語らい 1
ゼノアの町を後にしたナディルたちは、カジェーラの城を目指して、日が落ちるまで馬を進めた。
「今夜はここで野宿です。夕食にしましょう」
ナディルは森の中の、木々の間に出来た平らな場所を選んで、馬を降りる。
手早く火を起こし、ナディルは、ゼノアで仕入れてきた食品の数々をフィリアス公子の前に並べた。
固めのパンに水、芋を薄く伸ばして焼いたもの、乾燥させた肉という、旅人には一般的な組み合わせの食事だった。
フィリアスのために、普段は含まれない果実酒も追加されている。
ガガは、さっそく肉にぱくついた。
フィリアスも少しためらいながら、黙って食べ始める。
「もしかして、こういうの初めてですか? 野宿も?」
ナディルが訊ねると、彼は首を縦に振った。
「いつもは宿に泊まっていましたからね。食事もそこで済ますか、町で食事が出来る店を見つけるか……」
「高級なところを選んで泊まってそうだなあ。食事だって、こんなみみっちい内容では公子さまの口に合うわけないもんな」
ガガが呟いた。
「すぐ慣れますよ」
ナディルは微笑む。
「あなたも慣れるのに大変だったんじゃないのですか? こういう生活に」
フィリアスが訊ねた。
「深窓の姫君だったわけでしょう、ずっと。それが賞金稼ぎだなんて」
「まあ、少しは」
ナディルは言ったが、実際あまりつらいと感じたことはなかった。
自分で選んだことであり、最初から覚悟の上のことでもあったからだ。
質素とはいえ、それなりに栄養を考えた食事で十分だし、野宿をするときに敷く落ち葉は適度に柔らかく、いい香りがして、結構寝心地はよかった。
食事が一段落すると、ガガは木に登り、手頃な枝を見つけて長々と体を伸ばした。
ナディルはフィリアスに、手のひらに乗るくらいの薄緑の実を差し出す。
「どうぞ。オーデルクの瓜です」
「ありがとう。何だか懐かしいな」
フィリアスは瓜を受け取ったが、そのまま困ったようにそれを見下ろしている。
「何か?」
「その……。どうやって食べるのですか?」
ガガが、つかまっている木の枝から、ずり落ちそうになった。
「皮をむいて食べるんですよ?」
ナディルは、小刀をフィリアスに渡す。
フィリアスはそれを瓜に、ぐさっと突き刺した。
「まさか、皮をむいたことがない……とか」
ガガは木の枝にしがみついたまま、麗しき貴公子を見下ろした。
「オーデルクの瓜だぜっ、オーデルクの公子さま?」
「その……いつもこれは、むかれて盆に乗せられた状態で出されていたものですから」
フィリアスが、恥ずかしそうに言う。
「情けないやつ」
ガガが、溜め息をついた。
「あんた、剣のほうは、かなりの使い手なんだろうが」
「公子さまだから仕方がないですよね。そういうこと、普段する必要がないもの」
ナディルはフィリアスから瓜を受け取り、鮮やかな手つきでむき始める。
「でも、ナディルはお城にいた頃から、果物の皮ぐらいはむけたけどな」
ガガは言って、再び木の枝に長々と体を横たえた。
フィリアス公子は、瓜の皮をむくナディルの横顔を眺めた。
短く切られた漆黒の髪が、美しい影を描いて頬にかかる。
「エリュースのことを話してくれませんか?」
ナディルは『エリュース』という言葉に、びくりとして顔を上げた。
「うわ、本当に聞いてやがる……」
ガガが、木の上から呟く。
「自分で聞けと言ったのは、ガガくんでしょう?」
フィリアスは、ちらりとガガを見上げて続けた。
「ナディル。あなたの目はいつも遠くを見つめている。心がここにないようだ」
ナディルは翡翠色の目をフィリアスに向けた。その目は、無表情なガラスのように見える。
「それは当たっているかもしれません。私の心は、常にエリュースを探しているのですから」
「あなたはエリュースのことしか目に入らないのですね。あなたは現実を見ていません」
「現実?」
ナディルは表情を変えず、皮をむいた瓜を六つに切り分ける。
