディルは黙ったまま、ガガをちらりと見つめ返した。
その思いつめたような尋常ならざる表情に、ガガは慌てふためいて飛び起きる。
「ナディル。ま、まさか……」
「止めないで」
ナディルは小さな声で、だが強い口調でガガに言った。
「いいの、それで?」
ガガが、確かめるように訊ねる。
「後悔はしない。私の思いを断ち切るためには、必要なことなの。私がこれから強く生きていくために……」
「……そう。なら、ぼくは止めないよ。気をつけて」
ナディルは頷いた。
ガガはそれまでと同じように体を丸め、瞼を閉じる。
ナディルは、鏡に映った自分を確かめるように眺め、それから上着を羽織って部屋を出た。
回廊の石の床には、月の光が貼り付けられたように降り注ぐ。
幾つもの柱の影が、その輝く平面を等間隔で切り分けていた。
ナディルは、昼とは違った距離に感じる回廊を足早に渡った。
一つの扉の前で、ナディルは足を止める。
ナディルは、鍵の束を取り出した。
離宮の女主人であるナディルが扉を開けるのは、簡単なことだった。
香を焚いたような心地よい香りが漂う。
部屋の中は暗かった。
月の光が入らぬよう、窓はきちんと覆われている。
心細いくらいの小さなランプの光だけが、微かにゆらめいて灯っていた。
ナディルは音を立てぬように、静かに進んだ。
そして、窓際に置かれたベッドへと近づく。
かすかな息遣い。
薄闇の中でさえ鈍い光を放つ、銀の髪。
ナディルは佇んで、ベッドの中の人物を見下ろした。それから静かに上着を脱ぐ。
その時、銀の髪が浮き上がり、鋭いきらめきがナディルのほうに向かって飛んだ。
剣の心得があるナディルの体は無意識に動きかけたが、ナディルはそれを封じ込める。
背中に強くぶつかってくる固い平面をナディルは感じた。
体の下には床があり、喉元には冷たい金属の感触があった。
あたたかい手がナディルの肩を押さえつけ、妖しく光る月のような目が、ナディルを真上から凝視する。
ナディルの喉には、剣の先が当てられていた。
「何者だ?」
枕元のランプが、素早く移動した。
光はナディルの姿をあらわにしたが、エリュースの驚いた顔をも照らし出す。
「ナディル王女?」
エリュースは、視線をそらさずに自分をじっと見上げる、アーヴァーンの王女を眺めた。
翡翠の目には吸い込まれるような不思議な光が宿り、肌は透明を帯びた白い陶器、唇は妖しいルビーの輝き。
そして闇よりも暗い色の長い髪は、伸ばされた翼のように彼女の体の周りに広がる。
エリュースは剣をナディルの首から離し、ランプを床に置いた。
それから、ナディルの背中を支えて起き上がらせる。
「どうされたのですか、こんな時間に?」
彼が、やさしく訊ねた。
「あなたには、もう二度と会えないから……。私の心の行き場は、どこにもありません。でも、心を静め落ち着かさねば、生きてはいけません。だから、来ました」
ナディルは、言った。
「あなたは、ご自分が何をしているのか、おわかりになっているのですか?」
エリュースは、険しい顔をしてナディルに訊ねた。
「わかっているつもりです」
ナディルは答え、真っ直ぐにエリュースを見つめる。
エリュースは眉を寄せ、短く溜め息をついた。
「ナディル。あなたは確か、まだ十五くらいでしたね」
「ええ。でも、もう子供ではありません」
「ナディル……。あなたが愛しいと思い込んでいるのは、私ではありません。あなたが誰かに恋をしたいと思われていた時に、私がたまたま現れただけです。あなたは、まだ恋というものがよくわかっていない」
「誰でもよかったとおっしゃるのですか」
ナディルの唇が震える。
「ご自分を大切にしてください。あなたは、まだこれから沢山の人と会わなければならないのですよ。その中にはきっと、私よりもはるかに愛さねばならぬ人も現れるでしょう」
ナディルは窓に駆け寄った。
そして、部屋に薄闇をもたらしていた帳を開け放つ。
月の光が窓から降り注ぎ、床に銀色の吹き溜まりを作った。
猫になったエリュースは、月の光の中にきちんと座って、ナディルを眺めた。
「私は、もう数年もしたら、どこかの国の王子だか領主だかと意に沿わぬ結婚をしなければならぬ身です。それは、王族の女性として生まれた者の定め……。あきらめるしかないことです。夫となる人を愛し愛されるなどという幸運は、万に一つのことでしょう。だから、私は今、心から好きになった人を大切にしたいのです」
ナディルは銀猫の首を抱き、そのトパーズの目を覗き込んだ。
「私は、猫に変身するあなたごと好きです。あなただから好きなんです。誰でもよかったなんて悲しいことをおっしゃらないでください。これが恋じゃなかったら、何だというのですか。私の気持ちを受け入れてください、エリュース。そうしたら私は、あなたのことを大事な思い出として胸の中にしまいこみ、ここでの生活を心穏やかに、今までと同じように続けることが出来ます」