「私がここにこうしていることも、賞金稼ぎをしていることも、現実ですよ。あなたの依頼をお引き受けしたこともね。でも、二年前から……彼がいなくなった時から、熱に浮かされているような感じはします。彼と過ごした時間が現実で、この二年間が夢のような、そんな気もするのです。そして、今度彼に会ったとき、再び現実が始まる。そんな気も……」
ナディルはフィリアスに、切り分けた瓜を差し出した。
「エリュースに会ったら、どうするおつもりなんですか?」
フィリアスが、瓜を受け取りながら訊ねる。
「……わからない」
ナディルは、木々の間にわだかまる闇を見つめた。
「彼についていくのではないのですか?」
「わかりません。彼が私を受け入れてくれるかどうかも不明ですから。彼は私を置いて行ってしまった。私が追いかけてきたことを迷惑がるかもしれないし、私のことを覚えてくれているかどうかも定かではありません」
フィリアスは、眉を寄せた。
「あなたとエリュースは、相思相愛ではないのですか?」
「もちろん相思相愛だったさ。ナディルは悪いほうに考えすぎているだけだよ。エリュースがナディルのことを忘れてるなんて、そんなことあるもんか」
ガガが言う。
「彼は、私を連れて行きたいと言ってくれました」
ナディルは、うつむいた。
「やさしく私の髪を撫でてくれたし、私の目を見ると心が安らかになると言ってくれました。そして、泣いている私をずっと抱きしめてくれました。彼が緑色を好むのは、私の目が緑だから。そう信じます」
「だが……もしエリュースがあなたのことを忘れていたら? あるいは、旅の途中で出会う他の多くの女性と同程度にしか、あなたのことを思っていなかったとしたら? あなたの二年間は、全くの無駄だったことになる」
フィリアスが言った。
「そうなったら、まだ賞金稼ぎを続けるのですか? それとも、おうちに戻られるのですか?」
「おうちに戻ってもなあ。命の危険があるもんな、ナディルは。殺されるかもしれないんだよね」
ガガが呟く。
「え? 何ですって?」
フィリアスの顔が、こわばった。
「それはだいじょうぶです。自分の身くらい自分で守れる自信はありますから。家に戻るかとか、今の仕事を続けて行くかとかも、その時になってみないとわかりません。でも、エリュースが私のことを忘れていることを知ったら、私のこの二年間は、一瞬のうちに溶けてなくなるかもしれませんね。そして、今の私も……」
「え……」
フィリアスが、不安げにナディルの様子を伺う。
「自分の一番好きな人に存在を忘れられる……。そんな悲しいことはありません」
ナディルは呟いた。
「彼が、思い出にすることさえしないで私の存在を忘れてしまっていれば、私は絶対に彼を許さないでしょう」
「許さない? それは、まさか彼を……生かしておかないということですか?」
フィリアスの手から瓜の切れ端が、ぽとりと落ちる。
ナディルは微笑んで、首を振った。
「そんなことしません。彼のこと、好きだもの。ずっと生きていてほしい。たとえ私を忘れていたとしても。でも、彼に忘れられた私は……」
「やめてくださいっ!」
フィリアスが叫んだ。
「エリュースを探すのは、もうやめてくださいっ! カジェーラの城へは、私ひとりで行きます!」
フィリアスは、ナディルの両肩をつかんだ。
紫の目が、驚くナディルの間近に迫る。
「あなたは自分をしっかり見るべきです。エリュースを通してではなく、自分で、自分の力で世界を見るべきなんだ。もっと自分を大切にしなさい。彼への思い込みに翻弄されずに行動してください。あなたを置いて去ってしまったエリュースのことなど、あなたのほうから忘れてしまいなさいっ!」
「……」
ナディルはしばらく、フィリアス公子の真剣な表情を見つめた。そして、彼を安心させるように穏やかな笑顔を作り、ゆっくりと彼の手を肩からはずす。