ナディルは、銀猫の閉じられた口に、自分の唇を押し当てた。
長い口づけを受けた後、猫は黙り込んだまま立ち上がった。そして、影の中に入る。
猫の姿は闇の中へ紛れ込み、足音も息遣いも聞こえなかった。
ナディルは不安になり、月の光が入らぬように窓を覆った。
床に置かれた小さなランプだけが、部屋の唯一の照明となる。
人間の姿に戻ったエリュースは、ランプの傍に立っていた。
ナディルは彼に近寄り、その手を取った。
それから、彼のあたたかい手を自分の頬に押し当てる。
「ナディル……」
エリュースはナディルの額に、閉じた睫毛に、そっと指で触れた。そしてナディルを強く抱きしめる。
ナディルは一瞬、息ができなくなった。
体が突然熱を出したように熱くなり、戸惑うくらいに鼓動が早くなる。
しっかりと自分を保っていないと、気が遠くなりそうだった。
「ナディル。重大な決心をしてここに来た割には、震えていますね? それにあなたの目からは、今にも涙が溢れそうだ」
エリュースがナディルの顔を覗き込んだ。ナディルの体をきつく抱きしめたまま。
「それは……。だって……こういうことをするのは初めてですし……」
何て場違いな、妙な台詞を口にしているのだろう、自分は。
ナディルは恥ずかしくなる。
それからナディルは、震える手を胸元に滑らせた。
指はこごえたように固まって動かなかったが、ナディルは無理やり寝間着の襟をつかみ、するりと引く。
部屋の冷たい空気が肩と胸に触れようとした途端、ナディルの手にエリュースの手が覆いかぶさり、それ以上の動作を押しとどめた。
「いけません!」
エリュースが、叱るように言った。
その手は、ナディルの頭をやさしく抱き寄せる。
「もうそんなに緊張しなくてもいいですよ。このまま朝までこうしていましょう。ずっとこうして、あなたを抱きしめている。私にはそれで十分です」
とても静かな、落ち着いた声だった。
そしてそれが、ナディルの行為に対する彼の答えでもあった。
そのことをナディルは理解する。
「エリュース。エリュース……。私に恥をかかせるおつもりですか!?」
ナディルは、エリュースの胸に顔をうずめた。
声が震え、次第に泣き声になっていく。
「いいえ。そういうつもりはありません。あなたのお気持ちはとても嬉しいです。けれども、私はそれを受け入れることは出来ないのです。あなたは、私のようなものと深く関わってはなりません。あなたの未来のために。あなたがこれから出会う人のために」
「エリュース……。今宵だけの、ごく短い関わりも許されないのですか? 大切な思い出にするためだけの関わりも? 私は、あなたに愛されたという思い出がほしいのです」
「ナディル。私がどれだけ自分を抑えるのに苦労しているか、わかりますか?」
エリュースが、微笑んだ。
「わかりません、そんなの。あなたはとても冷静に見えるもの。悔しいくらいにきっぱりと、あなたは私を拒否したわけだもの」
エリュースは、ナディルの髪をやさしく撫でた。
「あなたをさらっていけたらどんなにいいか。何度もそう考えました」
エリュースは呟いた。
「この宮殿の庭の花を引き抜いて荒野に植え替えると、すぐに枯れてしまうでしょう。あなたもそうです。私と行動を共にすれば、長くは生きられない。私と来れば、あなたにはいつも危険がつきまとう。私の商売が商売ですからね。あなたは巻き込まれて、命を落とすかもしれない。あなたはやはり、ここにいるべきなのです」
「エリュース。私は、枯れるような花ではありません。私は……」
「ナディル。あなたの緑色の目は、私に安らぎと平和を与えてくれる。あなたの目の緑が好きです。私のようなものが望むことさえ出来ないような幸福を、あなたは私にくれるのかもしれない。だが、私はそれを守る自信はないのです。その前に、あなたをここから連れ出す決心もつきません」
連れて行って。私をここから連れ出して……。
自分が彼にそう言えば、それを強く求めれば、彼の決心はつくのだろうか。
けれども、そんなことを口にしてしまったら、彼を困らせるだけだ。
出来もしないことであるのは、彼もそして自分もよくわかっている。
だからこそ、思い出にしようとしたのに。
記憶の中に大切にしまっておこうと思ったのに……。
「かといって、私に思い出をくださる決心もつかないのですね。あなたを思い出にして、それを支えにして生きていくことさえ、私には許されないのでしょうか」
ナディルは震える声を抑えつけ、エリュースに訊ねた。