「自分を大切にしなさい……。エリュースもそう言いました。もう少し時間がたてば、彼のことを忘れられるのかもしれない。完全に思い出にしてしまえるのかもしれない。でも、今はだめです。私の心は、まだエリュースを追いかけているから。私の心をなだめるには、まだ時間が必要なんです。私がこうして旅をしているのは、エリュースを探すためではなく、自分の心を落ち着かせるため、自分を取り戻すため、彼を忘れるため。本当はそうなんだと思います」
「では、あなたがもっと冷静になり、完全に自分を取り戻すまで、エリュースが見つからなければいい。本気でそう思いますよ」
フィリアスが言う。
「ありがとう、公子さま。心配してくださって。だいじょうぶです。私はどうあろうと、きっとたくましく生きていくと思いますから。たとえどんな未来であろうと、私の大切な未来ですものね。気弱なことを言ってごめんなさい。いったんお引き受けした以上は、あなたに同行します。ひとりで行くなんて、おっしゃらないでください」
フィリアスは軽く溜め息をついて、元の位置に腰を下ろした。
「あなたがそれほど思っておられるのに、エリュースはそのことを知りもしない」
「仕方ありません。私が勝手に追いかけてきたのですから」
「ナディル。私はあなたが少しうらやましくもあります」
フィリアスが言った。
「うらやましい? どうしてですか?」
「それほど一途に、ひとりの男を好きになれるなんてね。それまでの生活を捨てて、追いかけるくらいに。私にはあなたのような恋は、一生出来ないでしょう。そして、私をそれほどまでに恋焦がれてくれる女性もまた、現れないでしょうね」
「オーデルクの公子さまには、そのほうがいいんだよ。そのほうが幸せだ」
ガガが、呟く。
ナディルは体にマントを巻き付け、地面に横になった。
「フィリアス公子。あなたのおかげで、今夜はほんの少し心安らかに眠れそうです。ありがとう」
ナディルは言って、目を閉じる。
フィリアスは、少年のように見える黒髪の姫君を見下ろした。
何と無防備に眠るのだろう。まるで自分のベッドにいるようだ。彼女は誰からも守られていないというのに。
これもまた、人を思う強さなのだろうか。
「あんたも眠ったら? 明日は朝早くに出発するからね。ぼくが見張りをしているから、だいじょうぶ。ま、こんな森の中じゃ、何も来やしないだろうけど」
ガガが、木の上からフィリアスに言う。
「いや。私はもう少し起きている。きみは眠るといい。私が代わりに見張りをしているよ」
「そ? では、遠慮なく」
ガガは木の枝から降り、ナディルの横に体を丸めた。それから思い出したように、フィリアスを振り返る。
「まさかぼくが眠っている間に、『翡翠のナディル』に手を出そうなんて思ってるんじゃないだろうな?」
「じょ、冗談じゃない。そんなこと、考えてもいない」
フィリアスが、慌てて言う。
「だろうな。ナディルの腕は実践を積んだ分、あんたより上だしな」
ガガは再び体を丸め、頭を自分の背中に乗せた。
「……エリュースというのは、それほどの男なのですか? この姫君が焦がれるほどに……」
フィリアスが訊ねる。
「少なくとも、オーデルクの瓜の皮は上手にむけると思うな。性格は、あんたのほうがいいかもしれないけど」
ガガが答えた。
「そう……。それはよかった」
フィリアスは微笑んだ。
それから、眠っているナディルをしばらく見つめた後、ひとりごとを言うように呟く。
「オーデルクにはね、伝説があるのですよ。銀の猫と一緒に消えてしまったお姫さまの話が……」
「……ふうん? ナディルもそうだよね。銀の猫を追いかけてきたとはいえ、外から見ると一緒に消えたってことになるもの」
「案外お姫さまは、こんな感じでこういう所にいたのかもしれませんね……」
「そのお姫さまが、幸せになってたらいいんだけどね」
やがて、ガガのルビーの目が閉じられる。
フィリアス公子は木に寄りかかり、ふけて行く夜の森の静けさの中で、ゆらゆらと揺れる緋色の炎を、いつまでも眺めていた。