彼の答えはわかっていたが、自分の心を無理やり納得させたかった。
「あなたと深く関わって朝を迎え、何事もなかったようにそのまま旅立つことは、私には出来ません。あなたは私を思い出にするためと言われるが、私のほうはあなたへの思いがますます強くなり、断ち切ることも思い出にすることも出来なくなってしまいます。どうかお許しを……」
「では、もう少しここにいてください。もう少しここにいて、私に楽しい思い出をください……」
エリュースは、首を振る。
「なりません。それもまた、お互いに思いが強くなるだけです。私はこれ以上、ここに滞在することは出来ません。あなたは、賞金稼ぎの愛人などを作ってはならぬ方なのです」
その答えもまた、わかっていた。
涙が、止めようとしても溢れ出てくる。
エリュースの唇が、そっとナディルの唇に触れた。
ナディルは、その口づけを受ける。
彼のやわらかい唇。そして、あたたかい息を感じる。
このまま、こうしていられたら。
時間を止められたら、どんなにいいだろう。
朝など来なければいい。ずっと夜のままでいい。
けれども、音もなく気配もなく積み重なる時間は、ナディルから恋人を引き剥がす。情け容赦もなく、確実に。
流れ落ちる涙はナディルの頬を、鋭い痛みが張り付くくらいにまで、止め処なく濡らし続けた。
ガガは、静かに扉が開く音を聞いて、顔を上げた。
ナディルのことが気になって一晩中眠れなかったのだが、朝方になって、ついうとうとしてしまっていた。
明るくなりかけた部屋の中に、ナディルを抱えたエリュースが入ってくる。
白い寝間着をまとったナディルを抱きしめたエリュースは、まるで朝の光に消えかけた幽霊を抱きかかえているように見えた。
「ナディル! エリュース!」
エリュースは黙り込んだまま、眠っているナディルをベッドに横たえる。
ナディルの艶やかな黒髪は乱れ、涙のあとがわかる頬はこわばっていた。瞼は少し腫れているようだ。
「エリュース。ナディルと……?」
ガガは、遠慮がちにエリュースを見上げる。
エリュースは、首を振った。
「そ、そう……」
ガガは、ほっと安堵の溜め息をついた。
「エリュース。あなたが大人でよかったよ。ナディルもきっと、あなたに感謝すると思うよ。今はわからなくてもさ……」
「そう言っていただけると嬉しいが……。私はただ、逃げただけかもしれぬ。わが身を、わが心を守りたいがために。そして、やっかいなことから遠ざかるために。昔、私の先祖がやったことを、そのままなぞってしまっただけなのかもしれぬ……」
「先祖?」
エリュースは淡く微笑んだ。そして、ガガに言う。
「きみにナディルのことをお願いするのは、荷が重過ぎると思うが……」
「うん。ぼくはただの小さな竜だからね」
「確かに体はそのようだが、きみの中身に期待したい。彼女が幸せであるために力を貸してあげてほしい。きみが出来る範囲で」
「わかってるよ。ぼくはいつもナディルのそばにいる。離れない。守って見せるとも」
「ありがとう」
エリュースはベッドにかがみ込み、ナディルの手を取った。そしてその手に唇をつける。
ガガは、そのきれいな光景に思わず見惚れた。
ベッドで眠る黒髪の姫君と、姫君をいとおしく見つめる銀の髪の若者。
けれどもこの二人は、もうすぐ別れなければならないのだ。
姫君はこのまま、この寂しい離宮で過ごし、若者はこれまで通り、賞金稼ぎとして旅を続ける。
決して結ばれることのない二人。もう二度と会うこともない――。
エリュースはナディルの額に何度かやさしく指を触れ、それから部屋を出て行った。
扉が閉まるのと同時に、ナディルは目を開ける。
「ナディル! 起きてたの!?」
ガガは飛び上がった。
「さっきからずっと起きてるよ。エリュースの部屋にいるときからね。彼はずっと私を抱きしめてくれていたの。朝になるまで、ずうっと」
ナディルは答えた。翡翠色の瞳をどこか遠くにぼんやりとさまよわせながら。
「夜這い、失敗……だね。でも、よかった。ぼくはエリュースにお礼を言う。よく出来た人だと思うよ」
「よくないよ……」
ナディルは、呟いた。
「彼は私を拒否したけど、私のことを思っている。自分の心から目をそらし、ごまかそうとしている。ずるいよ。それに、何? あなたに私のことを頼むなんて? 力を貸してあげてほしいですって? あなたはただの飼い竜じゃない」
「うん……。そう……だね……」
ガガは、絞り出すような声を出して同意し、うなだれた。
「私の心は静まらない。どこに持っていけばいいの? この猛り狂うような、いまいましい心は。この苦しい胸の内は、いったいどこへ……?」
ベッドにうつ伏せになって押し殺すように泣き始めたナディルを、ガガは成す術もなく、ただ見つめるだけだった。